テテテ様
テテテ様
禁足地というものが俺のアパートの近くにあった。
とは言ってもただの昔からの言い伝えで、その雑木林の半径は、精々で二十メートル程しか無かった。
だがこの町の人たちは余程に信心深いのか、近所でその雑木林の話を持ち出すと、判で押されたみたいに皆決まって「絶対に入ってはいけないよ」と言うのだった。
ある老婆など「テテテ様に追われるでよ」などと意味のわからない事まで嘯いていた。
俺が去年にこのアパートに越してきてからは、皆こぞってこの話を俺にした。大家のじいさんなんて俺に部屋の紹介をする前に開口一番その話をしてみせた。
そんな言い伝えの様な話を何故この町の人々が馬鹿正直に信じているのかが、俺にはわからなかった。
わからなかったが、郷に入れば郷に従えという事で、俺は黙って皆の話に頷いていた。町民との関係性をいきなり崩すような真似をする理由も無かったし、俺は言われるがままその雑木林は通らなかった。
ある日の晩、大学の飲み会で遅くなった俺は、一人千鳥足でその雑木林に差し掛かった。
――明日は一限から講義があるから、早くアパートに帰りたいなぁ
俺はいつもその禁足地とされる雑木林をぐるりと回ってアパートに帰っていたが、どう考えてもここを真っ直ぐ突っ切った方が早く帰れることはわかっていた。
時刻は深夜一時。辺りを疎らに照らす街灯の下に人の気配はない。
大酒を飲んですっかり気の大きくなった俺は、くるりと方向転換してその雑木林に足を踏み入れた。
――なんだ、やっぱりただの薮じゃないか、変わったところなんて一つもない。
なんて思いながら、がさがさと草木を分けて歩いていると、程無くして木々の隙間からアパートの明かりが見えてきた。
俺は陽気になって鼻唄を歌いながら、夜の静かな薮の中を明かりに向けて歩いた。
「ん?」
鈴虫の鳴く闇の中、近くで何かが草木を揺らした。
音のした辺り、生い茂った方を目で追っていくと、
――ガサガサガサ
五メートル程先の大木の足元辺りの草花が強く揺れた。
何か大きな動物だろうかと思いながら身構えてそちらを見ていると
草花の揺れがこちらに向かって来ている。
俺は走った。動物の気配のする草花から離れ、アパートの明かりへと向かって。
俺が激しく草木をかき分けるガサガサという音に混じって、後ろからも同じ音がする。それを聞いて直ぐに追われている事がわかった。
「ハァハァ! ハァハァ」
俺はその雑木林を脱け出すことが出来た。薮沿いのアスファルトの車道にまで出て振り返ると、腰ほどの高さの草の真ん中辺りに、白いのっぺりとした顔と、前に突き出して地面に付いた細長い腕が見えた。
――――ひっ人!?
驚いて凝視すると、そいつは空洞になった両の目を大きく開きながら、昆虫のように妙に細く長い腕を前についた。雑木林の端の、道路に面した腰ほどの高さの草の中からひょっこりとその不気味な顔を出してこっちを見つめている。
訳もわからず俺が後退ると、そいつは大口を開けて舌を激しく上下に動かした。
「コッコッコッコッコッコッコッコッコッコッコッコッ」
と人が口腔内で舌を鳴らすような、俗にいうクリッカー音みた様なのをその虚空の眼で俺を見つめながら激しく繰り返す。
呆気にとられて尻餅をついていると、そいつは頭の高さを変えずに、細長い腕を交互に上げてゆっくり引き返していった。帰り際に同じように細長い足のような物が草の隙間から垣間見えて、そいつが四足歩行だという事がわかった。
腰の抜けた俺は、そこからしばらく身動きが取れなかった。
以後俺は町の人間から白い目で見られるようになり、厄介者のように扱われるようになった。
あの日の事は町の人には話していないのに。
今日の帰り道、見も知らぬ男に真っ直ぐな黒い目でこう言われた。
「話したら殺す」
スーパーで買い物をしていると、いつしか背後に立っていた店員のおばさんに、無表情でこう言われた。
「話したら殺す」
人のごった返した駅の改札機の前で抑揚の無い声が耳元で言った。
「話したら殺す」
恐ろしくなって俺はその町を出た。




