断崖にかけられた手
断崖にかけられた手
私が一人で東北を旅行していた時にあった話です。
とある断崖絶壁の並ぶ観光地に私は訪れていました。
日和は良く、雲ひとつ無いうえに平日なので、人は少なくてガランとしていました。正面には遥かまで続く青い日本海が日差しを反射して煌めいています。
足元に目をやると、険しい岩壁が続いていて、高さ何十メートルにもなる垂直の崖が先にありました。
「なにあれ?」
視力の良い私は、その一番先にある垂直の崖に、岩肌とは明らかに違う色の物が見えている事に気が付きました。
「手?」
目を凝らしてみると、それは垂直の崖にかけられた手の様で、私はゾッとしました。
しかし、ここは自殺の名所としても有名な場所です。もしかしたら誰かが飛び降りかけて、途中で怖くなってあのような格好になったのかもしれません。
看護師をしているので、職業柄でしょうか? 私はその崖まで走り寄りました。
近付いてくると、やはりそれは人の手のようで、伸びた指先のぼろぼろになった爪までハッキリと見えました。
いよいよ目的の崖にまで辿り着くと、私はソッと崖から頭を覗かせました。
今の今まで確かにあった肌色の手の主の姿はなく、そこには高い崖に打ち付ける激しい波しぶきがあるだけだった。
「きゃっ!」
何かに腕を引っ張られて、私は危うくその崖から落ちそうになった所を四つん這いになって踏み留まった。
そして咄嗟に頭を上げると、私の目の前、崖っぷちに黒くくすんだ両の手がかけられていた。
私が目を見張っていると、その手がズズ、と崖の上に這い上がって来て、次第にその手の主が見えてきた。
「キャアアアアッ!!」
長く黒いボサボサの髪を振り乱した髪に埋もれた女が這い上がって来て、私は絶叫した。
その女は、体をズリズリと這わせながら、崖っぷちに肘をついた。いよいよ這い上がって来るつもりらしい。
私は体が固まってどうすることも出来なくなっていた。もう終わりかと思った矢先に、私の両脇は抱えられ立ち上がった。
「君! こんな所から飛び降りてはいかんぞ!」
観光客の中年男性が、勢いよく飛び出して崖っぷちに向かった私を心配してついてきたらしい。
私が絶句しながら崖に視線を戻すと、女は居なくなっていた。
あの化物が何だったのかはわからないが、もう二度と高所の観光地には近付けなくなった。
またあの手がかけられていたらどうしようと考えてしまうからだ。




