山小屋の足音
山小屋を歩く者
僕の親父って山登りをするんですよ。
もう三十年来の趣味で。恐ろしい事に雪山なんかに好んで行くんです。滑落なんかして、遺体が見つからない様な死に方はしないでくれと何度も言ったんですが、好きなんでしょうね。親父は今年で六十歳になるんですが、「今しか登れないから」と言って、変わらずにピッケルを担いで雪山に繰り出しています。
そんな親父に、山に登っていたら何か不思議な体験をした事はないの? と聞いてみると、他の登山者から聞いたと言う話を聞かせてもらったんです。
仮にその体験をした人たちを「A」「B」「C」とする。
この話をしてくれたAさんはかなりの登山経験者らしく、中央アルプスにある「空木岳」に、ある冬のシーズンに、三人でチームを組んで登ったらしい。
空木岳は標高2864mにもなる山なので、冬のシーズンともなると雪山へと姿を変える。
当然そんな時分に登山をするとなると難易度が跳ね上がるのだが、チームのメンバーはいずれも登山の玄人である。もう何度も登っているし、慣れた様子で登山を開始していったらしい。
しかし、山の天気は予測がつかない。Aさんたちは思わぬ吹雪に見舞われ、やがて視界一面がホワイトアウトした様な景観に包まれる事となった。しかし、もうかなり上の方まで登って来てしまっているので、引き返すよりは、この先にある山小屋、兼避難所を目指した方が良いと言う判断になった。
とはいえ彼らは登山上級者である。互いの体をロープで結んで、慌てる事もなく目的の山小屋へと辿り着いた。
一面の雪景色の中に、雪に沈み込んだかの様な姿で黒い山小屋が浮かんでいるように見えた。
半ば雪に埋もれた格好の、重い引き戸をAさんが開く。
極寒の無人の山小屋の中にはスタッフはおろか他の登山客もいない。端から予想していた光景である。
ゴーグルとニット帽を外し、衣類に纏わり付いた雪を払ってから山小屋へと入り込んで行った。
木目調の小屋の中の左右の壁にある細長い窓には白い雪が舞い吹雪く光景が映り、ガタガタと窓枠を揺らしていた。
天候の事だけが気掛かりだったが、先に確認していた雲の流れを考えれば翌朝までにはこの吹雪は止む筈である。
時刻はまだ十六時にもなっていない。蓋を開けてみれば全てが予定通りだった。
元より空木岳の登山は一泊二日のつもりで、この簡素な避難小屋で一泊するつもりであった。だから全員がそれなりの装備を携えて来ていたので、食料の懸念と、暖をとるのに困る事は無かった。
「明け方には吹雪は止んでいる筈だから、予定通りに今晩はここで夜を明かそう」
誰ともなくそう言った。
三人は互いに頷き合い、それからクッカーに雪を詰めたものをバーナーで温めて湯を作った。途中、うす暗くなり始めた山小屋の中で、全員が小型のLEDランタンの電気を灯して手元に光源を確保する。それから三人はカップ麺を食べて小さな湯たんぽに湯を貯め――それとこれは余り一般的な行為ではないのかもしれないが、極寒が予想された山小屋の中で簡易なテントをそれぞれに張り、更にその中で雪山用のシュラフを敷いた。ダウンを着込んで早くも寝る準備を進めていく。
「日の出と共にここを出よう」
当初の予定を確認し合う様にBさんが言った。
窓を見やれば、幾分吹雪はマシになっている様だ。
それから三人は――(まだ十九時にもなっていなかったが登山泊では翌朝早くから動き出す為早くに寝てしまう)それぞれのテントに入り込んでから、手元の光源を消し、ダウンの前をぴっちりと首元まで閉めてからシュラフに潜り込んだ。
――しかし、おかしい。
Aさんは全員が寝静まった暗い極寒の山小屋の中で、その異変に気が付いた。
ざっざっざ……
山小屋の周囲を、誰かが歩いている。その雪を踏む音が、間断なく聞こえ続けている事に気が付いた。
異変に気付いたAさんは、一度出入り口となるファスナーを下ろしてテントから顔を出した。そして耳を澄ます。
ざっざっざっ
……やはり、聞こえる。
時刻は既に二十時を回っていた。窓には暗黒と、再びに吹雪始めたのだろうか、チラチラと粒の大きな雪が斜めに過ぎ去って行くのが見えた。
「……」
Aさんは、何も言葉にすることは無かった。
一度それを口にしてしまえば、悪戯にBさんとCさんの事も怖がらせてしまう。そうして眠れなくなれば翌朝の登山に差し障る。豪雪の山を登る彼らにとってそれは命取りになり、最悪の場合は即座にパニック状態に陥る事さえ予想された。
――こんな時間に、山小屋の周囲を歩き続ける者が、およそ人である筈もない。
そういった確信を抱きながらも、Aさんには青褪める事しか出来なかった。
BさんとCさんはもう寝静まっているのだろうか? 暗い山小屋の中で彼らが動き出す気配は無い。しかし寝息は聞こえない。もしやすれば、山小屋の周囲を回り続けるこの足音には全員が既に気付いていて、わかっていながらもAさんと同じような境遇に陥って、ただ息を潜める事しか出来ないでいるのかもしれない。
Aさんはテントの中へと頭を引っ込め、何も聞こえないと自分に暗示を掛けながらシュラフに潜り込み、眠りにつこうと努めた。
ざっざっざっざっざ――
足音は絶え間なく続く。こう際限無く続いていると、何か山小屋の周囲で何か実際に足音に似た実際の物音が立っているのではないかとも思いたくなってくる。
ざっざっざっざっざ
一体いつまで歩き続けるのだろう? どれだけの時間が経ったのだろう?
