煮えた鍋
102.煮えた鍋
あの……凄く短い話しなんですけど、こんなのでもいいんですかね…?
あぁ、まぁそのじゃあ話させて頂きます。短い話ですし、聞いた人の大半は僕が狂っていると思うだけの話しなんですが……僕の人生に今もってして、いえ、このまま死んで棺桶に入るまで、多大な影響を与える事になった、あの日の……あの事件に関して話します。
今はもう、あんな事があったので辞めたのですけど、僕は35歳の時まで大きな工場で働いていました。
場所を特定されると会社に迷惑をかけるのでぼかしますが、そこは大きな企業の工場で、四階建てで、職員の為のダイニングや広い休憩室なども設置された綺麗な職場でした。
その工場で月に4・5回入る夜勤で、事件は起こったのです。
深夜の一時になると、職員は順繰りに二時間ずつ仮眠を取ります。僕はその日二番目の、深夜2時から4時までの休憩を与えられました。
何人かまとめて休憩するのですが、普通は皆そのまま休憩室に行って簡易なベッドで眠るのですが、僕はその日お茶を買ってくるのを忘れてしまって、とても喉が乾いていたのです。
設備の整った工場なのですが、自販機は何故か一階にしか無く、僕は一人暗い廊下を歩いて、今居る三階から一階にエレベーターで降りていこうと思っていました。
その通路を夜勤帯で使用する者はまずいません。トイレもこことは別の場所にあるのですから、深夜に自販機を利用しようという人以外は全く利用する事の無い……それ故に電球を灯っていない真っ暗で静かな廊下を、作業靴をペタペタと鳴らしながらエレベーターに向かいました。
僕はその時、確かに恐怖を感じていました。真っ暗で静かな白い壁の真っ直ぐな廊下を歩いていると、闇の中から何か湧き出してきそうな恐ろしい印象を覚えていたのです。
エレベーターの前にまで辿り着いた僕は、そこにだけ灯された明かりのお陰で、少し恐怖心を柔らげながら下へ降りるボタンを押しました。
その時、下から上がって来るエレベーターの中からと思われる、非常に大きな、乾いた女の奇声がした。
驚いて僕は後退ったのです。深夜勤務に女性は一人だっていやしません。どうしてそんな声がしたのか訳もわからないまま、混乱した僕がその場を動けずにいると、目の前でエレベーターの扉が開いて、光々とした室内を覗かせました。そこにはいわゆる普通の、狭い正方形の白い壁があり、正面には姿見が設置されている。
別段何か変わった所もなく、誰も居ないのです。
今思えばその時から僕は何処かおかしかったのかも知れません。僕はいつものルーティーンに習って、先程あんな恐ろしい声を聞いたにも関わらず、対して考えもせずにその正方形の中に足を踏み入れてしまったのです。
エレベーターに乗り込んでから何をやっているのだ、と少し正気に戻り、落ち窪んだ瞳の、生白い中年だけを映す姿見を不気味に思って背にしました。
――――チン
軽快な音が鳴って一階に辿り着くと、扉が開きました。
その扉の先にはまた姿見があって、思わず目を移した僕は、自分の背後にぺったりと寄り添う様に居た顔の右半分をドロドロに酸で溶かされた様な女の姿を見ました。
そして耳元で、先程聞いたのと同じ、けたたましい奇声を耳元で挙げられた。あんぐりと口を開けて、鏡越しに僕の瞳を見つめながら。
そこで僕の記憶が途切れているのです。
次に僕が正気に戻ったのは、ダイニングで後ろから同僚に肩を叩かれた時でした。
いつまでも帰ってこない僕を心配した同僚が、ダイニング室の部屋が明るくなっているのに気付いて入ってきて、コンロの前で背中を同僚に向けた僕の肩を叩いたのです。
「……ひっ!」
同僚が蛙を引き潰した様な声を上げて、僕の落としていた視線の先を眺めていました。
僕は、赤黒い水だけが入ったぐつぐつと煮えた鍋に、自分の右手を差し込んで、ぐるぐるとかき混ぜ続けていたのです。
驚いた僕は、その鍋から手を引きました。勢い良く抜いた右の掌から、ずるりと白い指先の骨が露になって、そこに付着していた肉がポチャリと音を立てて鍋の中に戻っていった。親指と人差し指を残して、残りの指先が全て骨を垣間見せながら、肉を落として、鍋の中の赤黒い色と渦巻きをより一層濃くしていった。
同僚が青ざめた顔で絶叫して、走り去っていった。
そして僕は頭のおかしい人間とみなされ、遠巻きに、角の立たないように慎重にその会社の退職を余儀無くされたのです。
今でも僕の右手は……ほら、親指と人差し指が歪な形で残っているだけ。残りの指は第2関節から先がありません。
あはは、綺麗に残っていた骨も結局切り落としてしまいました。これが僕の人生に与えた多大な影響という訳です。失職したのもそうですね。
えぇ、僕が狂っていたのかもしれません。だけどあの時見た女と、その奇声は何なのでしょうか……。
あぁそれと、一階のエレベーターを降りた先にあったと言った、顔の溶けた女を映した姿見ですけれど、
無いんです。
そんな物は、姿見なんてそんな所には。
だからギョッとして見てしまったんですかねぇ。