ダレ?
ダレ?
今年の正月、俺は実家に帰る事が出来なかった。
三百六十五日休みなく働き続ける馬車馬労働の飲食業に、今年から定職したのが運の尽きだった。
俺の一年のうちで一番好きな行事は、紛れもなく正月だった。
日本中が“休日”と“和”に染まるあの異様とも言える空気感。何もしない事が正月なのだと、大義名分の元、堕落を貪る事の出来る年に一度のビッグイベント。
……しかし、俺が正月を楽しめるのはあと、何回位なのだろう?
そんなことを考えるようになった。
俺は今年で三十になる。毎年薄れゆく正月の高揚感。子どもの頃のあのトキメキ。水面に垂れた一滴の墨が薄れ切るその前に、少しでも俺は正月を満喫していたい。
……であるのに、俺は働いていた。
ごうごうと火の滾る厨房で中華鍋と睨み合う。こんな時分だと言うのに玉の様な汗を垂らして俺は働いている。
自分以外の者の正月の為に、俺は……。
一月二日――。
十二月三十一日より休みなく働いていた俺に、ただ一日だけの休暇が許された。
だがしかし、ここ大阪から岐阜県にある俺の実家に帰るには一日では到底無理だ。いや、厳密に言うなれば、帰ることは出来るけれど日帰りになる。前日より動き出せばどうにかなるだろうか? しかし日々の重労働の疲労もある。スタッドレスタイヤも履いていないし……なにより絶望的なのは、もう――今が一月二日の昼前であるという事だ。
まぁいい、まぁいいのだ。お正月とは年を越すあのワクワク感でしか始まり得ないのだから、もう何もかもが遅すぎるのだ。
俺のお正月は精々、スーパーで購入したやたら高級品に成り上がっているかまぼこを、ワサビ醤油に付けて日本酒をチビリとやるだけの事だった。
……あぁ詫びしい。
そんなこと思い思い、もう一日の半分以上の終了してしまった静かなるワンルームのアパートで、俺は座椅子に座って箸を持ち上げていた。
するとそこで、メールが来た。
確認すると、絶賛お正月休みを親戚達と堪能しているのであろう、父親からの添付ファイルだった。
……画像を開く。
するとそこには、恋しい実家の緩やかなる日常と、テーブルについた親戚達の笑顔があった。
大きなテーブルを二つ付け合わせ、所狭しとカニやら肉やらご馳走が並んでいる。
みんな柔和な顔をしている。昨年までは俺もそこに居たのに……。
……あぁ侘しい。
涙目になった俺は、紅白になったかまぼこを見下ろす。うちのテーブルの上には、おちょこと日本酒とカップ麺のそばがあるだけだった。
殺風景……。
小皿に注いだ黒い醤油の中に、ポチャリと涙が垂れて塩気を付け加えそうだった。
泣こうかな?
ああ、泣いてやろうかな?
本当にそうしてやろうかな?
虚しげにそんな事を考えていると、俺はまた家族達のお正月写真を見直した。
――するとそこに、一つ気になる点を見つける。
「ダレ?」
画像の手前に知らない若い女が写っていた。
顔はのっぺりとしていて目は一重で、虚ろな黒目を画面外に向けて口を半開きにしている。表情があまり汲み取れない。……そんな印象を受ける女。
考えてみても誰だかわからない……親戚にこの年頃の女は二人だけいるが、二人の従姪の顔はしっかりと覚えているし、どうもこの女はそれよりも五つ程上に見える。
何度見直してみてもピンと来ない、俺の家族はみんな大体似たような骨格をしているのだが、この女だけは違う。
……わからない、が。
一人、その場に居る筈の者が写っていない事には気付く。
俺は父親にすぐさまメールを返した。
『右下の人誰?』
マメな親父からはすぐに返信があった。
『は? ○○じゃん』
「………………え?」
それは俺の妹の名前だった。その場に居る筈なのに映り込んでいないと思われた妹こそが、その右下の見知らぬ女の事だと父親は言う。
画像は加工されていない。俺の妹だと言うこの女は化粧もしていない……間違いようがない。万一整形したのだとしても、あの大きくパッチリとした二重をわざわざ一重にするだろうか? スラッと通ったあの鼻筋をこんなにペチャンコに押し潰すだろうか?
――否だ。
「ダレ?」
去年どころか、半年前に会った筈の妹。記憶の中にある何十年も共に生活して来た思い出の中の妹の姿と、その女は似ても似つかなかった。
のっぺりとした感情の分からぬ黒目を明後日に投げた、この女が俺の妹な訳が無い。
だけど写真の中の家族達はみんな、朗らかに笑っている。
何かがオカシイ。
ダレかが、俺の正月に入り込んでいる。