井戸
95.井戸
幼い頃、田舎のお婆ちゃんの家の裏山で、つくし採りをしていて、気が付いたら山奥に迷い込んだ事があった。
鬱蒼とした山林の合間に少し開けた平地が見えて、私はとりあえずそこに向かった。その時はまだ自分が遭難しかけている事にも気が付かず、陽気にしていたと覚えている。
そこには、朽ちて傾いた廃屋が一件と、古い井戸がぽっかりと口を開けていた。
古い石造りの井戸に近付いて中を覗き混んでみると、深淵のような円形の暗闇が何処までも続いている。
怖くなって顔を引っ込めてその場を離れかけると、微かに「たすけて」と聞こえてきた。
凄く迷ったが、幼いながらに正義観の達者だったらしい私は、もしあそこに人が落ちてしまったのなら、誰かに教えてあげなくちゃ、と感じて怖いのを我慢しながらソロソロと井戸に近付いていった。
拳を握りしめ、再び思いきって井戸の暗闇に顔を覗かせると。
先程まで漆黒のように真っ暗だった井戸の奥に、真っ白い顔が見えた。
そしてそれは不可解な事に、井戸の円形いっぱいの巨大な顔面で、遠く離れているのにすぐそこにある様に感じた。
青白い巨大な顔面が、私に向かって大きな口を開けて
「アハハハハハハハ!!」
と甲高い声を上げた。井戸の奥から無数に反響したその笑い声が恐ろしくて、私は一目散に山を駆け降りた。
おじいちゃんに事情を話して、その井戸を捜してもらったが、それは二度とは見つからなかった。




