一話
これは飛鳥の時代から奈良の時代に生きた女性や人々の物語であるー。
ふうと額田こと響岐はため息をついた。彼女は椅子から立ち上がり簾を自身の手で上げた。響岐は今年で十五になる。
実は父の鏡王が大王の御座所である宮城に仕えないかと言ってきた。昨日の事だ。響岐の部屋には乳人にあたる加耶とその娘で乳姉妹の千萱の二人がいる。
「…響岐様。父君様のお話はどうなさいますか?」
加耶が問う。響岐はどうしたものかと悩んだ。
「そうね。お父様の仰せの通りにするべきかしら」
「ですが。宮城には既に多くの女官や采女がいると聞きます。響岐様が入られたらどんな嫌がらせを受けるか…」
「加耶。確かに宮城には既にお妃様や女官方が大勢いられるけど。わたくしが入ったところで変わりはしないわ」
加耶は大きなため息をつく。
「姫様はわかっておられませぬ。加耶は心配なのです。姫様はお美しいですから」
響岐はそうかしらと首を傾げた。なかなか、自覚のない主に加耶はどうしたものかと頭を抱える。千萱もそんな主と母を見守った。ふと、外でぴいと鵯が鳴く。今は季節が冬に近く紅葉の季節ではない。
木々からすっかり葉は落ちて寒々しい木枯らしが吹いていた。
「姫様。母の言う通りかと。宮城は人の思惑渦巻く場所といえます。まだ十五の姫様には危険な場所です」
千萱は真面目な顔で言う。加耶も頷いた。
「そうですとも。千萱や私が付いていきたくとも父君様が反対するでしょうし」
「わかったわ。宮城に行くのはもっと先にしていただきたいとお父様に申し上げてみる」
「申し訳ございません。姫様のお言葉も聞かずに」
「気にしないで。加耶や千萱が心配してくれているのはよくわかったから」
響岐は笑いながら気を取り直すように言った。
加耶と千萱もほっと胸を撫で下ろしたのだった。初冬の昼下がりはそうやって過ぎていった。
あれから、夜になり父の鏡王が帰ってきた。響岐は父に直接言ってみた。
「お父様。わたくし、やはり宮城に上がるのはもっと先にしたいのですけど」
「…響岐。いきなりどうした。宮城の話は確かにしたがね」
「あの。乳人の加耶や千萱に怒られました。宮城は危険だし女官方から嫌がらせを受けたらどうすると」
響岐が言うと父はふむと顎を撫でる。
「そうだな。響岐はどうしたいんだ?」
「わたくしは。歌が好きではあるわ。それを披露できる場を手に入れられるのは悪くないと思うけど」
「そうか。だったら、加耶と千萱を連れて行っていいから宮城に上がってみるかな?」
父がにこやかに笑いながら言った。響岐は目を見開いて本当にいいのかと父を見つめる。
「響岐。お前は昔から長歌や歌が得意だった。それは宮城でも有名だよ。こんな邸の中でお前の才を埋もれさせておくのは真に惜しい」
父の言葉に響岐は何とも言えない気持ちになる。目を閉じてしばし考えた。
そして、瞼を開けるとしっかりと頷いた。
「わかったわ。お父様。わたくし、宮城に上がってみる。何が起こるかわからないけど。大王様やお妃様方にしっかりとお仕えできるように頑張る」
響岐の返事に父はそうかと言って眉を八の字に下げた。少し悲しげな表情だったが。響岐は気合いを入れるために両手に力を入れて握りしめたのだった。
あれから、宮城に上がるために響岐は加耶や千萱の三人で準備に追われた。父も心配だからと衣類や簪、櫛などを用意してくれる。
他の細々とした物も櫃などに入れた。加耶と千萱の二人もてきぱきと響岐の私物をより分けている。
「姫様。宮城に私共も行けるようになったのは有難い事です。これでお守りできますよ」
「加耶。わたくしも子供じゃないわ。自分の身くらいは守れるのに」
「それでもです。姫様は霊力もお持ちですから」
加耶の言葉に響岐は黙り込んだ。響岐は幼い頃から木霊や精霊の類いが見えたりした。当時は恐ろしくよく泣いて父や母を困らせたものだ。
響岐はそれを振り払うように荷の準備を再開したのだった。