ピンクババア
ピンクババア
僕の地元に居たピンクババアの話をしようと思う。
中学生になって今の町に引っ越すまで、僕は団地に住んでいた。
石の塔が無数に建ち並んだその住宅街には時折『ピンクババア』が現れたんだ。
ガラガラと何かを引きずる様な音がすると、僕らは目を見合わせて怖がった。
ピンクババアは誰も乗っていないベビーカーを押して、僕らの遊んでいる公園だとか、路地裏だとかに現れる。
白髪混じりの長い頭髪は、糊を頭から被ったみたいに固まってコワゴワになっていて、その上にピンクのハットを被っていた。服も派手なピンク色のワンピースだったけれど、その所々が茶色くなってて汚かった。
基本的にはピンクババアは僕らに何もしなかった。ただこちらを見つめながら、ガラガラと壊れかけたベビーカーを押しているだけ。
一度コンビニでも姿を見たことがあるが、カゴに大量の駄菓子を入れては棚に戻し、入れては棚に戻しながら店中をぐるぐる回って、もの凄い異臭を店内にばらまいていた。
ピンクババアは何をするでも無いのだけれど、どうみてもその姿は異様だから、僕らはピンクババアを見ると気味悪がって一目散に逃げ去った。
――ただ不思議なことに、僕ら小学生の間ではこんなにも有名なピンクババアなのだが、大人たちは誰一人としてその存在を知らなかった。
そしてある時、無害だと思っていたピンクババアが、突如として僕らに牙を向いた事があった。
その日僕らは、いつもの公園で鬼ごっこをして遊んでいた。そこにガラガラとベビーカーを押す音が聞こえてきた。
みすぼらしい格好のピンクババアが公園に入ってきていたのを、僕以外の友人はすぐに気が付いて逃げていった。
しかしピンクババアを背にした格好の僕は何が起こっているのかわからず、その場に立ち尽くしていた。
「みんなどうしたの?」
僕がそう聞くと、公園の端の方に固まった友人たちが「うしろーー!!」と叫んだ。
振り向くと、ピンクババアがベビーカーを押して僕に真っ直ぐに向かってきている。
腰を抜かした僕は尻餅をついて、そこから動くことが出来なくなった。
ピンクババアは歯の抜けた口元を歪ませながら僕の目の前にまで来ると、こう言った。
「たかしぃー」
しわくちゃの顔で僕を見下ろしながら、黒くなった掌を僕に近付けて来る。
――するとその時、偶然僕のお母さんが、公園の前を犬を連れて散歩しているのが見えた。
助けを呼ぼうとしたけれど声が出ないので、必至にそちらを見ていると、お母さんがこっち気付いて振り返った。
だけどお母さんはにこやかに手を振るばかりで、そのまま歩いていってしまった。
――どうして? 僕はそう思いました。
僕の頭にピンクババアの汚れた掌が置かれた。するとたちまちに魚を腐らせた様な強烈な臭いが鼻を突いたのを覚えてます。そうしてピンクババアはにたにたと笑い。
「一緒に帰ろうねぇー、たかしー」
と言って、僕の手を引いて引き起こそうとしたのです。
ぐわんぐわんと引っ張られ、我に返った僕はピンクババアの手を振り払いました。
「僕はたかしじゃない! あっちにいけ!」
やっと出た声でピンクババアを威嚇した。
するとピンクババアはみるみるとその表情をひきつらせていき、わなわなと口元を震わせて、鬼のように目をつり上げて顔を赤くしていった。
「たかし! たかしぃい! たかしぃい!! 帰るんだよぉ!」
怒り狂ったピンクババアは、未だに尻餅をついた体勢の僕の頭を力一杯にわし掴んで、引きずろうとした。
「痛い! やめろー!」
髪を引っ張られて泣き叫んでいると、公園の端にいた友人たちが僕を助けにこちらに駆けてきた。
それを見るとピンクババアは「迎えにいくよ」と静かに言って、元来た道を帰っていった。
ガラガラとベビーカーを押す音が遠くなっていく。
「大丈夫かよ!」
「遅いよお前ら」
泣きべそをかいてピンクババアの方を見ると、その姿はもうどこにも無かった。
家に帰ると、台所に向かって僕は走った。顔を真っ赤にして味噌汁の味見をするお母さんにさっき助けてくれなかった事を怒ろうとすると、僕よりも先にお母さんは言った。
「あんた一人で公園に座って何してたの」
玄関の方から、ガラガラと何かを引きずる音が聞こえてきた。




