異界のレストラン
自宅のアパートへの帰り道に、どうも妙な店がある。
それは最寄りの小さな駅の線路沿いの、最近開発が進められている住宅街の中にひっそりと佇んでいる。
並列する新築の家々に対し、奥まった造りのこの店の存在には、正面に立たなければ気付く事がないだろう。飛び出した両脇の民家に隔てられる形で視界に入る事が無いからだ。店という体裁をとっている癖に、まるで人目を忍んでいる様なこの造りはどういう事なのだろう?
店の手前のちょっとしたスペースでは、色とりどりで見た事のない植物がガーデニングされていて、細い木が斜めに突き出していた。真新しいコンクリートの建物には、木製のドアと、足元まで映す細く縦長の窓がシンメトリーに配置されていて、入ってすぐ左手のレジがありそうな小さなスペースに、こじんまりとした木の椅子と小さな木の机が置かれているのが見えた。店内にはオシャレなインテリアや二列になる長机と椅子が立ち並んでいるのも見えて、次第にそこがレストランの様相をしている事に気付いて来る。
玄関先にはスタンド式の黒板があって、そこにチョークで『3:00〜3:56』『2:00〜1:00』『26:00〜27:89』とまとまりの無いタイムスケジュールが記されている様だった。しかし見れば見るほど訳がわからなくなって来る。果たして『27:89』とは私にとって何時頃の事を指すのだろう。
そういった不可解なレストランの存在に気付いてから私は、仕事の度に、町に出ていく度に、飲み会の帰りに、あらゆる時間にその店の前をわざわざ通った。祝日のランチ時や土曜の夕刻にだって通った。
けれど一度たりともそのレストランが営業している事は無かった。そもそもからして店の名前も何処にも書いていないし、ネットで検索しても情報は何も出てこない。まだオープンしていないだけではないかとも思ったが、カラフルな庭先はこまめに手入れがされている様であったし、何より玄関先の黒板に書かれたタイムスケジュールが度々に変化していた。その中でも『8♯:90〜*%:55』とあまりに奇怪な文字を目にしたのは今でも覚えている。
……それは確か、そのレストランの事を少し忘れ掛けていた春の晩、満月が夜を明るく照らした夜の二十二時頃であったと思う。
大学の飲み会を終えた私が駅のホームに降り立って、千鳥足で線路沿いの細道を歩いていたその時の事であった。
居る……。
例の珍妙なレストランの店内が煌々と光り、住宅街の中の闇を切り払っているのが見える。そして入り口横のレジの所、縦長の窓ガラスを一枚隔てて見えるそこに、ネクタイを締めたカッターシャツ姿の中年が一人、恰幅のいい腹を掻きながら平然と座っている。大きなメガネを時折持ち上げながら、夢中で本を読んでいるみたいだった。
私は、あれほど未知なる探究心を駆り立てられた店内に、そこらのオジサンが一人、当たり前の様に座っている光景に衝撃を覚えた。ていうか、明かりが灯っている様子さえ初めて見たのである。
一気に酔いを覚ました私は、店内へと近付いていった。店の中は明る過ぎる位に照り輝いているが、レジ前に座るオジサン以外に客の姿は無い様子である。
もうこんな時間だし、レストランだとしてもラストオーダーが……と思いもしたが、酒の力で勢いのあった私は、とにかくこの店が何なのか、いつ訪れれば利用する事が出来るのか、位の事は判明させようと思い、そのドアを引いて店内へと足を踏み込んでいた。
「ごめん下さい、お聞きしたいのですがこの店は――」
カランとベルが鳴って私の来訪が店内に告げられると、やはりレジであった様子の小さな机の前に座ったオジサンが、読んでいた分厚い本にじっくりと栞を挟んでから、優しそうな瞳を上げた。
「あ…;*レ、⊿……ぇ」
「え??」
聞いたことも無い言語が私の耳に響き込んで来て目を剥いた。そんなに酒を呑んだだろうかと自問してみたが、そういう事ではない。
どう見てもその辺の日本人にしか見えないオジサンの口からは、私を丸い目で見上げてあたふたと喘ぐその口元からは――。
「〆∂_おrrrrrろ――!#??」
――訳のわからないニュアンスの言語が飛び出しているのだった。
