六話
大海人皇子は表情を繕うと椅子から立ち上がった。
「額田殿。昨日の礼はいいよ。あれは偶然に見ていたから出来た事だ。感謝されるほどじゃない」
「…それでもです。皇子はお優しいからわたくしを放っておかずに助けてくださいました。それのおかげでどれほど救われたか」
響岐が一向に引かずに言うと大海人皇子はやれやれと困った風に頬を掻いた。
「ふう。君も譲らないね。わかったよ。お礼をしたいという気持ちは受け取っておく。けど、それ以上は不要だ」
「わかりました。でしたらこれにて失礼致します」
「…ああ。そうだな、もし良ければ。また部屋まで送るよ」
ありがとうございますと響岐が顔を上げると大海人皇子は照れたような表情になる。どうしたのだろうと思ったら皇子は顔を背けてしまった。
どうも、照れているらしい。響岐の近くで見る笑顔に見とれてしまっていたのだとこの時は当の本人は気がついていなかった。
自室にまで来ると響岐はまたお礼を言って中に入ろうとした。皇子はどう思ったのか響岐の手を不意に握ってくる。
「皇子?」
響岐が驚いた声を出すと皇子は少し薄い茶色の瞳を細めた。
「額田殿。兄上には気をつけた方がいい。君に目をつけている」
「それは。本当ですか?」
「…ああ。額田殿はとびきりの美人ときた。兄上は君のような才媛には目がない」
美人といわれても響岐はぴんとこない。才媛はまだ自分だとわかるのだが。
「あの。とびきりの美人というのはわたくしの事ですか。才媛くらいは自覚はあるのですけど」
「…やれやれ。自分の顔立ちくらいは認識しておこうよ。君は普通の人から見れば、凄い美人といえる。ちょっと、目つきはきついけど。もっと大人になったら成熟した大輪の花のような美女になるんだろうな」
「…皇子。目つきがきついのは余計です。わたくしが子供だとおっしゃりたいのはよくわかりました」
むっとしながら言う。すると、皇子は掴んでいた腕を放した。
「もう、ここは君の部屋だ。早く戻りな」
「ありがとうございました」
「礼はいいよ。君に伝えたい事は伝えたし。じゃあね」
ひらひらと手を振りながら皇子は居所まで戻って行った。それを見送ったのだった。
「あ。姫様」
自室に戻ると出迎えたのは千萱だった。母の加耶もいる。二人はほうと胸を撫で下ろしていた。
「ふう。姫様、ご無事で何よりでした」
「あら。二人ともため息をついたりしてどうしたの」
響岐が不思議そうに問いかけると加耶は少しむっとしつつも言った。
「…わたしどもは大海人皇子様の元へ姫様がお一人で行かれたと聞いて。何か起きぬかと心配していたんです。千萱も女官の方から姫様が大王様の元へ行かれたと聞いて慌てたのですよ」
「そういえば、二人に言うのを忘れていたわね。悪い事をしたわ」
「いえ。姫様がご無事であればわたしどもは何も。ですけど、中大兄皇子様の事がありましたから。十分にお気をつけください」
「わかったわ。ありがとう」
お礼を言うと加耶は気にしないでくださいと微笑んだ。千萱も頷いた。
「さて。姫様、もう夕刻ですから。夕餉にいたしましょう」
「そうね。そうしましょう」
加耶は千萱と二人で響岐の夕餉を取りに部屋を出て行った。ふうと吐息をついたのだった。
夕餉を済ませると加耶と千萱に手伝われながらぬるま湯で体を洗う。それが終わると濡れた髪を布でよく拭きながら夜着に着替える。辺りはすっかり暗い。
もう、冬なので蔀戸などは全部閉じてしまった。響岐は加耶が熾してくれた火桶の炭火に手をかざした。
「寒いわ」
ぽつりと呟くと千萱もにこりと笑いながら言った。
「そうですね。姫様、風邪をひいたら大変です。早めに寝てください」
「そうするわ。おやすみ」
「おやすみなさいませ」
千萱にそう言われてから響岐はゆっくりと立ち上がった。寝所に行く。
床はひんやりと冬の冷気で氷のようだ。それでも一歩ずつ歩いた。衾の中に入る。目を閉じたのだった。