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約一年後に死ぬひと

 普通の社会人になるということは、社会を構築する一部、或いは稼働させるための歯車のひとつになることだと思う。異論はあるだろうが、それが私の考えだ。時に、そのパーツは壊れたり合わなくなったりと、色んな事情で入れ替わっていく。

 私がまず疑ったのは、香織がパーツとして危ない状況にあるのではないか、ということだった。仕事がつらい、彼氏とうまくいっていない、体調が悪い、人生に張りがない。

 今辞められたら困る、というのはブラック会社がよく使う言い回しだと聞いた。だがそれは真っ赤な嘘だ。大概の場合、非常に専門的な仕事でもない限り、ひとりのOLが辞めても代わりは見つかる。もしも仕事が辛くて、と切り出されたら、場合によっては休職なり退職なりを勧める覚悟を五秒で決めた。

 その間に、久し振り、お待たせ、何食べる、という会話を交わして、私と香織の間にはカフェのメニューが広げられていた。

 パンケーキが美味しいお店に行きたい、という私の要望に、香織はきちんと応じてくれていた。いかにもふわふわ柔らかそうなパンケーキの写真が何種類も載っている。涎で口の中が潤い、軽めの昼ご飯を食べたはずなのに空腹感が深まる。

 メニューに目を輝かせながら、私は香織の顔をちらりちらりと盗み見た。横顔は大学生の頃とそんなに変わらない。化粧の雰囲気や髪型は違うし、より大人っぽくなっている。

 だが年月の経過だけでは納得出来ない雰囲気があった。一目見て分かるほど痩せているわけでも、化粧で隠せないほどクマが酷いわけでもない。前述の通り何となく、彼女が擦り減ったように感じたのだ。

 尤も、彼女から見たら私の方も擦り減っているように見えるのかもしれないが。現代社会のストレスは罪深い。

 グラスの中のお冷を一口。爽やかなレモンの匂いが、淡く口の中に広がった。

「ねえ、香織。どれにする? 違うもの注文してシェアする?」

「いいね、それ。私、これがいい。苺が乗ってるやつ」

「じゃあ私はチョコバナナ。……うーん、カロリーの暴力……」

「いや、今更でしょ」

「だよね」

 大学生の頃と変わらない、軽快なテンポで会話を終えたら、自然と互いに笑みを零す。そして通り掛かった店員に声を掛けて手早く注文を済ませた。ドリンクとのセットがお得と勧められて、私はホットコーヒーを、香織はオリジナルブレンドの紅茶を。紅茶が好きなのは変わっていないらしい。

 久し振りに誰かと会って、変わっていることに驚いたり、変わっていないことに安堵したり。再会は意外と心が忙しい。その忙しさも楽しみにできたら良かったのだが、香織の顔を見た時から拭えない感覚のせいで、私はなかなか本題が何なのか問えない。

「雪子ってさ、卒論書いてた時辺りから完全にコーヒー中毒になったよね」

「せめてコーヒー党と言いなさい」

「恋愛もブラック無糖?」

「だまらっしゃい、無糖ストレートティー女」

「それがねー、一応砂糖は入ってたんだよ。ちょっと前までね」

「え、別れたの?」

「うん。浮気されたからムカついて脛蹴ってやった」

「どうして金的しなかった」

「買ったばっかりのブーツ履いてたから」

「ああ……」

 そりゃあ相手を蹴り飛ばすのに使うのは勿体無い。ピンヒールだったら、爪先を思い切り踏みつける可能性はあったかもしれないが、香織はピンヒールの靴を履くと歩き方が生まれたての子鹿になってしまう。

 今日のブーツも、ヒールは高さ約5センチの幅広。安全性、安定性を重視した買い物をしているのが伺えた。

 香織の髪の毛は前に会った時よりも少し暗い茶色に染められていた。彼女は昔からこまめに髪を染め直すし、季節が進んで春が来る頃には、ピンクベースのブラウンに染められているかもしれない。

 両手の爪はシンプルなフレンチネイル。会った時から香織はマニキュアを塗るのが上手で、何度も彼女に塗ってもらったことがある。

 観察と懐古のサイクルの中で私が新たに発見できたことはあまり多くなかった。変わらず、咲本香織という人間はなかなかにお洒落で見目に気を遣っているのは分かった。一方で、きちんと施した化粧がよれそうになるくらい満面の笑みもちょいちょい浮かべてしまう。そういうちょっとした均衡の具合が、私はたまらなく好きだ。