オジサンの読んでいた本の背表紙をよく眺めてみると、そこには見たことも無い文字? 絵図? が記されている事に今更気付いた。最初は洋書かと思ったけれど……違う。見覚えのない文字と絵図の様なものが記してある中で、所々に漢字とカタカナ、ひらがななんかも散りばめられている解読不能の文字だった。
「フあ◇ファgtっyファt<<ファx!?$$?」
「え、えなんですか! なんなんですか!?」
慌てふためく私に続いて、オジサンの方もあっと驚いてオロオロしている。口から出る言語は意味不明だけど、反応は妙に普通というかなんていうか、お互いの持つ常識は一致しているけれど、ただ世界線が違うみたいな……そんな感じがした。
何が言いたいかというと、いま目前で腰を抜かして「uんぽルンPOー%!!」と呻きながら腰に響いた痛みに顔を歪ませているオジサンに私は、悪意や敵意の様なものは感じなかった、という事である。向こうにしてもそうなのだろう、言葉はわからないが、額の汗をハンカチで拭いながらこちらを案ずる様にしたその表情と仕草には、何処か常識的なものがあると感じた。
互いに息を落ち着け合い、目配せをしてから私達は改めて対面する。
「あの、これは!アナタは一体」
「Piiカラgara―☆ゥぴょ」
やはり言語が分かり合えず、私達は苦笑いを向け合いながら互いに会釈をした。どうしてこういった所は通ずるものがあるのだろうか、奇妙な感覚を覚える。
「ごめんなさい私、やっぱり帰ります!」
「€€=オヨよ」
不思議なオジサンの元を後にして私は、逃げるようにその店を飛び出した。
……すると、妙だ。
その時点で、何かが違う気がした。
店を飛び出した先の光景は先程まで歩いていた細い路地であり、一見するといつもの帰り道に変わりは無いのだが……よく見ると、そこから見える標識や看板の表示が文字化けしている。オジサンが読んでいた本の背表紙と同じ様な、奇怪な文字が刻み付けられているのである。
そこまでの状況に至ってようやく私はこう確信する。
――この世界は、元居た世界とは少しだけ違う、異界であると。
それでもやはり、にわかには信じられない。額に手をやり、冷たい夜気に身を当てながら酔いを覚ます様に努めてみる。
……いいや、酔いなんてとうに覚めている。
つい先程まで居た現実世界と、少しだけ違う世界に立ち尽くしながら、丸い満月を見上げて瞬きを忘れていた、その時――。
顔を上げた先、正面のフェンスの向こう、路線を通過して行く列車の轟音に顔を上げ、ひしめく客席が通り過ぎて行くのが見えた。
「は……」
息を飲んだ。
何故ならそこに、今通り過ぎていった列車の車内に、当然の様な顔してつり革を掴んでいたのは。
――異形。
異形異形異形……化け物、あやかし、モノノ怪、宇宙人、UMA。ありとあらゆる空想生物がそこに、まるで人間の様にして二足歩行で暮らしていたのである。
流石に目を回した。そうして卒倒しそうになった所を……。
「chu〜パッ化ぷりんプリん◉◉)」
例のオジサンに抱きかかえられていた。
一般的なオジサン的加齢臭に包まれながら私は、そこで意識を失った。
*
目を覚ますと私は、壁にもたれかかる姿勢で店内の長椅子に座らされていた。そして目をこすり、ボヤケた視界を正していくと、すぐにまた卒倒しそうになる。
「PA☆」
「ポロろうー^teen〒」
「ヌっペポ@○w」
ぐったりと座り込んだ私を取り囲んでいたのは、魑魅魍魎と呼んでも差し支えのない異形の群れであった。
目を回してそのまま白目を剥きそうになる私を見兼ねて、ゼリー状の手が差し伸べられてハッとした。見上げると、半透明の青いゼラチン状の何かが私を見下ろしていた。その隣には頭がサバになった男、全身触手だらけでうねうねした生物、人面犬にねずみ男……筆舌に尽くしがたい光景がいま、私の前に腰を下ろしてジッと見下ろしているのである。
「おwOW?」
「;÷−−vvピーーがッと」
「リー須磨oioi?〆」
見ていると何やら、彼等は別に私を取って食おうなどという訳でもない様子である。どちらかというと、なにやら困惑し、私という未知に対して、とても慎重に観察を続けている様だった。
この異界に彷徨い込んでしまったのが私という事なのならば、確かに宇宙人なのはこちらの方なので好奇の目にさらされるのは仕方が無いが、思えばあのオジサンも、私と同じ見た目をした“人間”だったでは無いか。
