8.君さえいればいい。
番犬が地面の匂いを嗅いでいる。
僕はその目の前をこそこそ進んでいた。
……本当だ。全然気づかれない。
どういう仕組みかは一切分からないが、そうなるものだとまあ理解しよう。
誰もがよく使用しているツールの詳細を詳しくは知らないまま利用しているものだ。
……気づかれないとはいえ、大型犬の隣を通るのは少し緊張する。こそこそ歩く必要は無いのだろうが、ついつい音を殺して歩いてしまっていた。
あ、監視カメラだ。ピースピース。
うぇーい、警備会社の人たち見てるー?
……早くお屋敷の中に入ろう。
僕は屋敷の扉を押し開き、中に侵入した。
人や生物の気配はしない。
屋内に入ってしまえば案外ザル警備のようだ。
高そうな絵画や壺を横目に部屋を物色する。
僕は【忍び足】の力を過信してどんどん部屋を開けていくことにした。
ここは、食堂か。広いな。
ここは、トイレか。広い。落ち着かなさそうだな。
ここは、衣装部屋か。まあ広い。
こんなに服があって全部着る機会が果たしてあるのだろうかね。
おっと。
……何て露出度の高い服なんだ。
ライアはこんなの着るつもりか?
……ごくり。
……おっといけない。
これじゃまるでただの変態じゃないか。
僕はピンクな妄想を振り払い、部屋を後にした。
僕は屋敷内をくまなく捜索してみる。
だが、ライアはおろか人っ子一人いない。
普通、この規模のお屋敷なら管理者や侍女の一人や二人くらいいてもいいと思うが……。
廊下は埃一つなく、窓ガラスもピカピカに磨き上げられている。
なのに、ここまで人がいないのは不自然だ。
それとも人なんていなくても全てSSSのスキルが解決してくれるとか?
先ほどの戦いで一部とはいえスキルの便利さを僕は知った。
こんなの現実にあれば仕事など馬鹿馬鹿しくてまずやってられない、少なくとも商業はその体をなさないだろう。
豪華な装飾が施された廊下を見て、僕はため息をつく。ライアはこの世界でどれだけスキルに依存した生活をしているのだろうか。
このままではライアがダメ人間になってしまう。
やはり僕が現実に連れて帰らないと。
≪春野カオスは【忍び足】を解除しました≫
「ライアーーーーーー!」
おもむろに叫んでみた。もうばれてもいい。
誰でもいいから目の前に現れて、僕の孤独を癒してくれ。
全く反応は無い。
……もしかして留守?ここまで来て?
ここまで来て結局会えないなんてそれだけは避けたい所だが。
……後、捜索していないのは地下だけになる。
だが正直気乗りしない。
何といっても薄暗いからな。
薄暗い部屋には嫌な思い出しか無い。
そもそも僕は薄暗い部屋の謎の自動販売機によって半ば強制で異世界に連れてこられたわけだし。
SSSなんて高度な技術があるのなら、僕なんかじゃなくて異世界に行きたいって希望している人間から先に連れてくればいいものを。
……ここで文句を言っていても仕方ない。
僕はしぶしぶ地下へ続く階段を降りることにした。
石壁を伝い僕は恐る恐る階段を降り廊下に足を着けた。
一階と同じ材質だと思われる絨毯が敷いてあり、明かりは壁に掛けられたランプだけだ。
「!!!」
ごそごそと壁沿いから音がした。
僕は恐る恐るその方向を見る。
……何だ、ネズミか。
少しして暖簾のかかった部屋が見えた。
……暖簾? ……洋風のお屋敷に?
僕はその違和感を不思議に思いながら、暖簾を潜る。
どこかで見たことのある部屋の内装だな。
決して洋風ではない。
どちらかというと和風の……何だろう。
こういう場所は何と言う名称だったか?
僕は思い出せないまま、奥まで進む。
目の前の摺りガラスの引き戸を僕はガラッと開けた。
突然、視界が曇った。
心地よい熱量が僕を包み込む。
これは……湯気だ。
……あ~。思い出した。
僕は曇った眼鏡をハンカチで拭いて、掛け直した。
「お風呂だここ!」
そう。通った部屋は脱衣所で、
ここはお風呂。
そして、お湯の支度がしてあるという事は……。
当然、誰かが入浴中というわけで。
僕の目の前には、肢体を露わにした高山ライアが立っていた。
「……誰?」
湯気でお互いの姿はよく見えない。
僕は案外冷静な彼女に対して、完全に混乱していた。
ていうか何でまっ昼間からお風呂に入ってんだよ?
「……お背中、お流しいたしましょうか?」
おい、血迷って何言ってんだ僕。これじゃ完全に変態じゃないか。
「……ふ~ん、じゃあお願いしちゃおっかな?」
まさかのOKでた!?
水音。
ライアがこちらに近づいてくる。
彼女の白い柔肌は水滴を弾き、潤っていた。
湯熱により紅潮した顔が、非常に色っぽい。
濡髪が肌に張り付き、体のラインをより強調している。
……据え膳食わぬは男の恥っていうよな?
こんな事言われて断る理由なんて無いよな?
いや、無いね!
