呟く女
呟く女
夜の八時頃、私が帰宅する頃になると、うちのアパートの前の電信柱の影に女が佇んでいる。
ワインレッドの中折れ帽を深く被ったその女は、うつ向いた姿でいつもそこにいる。
始めは見ないようにしていたが、こう毎日毎日居ると否が応にも意識してしまう。帽子と同じワインレッドのワンピースが電信柱の影でそよいでいるのを毎日確認するようになってしまった。
ある日私は、その女が何やらぶつぶつと囁いているのに気が付いた。そうすると更に不気味に思ったが、女の口調が徐々に大きくなっているのか、私が耳を澄ましているのか、日毎にその女の呟いている言葉が断片的にわかってきた。
「顔が」
「包丁で」
「潰して」
物騒な単語や人の名前を呟いている事に気がついて、私はうすら寒い気になった。
女の横を通りすがるときに、チラと中折れ帽の下の女の横顔を盗み見た。頬は酷く爛れていて、ジュクジュクと膿んで汁を噴いていた。
なんて気味の悪い人だろうと心の中で思いながら、私はアパートに帰った。
次の日も中折れ帽の女は闇の中で立っていた。こちらも悟られない様に静かに歩いて女の横を通りすぎようとする。
女の横を通り過ぎて直ぐに、ぶつぶつと呟いていた女が、これまでにない一際大きな声で、ハッキリとこう言った。
「ナカガワミヤコ!」
私の名だった。
ゾッとして目を見開いた。冷たい汗が私の背中を伝い始める。
咄嗟に振り向くと、女は体は正面のまま、首だけを半回転させてこちらに振り向いていた。
「かおをつぶしてほうちょうでめったざしにしてやる」
つらつらと早口で女はそう言った。中折れ帽の下の爛れた唇が強烈に裂けていくのが見えた。
青くなった私は全速力でアパートに戻った。
直ぐに警察に電話したが、あの中折れ帽の女は既にいなくなっていた。それ以降も現れなくなった。
後日彼氏にその話をすると、青ざめて「すまん……すまん……」と言って項垂れ始めた。
どういうわけだか話を聞いていくと、五年前に私と付き合うために、それまで交際していた彼女とひどい別れかたをしたことがあったそうで。
癇癪を起こしたその女は、恨み言を延々吐きながら彼の前で鍋の中の熱湯を頭から被ったそうです。
一命はとりとめたそうですが、女は顔にひどい火傷を負ってしまい、それを気に病んでおかしくなってしまって精神病院に入院したんだとか。
彼はそれ以後彼女には会いませんでした。そして五年もの月日が経過すると、徐々にその女のことも忘れてしまっていた様でした。
その女はよくワインレッドのワンピースと中折れ帽を被っていたのだとか。だから彼は電信柱の影に佇む女は、その女の事だと思ったそうです。
「退院してたなんて……」
私を正面にして話す彼。それを見ながらに、私はその女が退院して私の前に現れたのではない事を察しました。
私に向かって必死に話す彼のすぐ背後のベランダの窓に、顔の爛れた女が白くなった目を見開きながら茫然と立っていました。
ここはマンションの五階でベランダは隣と繋がってなどいません。
私は卒倒した。
そして後日、彼にその事は話さずに別れを告げた。