訳がわからないが、私と同じ“人間”が、この世界では“異形”達と共存しているらしい。
「BOTルンがうぃぃ□」
「カタクリっ子*@82るんぱ」
「yesぷりケツパーテ☆Night」
「に〜茶っ」
案外みんな友好的なのだろうか、彼等は各々の仕草で思案して、私を元の世界に戻してやる方法でも話し合ってくれている様な気がした。
「バインbain※ボイン」
「あ、さっきのオジサン」
私と一番初めに邂逅したオジサンが、厨房の奥の方から人混みかき分けて(人ではないが)私の所に駆けてきた。手元のトレーの上には、未知の香りを立ち上らせる皿が乗っている。
「〜うまい¥マイ、マインチャン☆¶」
トレーに乗せた水と紫色した焼きそば? の様な食べ物を前に置かれた私は、正気を疑う様な目でオジサンを見上げた。すると何を勘違いしているのか、にこやかに笑って親指を立てて来た。初めて現地民と意思疎通らしきものが取れたのは良いが、その気遣いは見当違いである。何故なら私は、皿の上で新鮮そうに蠢くこの未知なる料理にまるで食欲を駆り立てられないでいるのだから。
しかしジェスチャーでなら少しはコミニュケーションが取れるという事がわかった。
意を決してジェスチャーを始めた私を、みんなが固唾を飲んで見守っていた。
〈家 帰る 私〉
……身振り手振りで必死に訴えてみたが、伝わっただろうか? するとオジサンが先んじて動き出した。そうして私の前で自分の耳を横に引っ張りながら寄り目をして、爽やかな笑顔で「ピーパラっPO!」と言った。
……何をふざけているのか。伝わったのかどうかすら不明だ。それでもこの自信満々な表情……「大丈夫」とでも言ったのかもしれない。
さらに厄介な事に、頷いたり首を振ったり、丸とかバツとかわかりやすいジェスチャーを作ってみても、そのポーズの意味は異界の者には分からないらしい。グッドポーズだけは何故か伝わるのだが、その辺りの常識は違っている様子だ。
そうなってみるとなかなかに意思疎通が難しい事に気付いて来る。思えばジェスチャーゲームをしてみても『YES』とか『NO』を意味する動作にとても依存していた様に思う。だがこの世界にはそれが無い。私は頭を悩ませた。頭を抱え込んで項垂れていると、皆がそれぞれに動き出してジェスチャーを見せてくれる。はじめ不気味にも思えた彼らだが、案外可愛らしく思えて来た。
程無くすると誰かが店の外を示して騒ぎ始めた。見ると窓の外から赤いライトがチカチカと点滅して、何やら騒がしいサイレン……いや音楽が聞こえて来る。どこかで聞き覚えのある音楽だ。――そうだ、これは『軍艦マーチ』のBGMだ。
そうして皆が慌てふためきながら店内を走り回っていると、あっという間も無く、店の前に赤灯を光らせたパトカーが一台停車して、けたたましい軍艦マーチも停止する。
降りて来た警察帽を目深に被った二人の警察官の姿に、私はホッと安堵していた。みんなはどうしてこんなに慌てているのだろうか、むしろ彼等に任せれば元の世界に帰れると思ったし、いずれにしてもその間保護して貰えるのだろう。いつしか阿鼻叫喚と成り果てていた店内の喧騒の中で、私は一人スポットライトに照らし出されるかの如く立ち尽くしていた。
「あ、はい多分なんですけど、私を捜しに来てくれたんですよね?」
手を上げながら彼らの方へと歩み出した次の瞬間であった。
「くたばれクソがぁアアアア――!!!」
その様なハッキリとした野太い罵詈が警察官の口から叫び上げられ、私は腰のホルスターから抜き出された拳銃の銃口を真正面より向けられていた。
「くたばれェエエエエ!!!」
血相を変えた二名の警察官に純然たる敵意を向けられたまま、私の意識が真っ白になった次の瞬間――何者かに腰にしがみつかれて倒れ込んでいた。
「オジサン?」
「ポロリんDays!!」
オジサンにしがみつかれ、崩れ落ちていった私のすぐ頭上の壁に弾痕が刻み込まれていた。命を救われたと思うよりも前に、オジサンが私の背中を押して裏口へと走らせてくれた。
「nunガーーー!!!」
「オっ、オジサン!!」
背後で聞こえた銃声とオジサンの悲鳴に、私はそこに立ち戻りそうになった。しかしその先に居たゼリー人間に手を掴まれて、私は裏口から放り出されたのである。
