死の間際の足取り
ある日曜日の朝に、やり残した仕事の事を思い出した。だが残念な事に、データの入ったパソコンはあの雑居ビルの三階のオフィスに置き去りにされている様だ。
幸いにも自宅から職場はそこまで遠くはない。
自転車に乗って敷地に入り、警備員に会員証を見せた俺は、忘れずに警報器の鍵を受け取った、でないと大変なことになる。
三階のオフィスに辿り着く。鍵を開けると設置している警報器のピッピッピとかいう規則的な機械音がし始める。警報器の鍵を赤く点滅する機器に差し込むと、ようやくその警告音が消え失せたので胸をなでおろす。
だがしかし、聞こえて来る。
四階から確かに、誰かの走り回る物音が。
四階もまた会社が所有するオフィスだ。でも警報器は今俺が停止させるまで作動していた。
作動していた。
だから四階に人がいる筈がない。
だが聞こえる。確かに聞こえる。ひとりじゃない、どんどん増えて、もう何人もの人間がすぐ頭上で走り回るかの様な物音が。
あっ、と俺は思った。
こうまでハッキリ聞こえるのだから、人が居るのだと思い直すしか無かった。
そうと思えば楽しそうにさえ聞こえて来た。なにやらドタバタとはしゃいでいる。うん、そういう事だろう。
だからそういう事にして、俺はパソコンを持って雑居ビルを後にした。
それから数年が経った。俺は転勤になってあの雑居ビルにはもう顔を出す必要がなくなった。
そんな折に、俺は先輩からこう言われた。
「お前よくあんな所で働いてたな」
以前に自分もそこに配属されていたという先輩から言われた。どういうことかと問い掛けると、先輩は胸の前で手を垂れて嘘みたいなお化けのポーズをして見せた。
「あそこ出るだろ。四階で昔大火事があってから。なんだよ知らなかったのかよ。沢山死んだんだぜ? 入り組んでるだろ、逃げ場が一箇所しか無くって。ほとんどの人間が圧死したって噂だぜ、煙とかじゃなくてさ」
その話しを聞いて俺は、あの日四階で走り回る足音の事を思い出した。
あれは楽しそうに大勢ではしゃぎ回る足音なんかじゃなく……その当時、火事に見舞われ我先にと逃げ出そうとする人間達の、死の間際の足取りだったのかもしれないと思った。