シュラフの中でうずくまり、ジッと息を潜めているだけの時間は、果てしなく長い様に感じられる。
今テントを勢い良く飛び出して、そこにある窓から外を覗けば、そこには一体どんな光景が待ち受けているのだろうか?
――これは何か、風に揺れる剥がれ掛けた外壁かなんかが足元の雪に触れている物音だ。
側に生えていた木々の枝が揺れて規則的に雪に触れる物音だ……。
しかし、Aさんのそういった希望的観測は見事に挫かれる事になる。
ガー……
山小屋の、重い引き戸を引く音――凍て付く様な冷気が差し込んで来る――だれか――ナニカガ――入って――?
僅かにだけ開いた引き戸はすぐに閉じたのか、入り込んできた冷気は一瞬だけだった。
BさんとCさんがガサゴソと動いている様な気配はない。
静まり返ったこの山小屋に、Aさんは一人でいる様な気にさえなって来ていた。
――扉を開けるような、今の物音は一体なんだ?
考えられない……しかし未だ理性を保ったこの思考でもって、この現象を至極現実的なものとして落とし込んで理解するのだとすれば、
一瞬だけ吹いたものすごい豪風が吹いて、かなり重い筈の山小屋の引き戸が開いた。
一瞬だけ、ただ一瞬だけそんな現象が、ごく自然的に、なんら不可思議な事もなく……
ひた
ひた
ひたひた ひたひたひた
――瞬間、Aさんは背筋に氷でも入れられたかのように身を凍らせた。
誰かが、山小屋の中を歩き始めた。
それも素足。
山小屋の中のこの板張りの床を、誰かが裸足で歩き始めた。
しかもその足音は、三人のそれぞれのテントの周囲を――ぐるぐるぐるぐるぐる
ぐるぐるぐるぐるぐると――延々、いつまでもいつまでも歩き続けた。
――一体どれだけの時間が経過しただろう?
口元に手をやり、その僅かな吐息すらも押し殺そうとし続けながら、Aさんは永遠とも思える時間が刻一刻と流れる事だけを待ち続けた。
十分は経っている……それは確実だ。右手にはめた腕時計を覗けばわかる。しかしそれを知ってしまえば、もし仮に三十分ほども経過したと体感しているこの恐ろしい時間が、ただの五分しか経過していないとしたら……俺は狂わずにいられるのだろうか?
いつまで? いつまで自分はこうして――身じろぎ一つ出来ないかのような極限の緊迫状態の中で――もうこの場には自分しか残されていないのではないかという物音一つしない環境の中で――いつまで!
ひた ひたひたひた
ひた
ひたひた ひた ひた
足音は床を滑り続け、テントの薄い膜一枚隔てたそこを延々回っているのがわかる。
このテントがなければ、自分たちは今ナニと対面していたのだろう……そう言った恐怖が頭を過ぎる。
不思議と影や人の気配は感じないのだが、音だけが確かにここに、いくら空耳と思おうとしても、逃れられないくらいに実際に、延々と、そこを歩き続けている。
何が目的なのか……結局Aさんは時計を見る事も出来ずに、ただジッと時が過ぎるのを待ち続けた。
ひた ひた
ひたひた
ひた ひたひた ひた
――ガー……。
気が遠くなる程の時が経過した気がした。Aさんは永劫とも思える恐怖の時間に苦悩してひどく疲弊していた。
その正体不明の足音は、延々と。その現実味をAさんに痛いくらいに思い知らせ続け、ようやくと、もう一度引き戸を引いて、遠ざかっていった。
それでもしばらくは、まだ近くにあの足音がいるのではないか、このテントの向こうでジッと息を潜めているのではないかと……そう言った思いに苛まれてテントを開く事が出来なかった。
――極度の疲労でAさんはそのまま眠ってしまったのか、次に気が付いたのは、Cさんの設定していた腕時計のアラームを耳に知覚した時だった。
あれは果たして夢だったのだろうか?
だとしても、嫌に長い――長過ぎる悪夢だった。
そう思いながらAさんがテントから顔を出すと、やや朝日の差し込み始めた山小屋の中で、すっかりと目の下にクマを作ったBさんとCさんと顔をつき合わせる。
BさんもCさんも、しばらくは誰も、何も口にはしなかった。
ただ全員がひたすらに疲弊し切った様子で、しまいにBさんが「登れますか?」と嘆く様な口調でAさんとCさんに投げ掛けた所で、Aさんはつい、こう囁き漏らしてしまった。
「足音……」
BさんもCさんも頷いていた。
あの足音を聞いていたのは、Aさんだけではなかったのだ。
その後三人は大急ぎで用を足し、そして、なんだかんだありながらも空木岳を登頂したそうだ。見上げた登山愛である。
――――
親父からこんな話を聞いた僕は、いても立ってもいられない様になって、気付けばネットで「空木岳 山小屋」と検索していた。
するとすぐ下に出た予測変換に――「空木岳 山小屋 幽霊」と表示された。
その場所は兼ねてより多くの登山者たちを悩ませて来た、心霊スポットであるらしかった。
果たして、Aさんたちの聞いたその足音とは……
山の怪か、あるいは神様なのか……山で亡くなった登山者の霊なのか。
それはわからない。