かくれんぼ
今年で30歳になる俺の幼馴染みに、同じ野球部だったHって奴が居る。これは同窓会で久方振りに顔を合わせたHから聞いた話だ。
*
高校を卒業してから地方の大学に進学したHは、ある日いつもの様に自転車で大学に向かっていた。
普通は自動車やバスで通う様な急勾配の通学路だったが、体力自慢のHは体が鈍らない様にと、自ら進んで自転車通学をしていたらしい。
大学生活にも慣れてきた二年の春。Hはいつもの大学への通学路の途中に、余り人気の無い様な暗い路地を見つけたそうだ。
草木で鬱蒼とした細い県道は、見るからに人が立ち入って無さそうであったが、Hは明るく怖いもの知らずな性格で、もしかしたらこの道を使えばもっと早く大学に着くのでは無いか、と楽観的に思うがまま、その暗い道へと侵入していった。
結論から言えばその道は大学への近道なんかにはならず、延々と山道を駆け上がっていくだけの悪路であった。途中汗だくになって気付いたHは時計を見やり、大人しく元来た道を戻る事にしたらしい。
するとHは帰りの道すがら、崖っぷちに並んだ古いガードレールの足元に、妙に真新しい花束と、子どもが好きそうなジュースや玩具が添えられている事に気付く。
こんなの来る時にはあったかな、と不思議に思いながらも、妙に素直で信心深い所のあるHは、自転車を降りてそこで手を合わせた。
そしたらその時、冷気と一緒に頭の上を何かがスッと通っていった。
途端にゾッとしたHがその後、大慌てで悪路を下っていったのは言うまでもない……
道端の献花を見て憐れんではいけないと云うが、今になって聞いてみると、Hはその禁忌に触れたんだなと思う。
それからHは、一人暮らしをしていたアパートで霊障に悩まされる事となった。
Hのボロアパートは陽当りが非常に悪く、というか窓を開けたら真正面にビルが建っているので、日中はジメジメとして、夜間は月明かりさえも入って来ない。
要は電気を消したら暗黒になる訳だ。
Hはそんな六畳一間の中心にせんべい布団を敷いて眠っていたそうなのだが、部屋の明かりを消してややばかり経ち、ぁあ眠れそうだという頃合いになると、かなりの確率で“子どもが走り始める”という。
初めは上の階の住人が何やらバタバタやっている、と思っていたのだが、よくよく聞くとどうも違う。
真っ暗闇になった部屋で掛布を被ってうずくまり、その耳を澄ませてみると
――どうやら自分のせんべい布団を中心にして、何者かが円状に走り回っているのが分かった。加えて何故それが子どもなのかと思ったかというと、足音の軽やかさや床の軋む音、そして何より――
――キャハハ
という様な高い笑い声が微かに聞こえるのだとか。
夜毎にそんな霊障に遭遇するHは、夜になると怖くて怖くて、うつ伏せにうずくまって掛布を被ったまま動き出せなかったらしい。
怖いならどうして部屋の明かりを消すのだと思うだろうが、Hは部屋を真っ暗にしなければ眠る事が出来ず、その霊障にも毎日遭遇する訳では無いので仕方が無かったんだとか。ちなみに掛布を頭まで被って眠るのも彼独特のルーティンであって、難儀な事にそうしないと眠れないらしい。
――しかし、子どもの霊に悩まされている真っ最中のある夜半。Hはどうしてもトイレに行きたくなってしまった事があった。深く眠ってしまおうと飲んだくれたビールが仇になったと言っていた。
完全に目が冴えてしまったHが、布団の中で周囲の物音に耳を澄ます――
やはり自分を中心にして一人の子どもが走り回っているらしく、笑い声も聞こえる。
しかし尿意というのはどうしようもない……絶望的に日当たりの悪いこの家でオネショなんかした暁には、一体それを何処に干せば良いのか検討も付かない。
鳥肌の立った肌を擦り、Hは思い切って布団を引っ剥がした――
――するとどうだ……先程までの物音がピタリと止むでは無いか。
さっさと用を済ませたHが布団に戻ると、その夜は静かに眠る事が出来たんだとか。
それからHは子どもが走り出すと勢い良く掛布を引っ剥がした。するとやはり足音と笑い声も止まるのである。
革新的な対処方を会得したHであったが、子どもの霊との共同生活は、ただそれだけで折り合いが付けられる程単純なものでは無かった。
ある夜、足音が聞こえ始めたのでHは掛布を蹴り飛ばした。やはりピタリと物音は止むのだが、再び掛布に潜り込むと、また子どもが走り出す様になった。
Hはそれから、夜中に何度も何度も布団を蹴り飛ばす事になった。けれども子どもの方も慣れて来たのか何なのか、Hがモグラの様に布団に戻ると、再びに走り出すのみならず、掛布を蹴ったり捲ったりする様になったらしい。
「ああうっとうしい!!」
掛布が宙を舞い、痺れを切らした苛つく声が起こる。
するとピタリと音が止み、暗黒は静まり返る。
だが程無くして掛布に潜り込むと、また子どもが走り始める。
最早恐怖よりも怒りが先行する様になっていたHであるが、側を走り回る足音を聞いていると、ある疑念が彼の頭を過ぎっていった。
――これはまるで、ダルマさんが転んだか、かくれんぼの様では無いか……と
子どもに遊び相手にされる状況に遂に嫌気が差したHは、掛布を勢い良く蹴り上げながら、半ば駄目元でこう叫んだのだとか。
「見ーつけたッ! はい、終わり!!」
すると不思議な事に、掛布に潜り込んでも物音がしなくなった。
暗黒の中でピタリと全ての音が止まったのである。
なんだそんな事かよ、とHは思ったそうな。
そして同時にその時、あの悪路での献花を思い浮かべた。
――まだまだ遊びたかったのかな……
何やらしんみりとそう思うと、Hは久方振りの静謐の中でまどろみへと向かい……
眠りに落ちると思ったその瞬間、掛布を被ったその耳元、同じ布団に潜り込んでいるかと思う至近距離から、野太くしゃがれた中年の声を聞いた――
「じゃあつぎはオマエが隠れるバンだ」
――摩訶不思議な事に、大学二年のその頃よりHは、25歳になるまでの記憶がパッタリと無いらしい。
我に気付いたその時には、Hは大手製薬会社のデスクに座っていたんだとか。
浦島太郎の様に未来へと飛ばされたHであったが、その空白の期間を友人や家族に確認すると、彼は変わらず平穏な毎日を送っていて、大学を卒業して大手企業にまで就職していたのだとか。
しばらくは放心し、まるで他人の話しを聞いているかの様なHであったが、不思議と職場での業務の処理の仕方等は理解していたらしく、それに気付いた瞬間から、訳の分からない現象に巻き込まれたという事の実感が押し寄せて来て
――泣いた。
*
そんな話しをHより聞いた俺だが、どうしても一つスッキリとしない部分がある。
だってアイツ、大学生になる前の話しを全然憶えていないんだ。
小学校からの幼馴染みの俺とのエピソードもまるで憶えてない。アイツの記憶にあるのは、誰かからそう伝え聞いたみたいな淡白な事実のみ……そんなのって変だろう?
いや、いま思えば憶えているかの様に必死に振る舞っている風にも見えた。
何か変だ…………