診察室の机に寝そべる子供
診察室の机に寝そべる子供
Mさんは以前滋賀県の○○病院に勤めていた男性看護師だった。
その病院に、ある高齢の車椅子のお婆さんが入院していた。
認知症を患っているからか、用もないのに手に握り締めたナースコールを一晩中鳴らし続ける患者だった。
そうして看護師の業務を妨げ続けるので、家族自作の木製のナースコールを握り締めていたという。
そのお婆さんは必ず、週一度の主治医診察の際に奇妙な事を言うらしい。
先生の座っとる机の上に子供が寝そべっとる。
毎週毎週、必ずそう言うのだという。
お婆さんは怯えたようにして、車椅子の上から、ドクターの座る診察室のデスクを指差すのだという。
当然、訳がわからない。
お婆さんの言うデスクの上の子供を、認知症の症状だとたかを括ってドクターも他のナース達も誰も相手にする様子もない。
しかしMさんはおばあさんの言う、そのデスクの上の子供の事が少し気になっていた。
ある日の休憩の際にMさんは、この病院に勤め上げてもう四十年ともなるという、七十代の山根という名の先輩の男性看護師に、あのおばあさんの言うデスクの上の子供のついて話題を投げかけてみた。
「○○さんのいつも言うデスクの上の子供って、お化けか何かなんですかね?」
「……」
軽くふざけた調子で聞いたらしい。休憩室で二人で弁当を食べていた時の事だったという。
「ねぇ山根さん、○○さんには何が見えてるんでしょうね」
「……あー。あれな……」
珍しく、山根さんが口ごもっている。
元来からひょうきんな性格をしている山根さんが自分の軽口に眉根を寄せて黙り込むのはMさんが考えるには初めての経験で、何か妙に感じるところがあった。
「どうしたんですか山根さん」
「あー、うん。○○さんな。認知症の人はよく子供が見えるとか言うからねぇ、うん」
山根さんの箸が止まっている。
「山根さん?」
「……まぁ○○さんが言っとるのはぁ……なんだ、あー……まぁ本当かも知れん」
驚きの余り、今度はMさんの方が口籠る事になったらしい。
程なくの沈黙の後に、山根さんは卵焼きを箸で摘み上げながら、ポツリと語り始めた。
「今からもう三十年も前になるかな、近くで大きな電車の衝突事故があったんだよ」
「列車事故?」
その事故の名を聞いたMさんはすぐにスマートフォンの検索にかけた。
すると確かに今から三十年前にこの地で、死傷者四十数名、負傷者数百名ともなる列車の衝突事故があった事を知った。
「山根さん……それデスクの上の子供になんの関係があるんですか?」
「うちに運び込まれたからなぁ」
「え」
数百とものぼるその列車事故の負傷者は、お世辞にも規模としては決して大きいとも言えない、Mさんのその頃勤めていた病院に大挙して押し寄せて来たと言う過去があるらしかった。
全てMさんにとっては初めて耳にする出来事であった。今から三十年も前の出来事であるから当時の事を知っている者も少ないのだろう。ドクターは入れ替わってるし、院長だってもうその頃とは変わってしまっている。
だからその当時の事を知っているのは恐らく、この病院の最古参となる山根さんだけなのかも知れなかった。
卵焼きをむしゃりと咀嚼しながら、山根さんはまた語り始める。
「えらい数の患者が運び込まれて来てな、天も地もわからんくなるくらいにまぁ病院中が大騒ぎ。大層な事になってな。痛ましい傷を負った患者が病院の廊下にごろごろ転がっとったよ。骨が飛び出したのや体がひしゃげたのから沢山見た。まるで婆さんから聞いとった広島原爆の光景でも目の当たりにしとるかの様だったなぁ」
「そんな重症者を廊下に転がしてたんですか?」
山根さんはこっくりと頷く。
「とてもそれだけの人数を収容出来る様な病院じゃなかったからなぁ。だから溢れ返った。一も二もなく患者が運び込まれ続けとったから、医者もスタッフも狂ったみたいに喚いとったのを覚えとるよ。でも、やるしかなかったから出来る限りの事をした。ただ目の前の事に一つ一つ対処し続けた」
いつしか緊迫しきっていた休憩室の空気に、Mさんは今食べているおかずの味がしなくなったという。
「霊安室にも収まりきらんから、病棟の浴室に並べとったんだ。……それでも足らんかった。だから――」
顔を上げた山根さんを見て、Mさんはその時に全てを悟ってしまったらしかった。
「僕が運んだんよ」
Mさんはもう呼吸をするのも忘れながら、今向けられている山根さんの視線の先――閉じられた診察室のその扉の先に見ている光景を思った。
「まだ年端もいかん女の子じゃった。診察台ももういっぱいだったから、致し方なく診察室の机の上に寝かせた」
だから――
〇〇さんは本当に見えとるのかもしれん。
山根さんはそう締め括った。
それから半年も経たずに、○〇さんは老衰で亡くなった。
亡くなる時まで、家族手製の木のナースコールを握り締めていたという。