妖怪『うわん』
妖怪『うわん』
妖怪というのを信じている人がどれだけいるだろうか? 私は幼い頃に鏡越しに見た異形の生物が、最近になって妖怪ではなかったかと思い始めた。
先日の町の大きな本屋で時間を潰していた時に、偶然に手に取ったその図鑑に載っていた妖怪『うわん』
図鑑には両の三本の指を振り上げて、赤い眼を見開いた鬼が記されていて、概要欄に『「うわん」と奇声を発して人を驚かせ、腰を抜かした隙に魂を奪い去っていく妖怪。「うわん」と鳴かれた際に「うわん」と言い返せば逃げていく』という何とも馬鹿らしい妖怪という事で、一笑に付していたのだが、最近になって思い出すと、どうにも幼い頃に見たあの生物がその妖怪『うわん』だったのではないかと思い始めたのだった。
私が幼稚園に通っていた位の記憶なのだが、その日私は必ず母親と一緒に入っていた風呂に、一人で入るという初めての冒険をした。
一人で浴室に入ると、浴槽の手前にバスチェアがあって、その正面に大きな丸い鏡がある。
ドキリとした私だったが、勇気を出して体を洗うことにした。
バスチェアに座ると、正面の鏡を見ないように見ないようにと俯いて、そのまま足元の桶で浴槽の湯を掬って頭を濡らした。
シャンプーハットをつけてカッパの様になった私は、シャンプーハットを付けているのに固く目を瞑ってシャンプーをしていた。
しかし不思議なことに、目を瞑ってしまうと余計に正面の丸い鏡が恐ろしく思えてきて、しまいには再び目を開ける事が出来なくなってしまった。
目を開けた先に、テレビで見た長い髪の女が立っている気がして、怖くてたまらなかった。
頭に泡を乗せたまま固まってしまった私だったが、耳元から突然に「うわん!」と大きな犬のような声がして、びくりとして目を開けて正面の鏡の方を見た。
シャンプーハットの上に沢山の泡を乗せた私のすぐ隣で、私の背丈の半分くらいの、三本指のハゲ頭が、私と一緒に正面の鏡を不思議そうに見ていた。
鏡が越しに目が合うと、そいつはのそのそと居住まいを正して、申し訳無さげな表情で両腕を振り上げてみせた。垂れた小さな目を精一杯に見開いている。
「うわぁぁ~ん」
驚いて大きな声を出して泣き始めた私の声を聞くと、その小さなハゲ頭は三本の指で頭を抱えて「ひぃぃいいー」と言って目を伏せて走り去っていった。
風呂から飛び出した私は母親に今見たものを説明したが、キョトンとした表情をするばかりだった。その様子を見るに「うわん!」というあの大きな声も聞いていない様子だった。
図鑑で見た妖怪『うわん』とは迫力が違ったが、あれは妖怪『うわん』に違いないと私は思う。




