合わせ鏡
合わせ鏡
幼かった頃の僕はある時、洗面所にある三面鏡を向かい合わせると、そこに幾重にも重なりあった鏡の世界が映ることに気が付いて、それがなんだか面白くて、暇さえあれば洗面所の三面鏡の前に立ち、ただぼんやりと無限に続くそれを眺めていました。
ある日、突然に大好きだったおばあちゃんの急逝を知らせる訃報が我が家に届きましたので、僕は何がなんだかわからず学校を休まされて、遠方のおばあちゃんの家にまで車で連れていかれました。
おばあちゃんが死んだと言われても実感の湧かなかった僕でしたが、棺桶に眠る赤いお気に入りのセーターを着た頬のこけたおばあちゃんを見ると、幼いながらにおばあちゃんの死んだ事に実感が湧いてきて、大きな声で泣きました。
遠方で一年ほど会っていませんでしたが、僕の知っていた丸々と肥えて、大きな眼鏡を光らせながら笑うおばあちゃんの姿はもう無く、すっかりと痩せこけて、いくら話し掛けてももう僕に笑いかけてくれませんでした。
生白くなって動かない顔を見ていると、何だか怖くなってきて別人のようにも思えましたが、冬場にいつも着ていた赤いセーターが、この人がおばあちゃんである事を僕に突き付けてくる様な気持ちになって、寂しくなりました。
葬式が終わり、自宅に帰りました。
喪服も着たままに、なんと無く洗面所に向かった僕は、いつものように三面鏡の前に立って、合わせ鏡をしました。
泣いて赤く腫れた瞼をした僕の後方に、いつまでも続く鏡の世界が広がって、いつものようにただボーッとそれを眺めました。
「ん?」
無限に続く合わせ鏡の後ろの方、小さくなったある一枚だけに、何やら赤いものが映る事に気が付きました。
目を凝らして見ても、やはり赤いものがそこにだけ映っているのです。前から数えて十三枚目の鏡にだけ。
「……おばあちゃん?」
赤いセーターを着たおばあちゃんの事を思い出しながらそう呟くと、十三枚目に映るその赤いものは、スーと消えていきました。
「やっぱりおばあちゃんだ!」
僕は洗面所を駆け出して母親に今あったことを話しましたが、信じてもらえませんでした。
次の日からも僕は洗面所の前で合わせ鏡をしました。するとまた赤いものが後方の小さくなった鏡に映るのです。
「やっぱり見える! おばあちゃん!」
その赤い物の正体を見極めようとしましたが、小さくて良く見えず、直ぐに消えてしまいました。
次の日も、次の日も僕は洗面所で赤いものを見ました。
――するとその赤い存在は一枚、鏡を手前に移動して来ている。
次の日になるともう一枚手前に来ている。だから段々とその姿が近付いて来て、その姿が段々とハッキリと見えてくる様になった、
すると始めは小さくてわからなかった赤いものが、やはり衣服であることが分かってきた。
次の日も、次の日も次の日も僕は合わせ鏡を繰り返し、それが赤い服を着た上半身で、おばあちゃんと同じ縮れた毛が肩まである事がわかってきた。
赤い服を着た存在が五枚目の合わせ合わせ鏡に映る頃合いになって、僕は思い切って話し掛けてみた。
「おばあちゃんなんでしょー、ねー?」
恐怖はありませんでした。赤い服におばあちゃんと同じ縮れた髪の毛、ついこの間死んだおばあちゃんが僕に会いに来てくれたのだと信じきっていました。
一枚、また一枚とおばあちゃんは日毎に近付いてきて、遂には鏡に映る僕の直ぐ近くの、三枚目の鏡にまで移動していました。
まだ上半身から顎の先までが見えるだけで顔が見えませんでしたが、明日になったらおばあちゃんの笑顔が見えることに僕はただわくわくとしていました。
「また明日ねおばあちゃん!」
僕が無邪気に笑ってそういうと、おばあちゃんはいつもの通り何も言わずにスーと消えました。
次の日。
保育園から帰った僕は、帽子を投げ出して洗面所に走りました。
そしていつものように慣れた手付きで三面鏡の前に立って、手鏡で合わせ鏡にします。
わくわくした自分の笑顔が正面の鏡に映ったかと思うと、程無くしてそれが凍り付きました。
僕の直ぐ背後に映る二枚目の鏡には、赤い服を着た縮れ毛の、見も知らぬ若い女がぼんやりと立ち尽くして居たからです。
黒目は明後日の方を向き、だらりと開かれた口の端からは赤い泡を吐いていて、それが首筋を通って赤い服に吸いとられていました。
生白い肌に無数の青筋を立てた若い女が、明後日の方を向いた黒目をジロリと向けた。
「うわぁぁぁあー!」
以後僕は合わせ鏡をやらなくなった。