「〒ドロスか=◇!!」
「え、え……え?? オジサンは? 大丈夫なんだよね、一体何が起きて……」
「おぺぺKローション☆ンゴ!!」
「あっ、あっあ……うわぁああ!!」
命を賭してまで私を守ってくれた彼らの表情から、何となく汲み取ったその意志に押される様にして、私はどこか知っているようで分からない、異界の地を走り出した。私は無我夢中でとにかく帰路に、いつも歩いて帰っている、自分のアパートまでの道を辿っていた。
――すぐに闇夜を照らす赤灯がチカチカとし始めたのに気が付いた。背後から来る『軍艦マーチ』は、雄々しく、耳を覆いたくなる位のボリュームで私に迫って来ていた。
「オジサン、オジサンはまさか撃たれて……なんでっ!」
白い吐息を夜空に荒ぶりながら、背後より拡声器で「くたばれクソガァアアアア」と絶叫されながら、とにかく見知った順路で自宅を目指した。
そうする事で何かが解決するとも思えなかったけれど、その時はもう頭が真っ白で、無意識に体は自宅を目指していた。変わらぬ日常があったあの幸せな家へ。そこに辿り着けば、そんな日常へと立ち返れる様な漠然とした希望を感じていた。
「クうタバレッッ!! クソガァアアアア――!!!」
何でこんな事になっているんだろう、訳が分からない。
満月の夜を走り去り、やかましく追い立てられながら、私は自宅のアパートの前に辿り着いた。
おぼつかない手元で鍵を取り出す。側まで迫ったパトカーから、勢いよく人が降りてくる物音がした。震える手元から鍵を落っことす。
――そもそもこの鍵は使えるのだろうか、異界の鍵穴と私の家の鍵穴が共通しているなんて、そんな事が。
拾い上げた鍵を差し込む、捻る。解錠した。
ドアノブを握り、すぐ目前まで迫った警察官の腕を振り払いながら部屋の中へと私は飛び込む。
……どうして私の持っていた鍵で扉は開いたのだろう。似ている様で少し違うこの世界はもしかすると、私の生きていた世界と一つボタンを掛け違えた裏世界の様なものなのでは無いか?
そうであるのならもしやこの先に、私と同じ鍵を使って、私の家に住まう、この裏世界の――
私がSoコに――イル、の、でハ……無イ、Ka……@ぁ……*▷12」&(――――
*
光に包まれた私が次に目を覚ましたのは、見知った自宅の玄関だった。靴を脱ぐのも忘れて崩れ落ちるように眠っていたらしい。
――しかしあれは、克明に覚えているあの、異界の記憶は?
まだ油断する事は出来ない。誰かに見張られているかのような居心地の悪さを感じながら、テレビを点けた。するとどうだ、私の知る、私の国の言語でニュースキャスターが事件を読み上げている。
「良かったぁ」
ここが異界では無いことを確認した私は、次にオジサンの事を思い出す。たとえあれが夢であったとするならば、こんなにハッキリとその姿を思い浮かべられようか。私は着の身着のままアパートを飛び出すと、桜並木の下を走ってあのレストランを目指した。
桜舞う景色の中、そこには無機質なコンクリートの建物があるばかりで、店内の様子は殺風景だった。まるで昨晩までオープンされていた痕跡なんて何処にも無い。
まるで全てが一瞬の内に見た夢だったのだと、そう言われば確かに否定しようも無い事に思い至り、肩を落として踵を返すしか無かった。
私は玄関先のスタンド式の黒板に、色鮮やかなチョークで文字が描き込まれているのに気付いて立ち止まる。
『ピーパラっPO!』
そう書かれていて、私は思わず頬を綻ばせた。
※
後日談として、あれから自宅の側の交番を通りがかる事があった。そこに停まるパトカーを見ると、あの日異界で追い回された恐怖がぶり返して来たのを覚えてる。
四角い派出所の前を通り過ぎる時、そこに腰を掛けた警察官の姿が目に入った。
同じだったのだ。あの日、異界で見た警察官の、その姿と顔と。
思えば彼らだけは、一辺倒にではあるが、私の国の言語を使っていた。もし、この世界に居るあの警察官と、異界に居たあの警察官が同一人物だとしたら……。
見つめられる視線に気が付いたか、ふと警察官の視線が私を認め、ハッと何か重大な事に気が付いたみたいに、みるみると見開かれていくのを見た。
私は逃げる様にその場を立ち去った。
用途不明の謎の建物『異界のレストラン』は未だ、私の自宅の側にあるままだ。