水子川
自宅の裏の林を分け行っていくと、そこに幅一メートルも無い小川が流れていました。
側には赤い前掛けをした可愛いお地蔵さんなんかもあって、幼い頃の私はそこを気に入っていたんです。
だけど家に一緒に住んでいるおじいちゃんにこの事は内緒でした。
それは、古くからこの地で生まれ育ったおじいちゃんはあの小川の事を私にこう語り、近付かないようにと言うからでした。
「ありぁ水子川と古い人は呼んでな。昔、間引きした赤子を捨てよったんじゃ」
おじいちゃんの言う昔、と言うのはどれほど前の事だったんでしょうか。今にして思えば大昔にこの村は飢饉で苦しんだという歴史があるという事だったから、その時代の話しをしているのかも知れなかったと思います。
ともかくおじいちゃんのその忠告には、当時の私が知らない難しい言葉がいくつか出てきたんです。だけどおじいちゃんが私に何か恐ろしい事を言って怖がらせようとしている事だけはわかったので、素直にただ頷いて、意味をわかりもしないのにわかった風にしていたのです。
水子――と言うのが亡くなった胎児の事を言うのだと言う事も、間引きというのが何を意味しているのかも、私はそれからしばらくの後、中学生くらいになってから知りました。それに小川の側にあった赤い前掛けをしたお地蔵さんって、主に子供の供養を願ったりする様な水子地蔵と呼ばれるものらしいのですよね。
私の中であの日の事が符合した瞬間でした。
私はその時に初めて、おじいちゃんが言っていた話しの意味を知って、少し震えたんです。
……おじいちゃんからの忠告を受けてからも、幼い頃の私は何度かあの小川に足を運んでいたんです。
おじいちゃんはこの小川は怖い所だと言うけれど、子供が溺れる程の深さも幅も無ければ、アメンボがのどかに水面を走っているだけの美しい場所だと思っていました。
周囲には林があり、草むらが小川に覆い被さる様な格好で並走して、下流に続いている。
私はそこで沢蟹を集めたり、水中を泳ぐ小さな魚を観察したりして遊んでいました。
それは夏の夕暮れ時の事でした。
小川の側で四つん這いになって、夢中になって魚を眺めていた時の事でした。
背後の、背の低い草むらがガサっと揺れたんです。
猫かな? なんて期待しながら振り返ってみると、茂った草を掻き分けて、小さな赤子の顔が私を見ていた。
……魚の腐った様な生々しい臭いが漂ってきた。
そして目の真っ暗な……眼球が抜け落ちて空っぽの眼窩だけになった様なその視線が、私の背中をまんじりともなく見つめて、小さな口元を微かに動かしたのです。
「おっ…………かぁ――」
思考が停止した私は、今しがた聞こえた微かな声は、風に騒ぐ木々が擦れ合う音に聞き間違えた空耳だったかどうかと逡巡した後、その場を走り去りました。
家に逃げ帰ってすぐ、私はひどく取り乱しながら台所で夕食の準備をしていた母にその事を話しました。しかし母はまともに取り合わずに、「あそこはゴミを捨てる人もいるから、人形でも捨てられてたんでしょ。ほらアンタも昔おままごとして遊んでたじゃない。赤ちゃんの人形、棚に仕舞ってあるでしょう?」などと言って私の興奮をなだめる様にした。
確かに、草むらで見たあの顔と棚に仕舞いっぱなしになっている赤ちゃんの人形顔がなんとなく似ている様な気がしてきた私は、単純にその話を信じて納得する事にしました。だいいち草むらから生きた胎児が一人でに歩いて出てくる訳がない。赤ちゃんとは常に母親と一緒にいるもので、ひとりでに彷徨っている筈なんて無い、とそう考えたのです。
子供ながらの防衛本能が、そういう事にしておきたかったのしれません。
その証拠に、その時私の言っていた、横に向けると瞳を閉じて、起き上がらせると開眼する赤ちゃん人形は、この記憶の中にある草むらの中の顔とは似ても似つかない様に思うんです。
……それから私はあの小川に行かなくなったのですが、中学生になってからおじいちゃんの忠告の意味を知り、その時に改めて、あれは生きた者では無かったと気付いたのでした。
あれは一人である筈のない赤子が、きっと母親を求めて彷徨っていたのです。
つまらない話ですけど、ここで終わります。
そういえばあの水子の言った「おっかぁ」って……私の事を言っていたんでしょうね。
最近肩が重いんです。あの子が背中におぶさっていなければいいんですけど。