樹海で見たナニカ
樹海で見たナニカ
青木ヶ原樹海を巡るのが趣味で、よくツアーに参加していた。
樹海と言ったら怖いイメージが先行するだろうが、あの雄大な自然の中には世界的に見ても貴重なものがある。かなり珍しい動植物が観測できたり、風穴に氷穴など天然の洞窟なども見られる。あれ程神秘的な森も他に無いだろう。
ツアーでは遭難には十分留意するものの、実際にはコンパスが狂ったりする事も無いし、最近では電波のアンテナなんかも設置されて携帯やGPSなんかも割と使える。故意でなければ遭難者なんかそうそう現れない。確かにガイドさんがいなければ道に迷いそうな深い森だが、そこかしこに遊歩道も敷かれているし、わざわ道を分け入ってでも行かない限りそんな事は起こりそうにない。
――ただ、皆が懸念するであろう通りに青木ヶ原樹海は自殺の名所でもある。ガイドさんに尋ねてもその事は肯定するし、遺体を見た事も一度や二度では無いと言うが、そんな事をする人は大概、人目を避けるために奥へ奥へと分け入っていくので、観光客の往来する様な場所でそんな事はしない。
そう言う事なので、俺は休みの度に何度も何度も青木ヶ原の樹海のツアーに申し込んでいた。
そしてツアーで行けるようなコースはとうに網羅してしまった。
俺の飽くなき欲求は、もっと別のコースを見てみたいと言っていた。聞くとツアー客を連れて行けない様な奥まった所に名所なんかもある様である。それにツアー参加に掛かる料金も決して安くはないのだ。
薄給である俺の懐は、とうの昔に悲鳴を上げていた……。
そういう事で、俺は樹海の側まで車で乗り付け、一人で探索してみる事にした。
遭難には細心の注意を払って、万一の為に入口の木にビニール紐を引っ掛けて腰に引っ掛けた。初めての事なので深くまでいくつもりは無かったが、二百五十メートルのビニール紐を幾つかリュックサックに準備した。万一の場合はこの紐を辿って帰ればいいだろう。
新緑の澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込みながら、木漏れ日の落ちる自然の中を歩き続けた。
そこそこ深くにまで来ているので既に携帯の電波は届いてはいないが、手元のコンパスは問題なく機能している。迷う事はないだろう。
……ただし一つの懸念材料は、遺体を目撃する事である。
けれど朝の日差しのまだ高いのと、チチチッという野鳥の可愛い鳴き声に俺の背中は押される。
程なく行くと、地図にも載っていない洞窟を発見して俺は興奮した。藻に覆われた美しい巨岩の中が半円形の空洞になっている。少し近寄って見ると、暗い洞窟の奥から漏れ出してくる冷気を感じた。
――なんて美しいんだ。
そう思ったが、少し怖くもあるので余り深くまで入る気にはなれなかった。それにもしやすると、この洞穴の奥に彷徨い込んだ遭難者の遺体なんかに出くわす可能性もあると思った。こんな暗闇の中で目撃すればパニックになるだろう。
フラッシュを炊いて何枚か写真を撮影した。それから踵を返して暗黒を背後にすると――
――入口付近から伸びた大木の影の所に、角度的に先程まで見えていなかった洞窟を出たすぐの所に、白いナニカがある事に気が付いた。
それが自然的なものであるならば俺も驚かなかったのだが、どうもそれは人工的な光沢を放つ……そう、ビニール袋であった。
家庭用で使用する様なサイズの物よりももっと大きな、業務用程のサイズをしたやや厚めの半透明のビニール袋の中に、人程のサイズのナニカが入って、頭のてっぺんの辺りで口を強く結ばれている。
その異様なの存在に竦み上がった俺は息を呑むばかりであったが、瞳はナニカを凝視し続けていた。
きっと俺の本能は、いま目にしているあり得ないものの姿を改めて、俺の頭が理解出来る常識の範疇に収めようとしたのだと思う。
けれどそれは、わからないものを更にわからなくするだけだった。
……半透明のビニールの中に微かに肌色が見える。
裸の人間が入れられているのだろうか?
……その足元に黒い水溜りができている。
腐乱しているのだろうか?
……人型のビニール袋は、大木の幹に背を預けて三角座りをしている。
どうして膝の前で手が結ばれたままなのだろうか?
……黒い頭髪が微かに見える、ピタリと張り付いたそのビニールの頭は、
何故、頭だけが前後に揺れ続けているのだろうか?
……顔の付近のビニールがべこりと沈んだ。
呼吸しているのだろうか?
風になびいたビニール袋がカサカサと音を立てていた。
背にした洞穴から溢れ出した冷気が俺を足元から取り巻いていく――。
「あああああっ!!」
情けの無い悲鳴を上げて走り出すと、洞窟を出てすぐの所に座っているナニカのすぐ傍を走り去った。
――揺れていたビニール袋の頭がピタリと静止して、微かに俺の方を見た気がした。
激しく吸い込む口元にビニールが張り付いて、そこに穴の底の様な暗闇を見せていた。
三つの黒い洞穴が、俺を見ている。
それからはもう、振り返れなかった。
もう二度と樹海には行かない。
あれはなんだったのか――人だったのか、それとも得体の知れぬナニカであったのか。
今でも不明のままだ。