四話
響岐が大王の元に呼ばれたのは加耶が白湯に蜜を入れたものを飲ませてくれた日の翌日だった。
響岐は何事かと思いながらも大王の御前に上がった。大王はにこやかに笑いながら彼女を待ち構えていた。
「ああ、額田。よく来ましたね。今日はそなたに頼みたい事があって呼んだのです。そちらに座りなさい」
大王に椅子を示されたので響岐は座る。
「それで大王様。わたくしに頼みたい事とはなんでしょうか?」
「ああ、それはね。今度、宴がありますから。額田にも出席してくれないかと言おうと思ったの。ちなみに中大兄や大海人、間人も出ますよ」
響岐は声を出しそうになった。内輪の宴かと思いきや大王のお子様方も出るのではどうしたらいいのか。緊張と不安で心の臓がばくばくと速くなりだした。
「大王様。わたくしは何をすれば…」
「そうですね。額田にも女官としての務めはしてもらおうかしら。お客人の応対やお膳を運ぶくらいでいいかもね」
大王はそうねと考える素振りをした。
「…額田。もしよければ、歌を一つ作ってくれないかしら。宴の時にね」
「ええっ。いきなりおっしゃられましても…」
「ふふ。冗談よ。でも、披露してくれたら私としては嬉しいわ」
はあと言うと大王は表情を真面目なものに戻した。
「では額田。宴に出るのは決定事項だから。よろしく頼みましたよ」
「わかりました」
響岐は丁寧に頭を下げると大王の御前を辞した。自室に戻ったのだった。
加耶や千萱に宴に出ると決まった事を告げた。二人とも、驚きのあまり目を見開いた。
「姫様。大王様が宴に出よと仰せになったのですか?」
「そうなのよ。困ったわ」
「…もしや、歌を作ってほしいとでも仰せになりましたか」
「ええ。披露してくれたら嬉しいと。でも、何一つ準備をしていないから。余計に緊張するわ」
「そうでしたか。大王様がお呼びになられたのは宴の件でしたのね。けど、姫様のおっしゃる通り準備をしないといけませんね」
本当よと響岐は頷いた。仕方なく、まだ新しい何も書いていない竹簡を出すように加耶に言った。
響岐はそれから、宴で披露する歌を三つ程は考えるために夜に寝るのを惜しんで作成に取り掛かった。宴は一月後であったが。響岐には短く感じられたのだった。
また、一月が経ち、宴の日がやってきた。小鈴や加耶、千萱もお客人の応対やお膳の上げ下げにお酒の準備にと大忙しだ。
新参の響岐もお手伝いで朝方から走り回っていた。歌も何とか出来上がってはいたが。披露はできないと思われた。
夜になり楽が奏でられてお客人や主催者側である大王方もお酒が進んでいるらしかった。響岐は大王に呼ばれて側近くに侍っている。
「…額田。お酒を大海人や中大兄に注いであげて」
「わかりました」
響岐は中大兄皇子や大海人皇子の近くにお酒の入った壺を持って歩み寄った。
まずは中大兄皇子の土器にお酒を注ごうとする。向こうも気付いたらしく入れやすいように土器を壺の注ぎ口に近づけてくれた。響岐はお酒を注いだ。
なみなみと入れると中大兄皇子は満足そうに笑った。
「誰かと思ったら。額田殿じゃないか」
「…ええ。わたくしが額田ですけど」
「ふうん。君、こうやって見たら美しいな」
「あの。皇子?」
「額田殿。もしよければ、俺の妃にならないか?」
響岐が驚いて見ていたら中大兄皇子は彼女の腕をぐいっと引いた。
「…皇子?!」
「額田殿。こうして会うのは二度目だが。君の事は気に入っている」
響岐は困りきってしまい、周囲に助けを求めた。すると、大海人皇子が気付いて立ち上がった。
響岐と中大兄皇子に近づくと小声で注意をする。
「…兄上。母上お気に入りの女官です。手を無理に出したらどうなるかわかっておいでですか?」
「別にいいだろう。俺が言い寄っても。仮にも日嗣皇子ー皇太子なんだからな、俺は」
「兄上。額田殿が困っています。お離しください」
中大兄皇子はちっと舌打ちして響岐の腕を離した。響岐はすぐに距離を取る。
大海人皇子は心配そうに響岐を見つめた。
「大丈夫ですか?額田殿」
「…え、ええ。先ほどはその。ごめんなさい」
「額田殿が謝る事ではないよ。兄上には後で注意をしておくから」
ありがとうございますと小声で言う。大海人皇子は響岐に立てるかときいた。
頷くと立ち上がるのを助けてくれる。響岐は震えている体を自ら抱きしめた。
大海人皇子は気遣って自室まで送ってくれたのだった。