巨顔
80.巨顔
小学校三年生の夏休み。二週間の間、田舎のおじいちゃんの家に泊まった事がある。これはその十三日目。都会の自宅に帰らなければならない前日、夕暮れの出来事だった。
麦わら帽子姿で、虫取網を持った私は夕暮れの田舎をオレンジ色に照らされて走っていた。
おじいちゃんに「日がくれる前には必ず家に帰るんだよ」と言われていたのに、こんな時間になってしまって焦っていたんだったと思う。
私が門限に遅れそうになっている理由は、偶然公園で出会って仲良くなった、千代ちゃんと話し込んでしまったからだった。
千代ちゃんはおかっぱ頭の小さな子だったけれど、私と一緒に虫取をしたり、川の浅瀬ではしゃいだりして、とても仲良くなった。私が帰る最後の晩に、千代ちゃんは涙を流して別れを惜しんで、「いかないで、いかないで」と私を必死に引き留めた。その懇願の仕方が激しくて、少し異様でもあったが、その時の私はそうは思わなかった。私は腕にしがみつく千代ちゃんに、来年も絶対にここに来ると約束して、その場を後にしたのだった。
少し前に千代ちゃんの事をおじいちゃんに聞いてみた事がある。けれどおじいちゃんは千代ちゃんが何処の子なのかわからないと話した。おじいちゃんの家のある田舎は小さな集落なので、知らないという事は、私と同じようにここに遊びに来た何処かの家の孫娘だろうと言っていた。
――けれど千代ちゃんは私に、ここが彼女の生まれ育った地元なんだと話してくれた。
何処の子なのかもわからなかったけれど、私たちは来年またここで会うことを誓いあった。そしてお互いに涙ぐんだりしているうちに、すっかり夕刻になってしまったのだった。
田んぼの畦道を駆け抜けて、細い車道に乗り上げると、山に並んで続いた一直線のアスファルトを走った。
次第に日は暮れてきて、辺りを薄闇が満たし始めた。私は走るのに疲れてしまって、方々で虫が鳴くのを聞きながら歩いていた。
程無くすると川の流れる轟音が耳に届いた。そうして顔を上げると、真っ赤で小さな橋が川の上を通っている。
この橋を渡ると直ぐにおじいちゃんの家があるので、私は歩く速度を緩めて息を整えた。
おじいちゃんちは相当な田舎で、街頭もほとんど無く、赤い橋に差し掛かる時には薄闇が私を取り囲んでいた。
足を踏み外さない様に目を凝らしていると、ぼんやりと、赤い橋の先に白っぽい物が見えた。
何だろうと思って立ち止まると、その白っぽい得体の知れない物はこっちに向かってきている様で、次第に大きくなってきた。
霧か何かかな、なんて呑気に考えながらそちらを眺めていると、赤い橋の向こう側に、歩道いっぱいになる程の真っ白い巨顔が見えた。
ギョッとしたが見間違いかと思って、私は足を止めてそちらを見ていた。
すると、赤い橋の幅いっぱいに広がるとても大きな大きな白い顔が、私を見ながらぱちくりと瞬きをした。
「イヤッ!」
思わず叫んで虫取網を投げ出すと、その巨顔は物凄い速度でこちらに詰め寄ってきて、私の目の前にまで迫った。私の全身の三倍くらいにもなる大きな顔で、頭から下は見えなかった。
黒い髪のおかっぱ頭の巨顔はそうして「いかないで」と大きな口を開いて、スッと消えた。
腰を抜かした私は、程無くして私を捜しに来たおじいちゃんに抱えられて帰った。
その次の年、私はおじいちゃんの家に行かなかった。
今考えても恐ろしいあの道を塞いだ生首は、身元のわからなかった千代ちゃんに酷似している事だけは覚えている。