神様、仏様。どうか見ていてください。
……僕の生きざまを。
実は初回購入特典のタオル、二枚組だったんだよね。
僕は例のタオルを両手に持ち、ライアに身構えた。
「ちゅー、ちゅー」
「ちゅー?」
「チュー!? いきなりですか!? それはちょっとまだ心の準備が!?」
きょどる僕の頭にはネズミが乗っかっていた。
その小動物は僕の頭上でしきりに鳴いている。
「ぎゃーーーー!ネズミーーー!」
瞬間、僕のこめかみに鈍痛が走った。
「くぁwせdrftgyふじこlpー!!!」
僕はタライで殴られ、そのまま倒れ湯舟に沈んでいった。
………はっ! 生きてる!
ここは寝室か? 僕はベッドに寝かされているようだ。
「全く、建築法無視して地下を無理やり作ったもんだからやっぱすぐに劣化するわねー。またネズミの駆除と補修をしないと」
独り言大きいなー。
なんて思っていると、ライアが寝間着姿で部屋に入ってきた。僕はベッドの上で正座になる。
「さっきはごめんなさい。私どうしてもネズミだけはダメで」
「いや、僕の方こそ。……見ちゃったし」
「何を?」
「……裸を」
「ふーん、そんなに意識してるんだ私の事? そんなに見たいならもっと見てみる?」
ライアは僕の寝ているベッドの隣に座り、胸元をちらつかせた。
華奢だと思っていたが、意外と膨らみがある。
むしろこれぐらいが丁度いい塩梅とでも言おうか。
僕の好みにはドストライクだ。
っておいおい。ちょっと待て。
僕は別に彼女に誘惑されに来たわけじゃないぞ。
いや、嬉しいんだけども。
ごほんごほん。
今の彼女は、僕のイメージとは大きく異なっていた。
病室でのおしとやかさはどこへいったのか、
今の彼女は非常に積極的というか快活といおうか。
同じ姿のはずなのだが、前のライアと今のライアとではまるで別人のように印象が違った。
「本当に君はライアだよな? 一体どうしちゃったんだ?」
「失礼ね、ライアはライアですよ? 見りゃ分かるでしょう?」
もちろん彼女の見た目を間違えるわけがない。
自分の記憶は忘れても彼女の記憶を忘れたことなど一度も無い。
目の前の人物は正真正銘、高山ライアだ。
「……僕の事覚えてる?」
「もちろん。姿形が多少変わっても何となく分かるわ。だって貴方は私が世界で一番好きな人なんだもの」
え……?
なんだって?
僕は難聴じゃないから今の言葉、聞き逃さなかったぞ。
もしかして僕たち相思相愛だったの?
マジ?
ああ、夢なら覚めてくれ。
……いや、やっぱ覚めるな。多少は耽らせろ。
ん?姿形?
僕は現実世界と今の姿が違うとでもいうのか?
……だとしたら僕はいったい何者?
僕は彼女の幼馴染ではなかったのか?
「なあ、ライアはいつからここにいるんだ?」
「え? ……3年くらいになるかな? それがどうかしたの?」
時間のズレ。
僕はてっきりライアと同時期に異世界にやってきたものだと思い込んでいた。
でも事実は違うようで、彼女がここまで独り立ちして生きていることが何よりの証拠である。
僕はどうやら彼女がやってきた3年後にここに来たことになっているみたいだ。
異世界というのは時間軸まで無茶苦茶になってしまうものなのか?
「……ライア、僕は」
君と一緒に元の世界へ帰ろうと思ってやってきた。
そう言おうとした瞬間、ライアが急に抱き着いてきた。
Oh!ソフト&ウェット!
……ってええええええええええ!?
あまりにも積極的すぎません!?
僕、今日卒業しちゃうの?
……しちゃうのか?
僕はそっと彼女を抱き寄せる。
お、お、落ち着け僕。
慌ててたらみっともないだろ。
冷静に振舞うんだ僕。
そうだ、爺さんの裸でも思い浮かべよう。
……うん、ちょっと落ち着いた。
「本当に逢いたかった。まさかこんな形で巡り合えるなんて思ってもみなかった。……本当に大好き」
た、助けて爺さーーーん!
彼女がより強く僕の体を抱きしめる。
僕の思考回路は既にショート寸前だ。
「……子供の頃にもこんな事あったね。私が野良犬に追いかけられて泣いているところをこうやって慰めてくれたっけ」
「……えっ?」
彼女の何気ない言葉で僕の記憶に齟齬が発生した。
確か犬に襲われたのは僕じゃなかったか?
脳内の記憶がグルグルと混濁していく。
僕は、一体何者なんだ?
彼女の事を好いている気持ちは嘘ではないはずだ。
だからこそ僕はここまで使命を帯びてやって来たわけだし。
「ライア……」
僕の問いかけに彼女は答えなかった。
「……寝てるし」
よほど安心しきったのだろうか、彼女はそのまま眠ってしまっていた。
目じりは少し潤み、涙を流しているように見えた。
……ここまで会いに来るのを喜んでくれたなんて。
改めて僕はここまで来て良かったと思えた。
一緒に異世界から脱出するという話題はまた今度にしよう。
僕は寝息を立てる彼女をベッドに寝かすと、床に寝転んで休息を取ることにした。
ああ、何て心地良い絨毯なんだ。
これは恐らく人生で一番気持ちいい雑魚寝だろう。
今までの旅路の疲れなんて一瞬で吹き飛んじゃうぜ。