義眼が視たもの
100.義眼が視たもの
これは私が当時働いていた病院で夜勤をしている時の話しです。
私はその年から看護師として働きだした新人で、その時はまだ働きだして半年位でした。夜勤は三人体制で、毎日厳しい業務に翻弄される日々でした。
深夜の2時頃でしょうか? 詰所で電子カルテを書いていたら、ナースコールがありました。
私は肩から下げたピッチという小型の携帯電話の様なのをポケットから出すと、ナースコールの鳴った部屋番号を確認しました。
『211』と表示された番号を見て、ここが個室である事が直ぐにわかりました。
「あ、私行ってきます!」私は張り切ってそう先輩に言うと、211の個室まで駆け足で向かいました。
その個室の扉を開けると大きな窓が正面にあって、その窓のすぐ下にベッドがあったと思います。その上で、左目が義眼となった80歳頃のお婆さんが、暗い部屋でこちらに足を向けて仰向けに天井を見上げていました。
「どうしました村井さん?」
村井さんは左目の義眼とは関係なく、呼吸器の疾患で先日入院された患者さんでした。
「……ぇる……よ」
村井さんの口元には、薄緑色の酸素マスクが装着されていて、持続的に酸素を送り続けています。そのせいで声は籠って、言葉が聞き取り辛いのです。
私はよく聞き取れなくて、何かを伝えようと話す村井さんの口元に耳を寄せました。
「……てる……」
「はい?」
「み……るんだよ」
「……はぁ、見る? 何をですか? それより、呼吸が苦しいとかは大丈夫ですか?」
「……見てるんだよ」
「え……?」
言葉をようやく聞き取って、村井さんの顔を見直すと、その両の目は私ではなく、ずっと天井を見上げていることに気がつきました。じーーとある一点だけを瞬きもせず見つめ、左目の義眼は水気が抜けて乾きかけていました。
「たまに来るんだよ、今もそこにいる。あんた、見えるかい?」
そう言われ私は、恐る恐る天井を見上げました。
「……いや、何もないですけど」
私の目には、暗い天井と蛍光灯しか映りませんでした。正直私はその時、村井さんが認知症になりかけているとしか思いませんでした。高齢者が入院して認知症になる事は良くあることですから。
「そうかねぇ、今でも見てるよ? ほら、感情の無くなっちまった様な虚ろな目でこっちを。……わたしゃ左目は義眼でも、右目は良く効くでね。長い髪がそこまで垂れてるじゃないか」
「うーん」指で示す村井さんと一緒になって見上げますが、やはり私にはわかりません。
「村井さん。見えるって、いったい何が見えるんです?」
「……あれかねぇ、この顔はやっぱり。……目が合っちまったんだよねぇ。それだけだぁ。だから、こんな人に付きまとわれる覚えは無いんだけど」
「目が合ったって、何の事です」光沢を帯びた瞬きをしない左目の眼球を見つめていると、少し怖くなってきて、恐る恐る問い掛けた。
「一昨日かね、おったろ。飛び降りた女が」
「えっ」
確かに一昨日、この病院の5階の窓から難病を苦にして飛び降りてしまった患者さんがいたという事は、昨日出勤したときに先輩から聞いていました。
「何言ってるんですか、村井さん、私たちと先生の他には、面会に来たご家族としか会ってないじゃないですか、そんな人とどうやって目を合わせる事があったんです?」
やはり認知症だと思いました。村井さんはここ1ヶ月ほど自室安静で、入浴すらせずこの個室で過ごしていたのですから。
「それがあんた。一昨日の事だけどね。私は昼間することも無いもんで、いつもこうして仰向けになって寝転がったまま、頭の上の窓から雲やら鳥やらを見て過ごしてたんだよ。目だけはいいで、鳥の種類やら雲の種類を考えて暇を潰してね。
そしたら何やら上から大きな影が射してきてね。何かと思って見てたら、逆さまになった髪が垂れて来て、そのつぎに青白い顔が落ちてきた。そう、逆さまになった人間が落ちてきたのさ。そうして落ちながら、じろりと目が動いて、私を見たのさ。あの時ばかりは自分の目の良さを疎ましく思ったよ」
ゾッとしました。
一昨日自殺した人が落ちた場所は、病院の正面玄関の花壇の下だったと聞いたのですが、村井さんの言うこの部屋の窓から顔を出せば、すぐその眼下に、その正面玄関の花壇があるのです。
急に信憑性を帯びてきた村井さんの話しが怖くなって、私は一刻も早くその部屋を出ようと「気のせいですよ」と気丈に振る舞いました。
「そうかねぇ……でもほらあんた。今もいるよ?ずっといるんだ。口をだらしなく開けて、魚みたいな目でこっちを見てる。それに思えば思うほど、一昨日の逆さまになった女に瓜二つだよ」
そう言って村井さんは天井を指差しました。
私は再び天井を見上げることは出来なくなっていました。そそくさと踵を帰し、部屋を出ようと開き戸に手を掛けると。
「何かねぇ……さっきまでボーと呆けていたのに、般若みたいに表情が変わり始めたよ? なぁ看護師さん、どうか助けてくれんかね」
私は何も聞こえなかった事にして、村井さんの部屋を後にしました。
走って詰所に戻って、今あった話しを先輩にしました。そうして先輩と二人で村井さんの元に行くことになったのですが、再び訪室すると、村井さんは眠っていたので私たちはそのままにしました。
それから、その日の夜勤で村井さんと顔を合わせることはありませんでした。朝の検温も、酷く怖がる私を案じてか村井さんの部屋には先輩が行ってくれたのです。
夜勤を終え二日後、私が再び出勤したときです。
村井さんの容態が急変し、お亡くなりになりになったと先輩から聞きました。
村井さんの言う天井に映った女が、連れていってしまったのでしょうか?
元来から、生物を殺す際には目を合わすなと言います。眼差しにはその生物の思いが宿るからでしょう。
しかし、飛び降りる女を偶然見てしまっただけの村井さんが、何故その女の怨念で連れていかれなくてはならなかったのでしょうか?
死んでしまった人間に、理不尽などという理屈は通用しないという事なのだろうか。
私はこの一件があってから、窓から空を見上げなくなりました。
いつ空から逆さまの人間が落ちてくるかわからないからです。
投稿から100日が経過しました。早いものです。
これにて怪談の毎日投稿は終了とさせて頂きます。反響があれば、不定期でまた投稿するかもしれません。
それでは失礼致しました。




