「お〜〜い」
田舎村の裏山で日課のハイキングをしていると、とある場所で呼び掛けられる事がある。
「お〜〜い」
間延びしたお爺さんの声。周囲を見渡してみても誰もいない。こんな辺鄙な裏山に人は滅多に来ないし、その声は必ず、俺が一人のときに聞こえてくる。
「お〜〜い」
だが何故か、その声に恐怖なんかは覚えない。遠く何処かで聞いた事がある様な気のする声だし、向こうもリラックスしているみたいに柔和な声を出しているからだ。
「お〜〜い」
その声は、とある大樹の幹の下から聞こえて来る。
底の見えない朽ちかけた幹の間。そこにポッカリと開いた、人一人が入れる位の暗黒の中より、お爺さんの声が呼び掛けて来る。
「お〜〜い」
俺はその日もそこで立ち止まって、不思議な声を聞いていた。
「お〜〜い……たかのりぃ」
「え……?」
俺は驚いた。「お〜〜い」以外の声を聞いたのは初めてだったし、確かに聞いたたかのりというその名前……それは俺の父の名だ。
俺の中で何かがハマりそうになっている。
俺はその日、あえてこれまでしないでいた行為を実行した。何故それまでそうしなかったのかと言えば……この謎を解明してしまえば、もう二度とその優しい声を聞けなくなるかの様な、そういった漠然とした予感があったからだ。
正体のわからない声。しかし確かに遠い記憶を呼び覚まされるその声を、俺はいつまでも聞いていたかったんだ。
「ごめんね…………爺ちゃん」
木の幹の下の暗黒をライトで照らすと、そこに汚れた帽子と服と骨があった。
「お〜〜い」という声は、もう二度と俺を呼ばなくなった。