 香織に振られた男は見る目が無いなあと思う。こいつ、一途で料理上手で掃除が得意なのだ。男が好みそうなポイントを押さえている。大学生の頃に貪った香織の手料理、散らかった私の部屋の掃除を強制執行されたことなどが思い出された。全部笑い話だ。

 今日のことは笑い話にできるのだろうかと、少し不安な私がいる。唐突なメールの、乾いた文面を思い出しては、一体何を告げられるのだろうかと憶測が頭の中を飛び回る。

 パンケーキはご提供までお時間をいただきます、というメニューの文言を信じて、私は何でもないような口調で香織へと声を掛けた。

「それにしても突然メールしてきて、どうしたの? 何かあった?」

「んー、そうだね。色々あってさあ。ちょっとゴタゴタしてて。そしたら雪子に会いたくなった」

「何それ、遠回しに告白してる?」

「せめて洗濯が上手にできるようになってから出直して来なさい」

「上手になったから! 昔よりは!」

「はいはい、どうせアイロンがけとかはサボってるんでしょ?」

 ぐうの音も出ないとはこのことである。お冷を一口飲んで、喉を潤す。どうやって聞き出したら良いのだろうかと考えた。直球勝負を仕掛けて駄目だったということは、香織は話すタイミングを探しているということだろう。

 ならば、待つしかないのだろうか。

「雪子には、ちゃんと今の私のこと、話したいなあって思って」

 何だか深みのある声に聞こえたので、真剣に思考を巡らせた数秒。

「……まさか元カレのこどもが……?」

「いや、それはないから」

 一刀両断された。違っていて良かった、と安堵する。シングルマザーとして生きていく大変さは方々で耳にするので、香織がその道を歩むと聞いたら頭を抱えていたところだ。胃薬常服一直線である。

 しかし香織の言い草からして、何かしら重大なことを伝えたいのだろうとは察せた。そして彼女はそのタイミングを自分で決めたいのだろうとも感じた。

 だからそれ以上の詮索はやめて、私達は近況報告を始めとして他愛のない話に興じた。

 最近残業が多くて嫌になる。お局様の態度の使い分けは最早神の領域ではないか。もうすぐ2月になるからバレンタインデーのことを考えなきゃいけないけど、会社の人間に用意するのは面倒。いっそチロルチョコをばらまきたい。ホワイトデーのお返しって毎年安っぽいよね。

 そうやってありきたりな会話をしているうちに、注文したパンケーキが飲み物と共に運ばれてきた。ご注文の品はお揃いでしょうか、という問いに是を返して、早速取り出すのはスマートフォン。

 見ただけで食欲をそそるパンケーキを写真に収めぬ理由があるだろうか。いや、ない。

 それぞれ写真を撮った後、SNSのどれかにでも後でアップすることだろう。綺麗に撮影する為にいくらか時間を取られてしまったが、それはそれ。

 期待通りにパンケーキはふわふわで、口の中に広がる幸せに、ふたり揃ってだらしなくにやけた。そして互いの皿を交換して、違う味を楽しむ。これだからシェアというのはやめられない。

 美味しい美味しい、と言いながら食べ進めていった結果、私も香織も食べ終わるのは予想より早かった。ソースだけが残った皿に「ごちそうさまでした」と両手を合わせて、残っているドリンクで口の中をリフレッシュ。

 そろそろ話してくれるかな、なんて期待しながら、ちらりと香織の顔を見た。幸せそうな顔でハーブティーを飲んでいて、私は少し安堵する。

 コーヒーカップをソーサーの上に戻して、満腹感が連れてきた睡魔の存在を感じながら、はあ、と甘い溜息をついた。

「私ね、病気なんだって」

 唐突に発された言葉が、脳の中心にねじ込まれた。隣へと顔を向けると、相変わらず香織はティーカップを持っていた。唇は弧を描いている。微笑んでいる。

「病気って…どういう病気?」

「んー、説明するのが難しいっていうか、雪子は知らない病気だと思うよ」

「何て言う病気?」

「正式名称は忘れちゃった。特殊免疫不全による、何とかこんとか。すっごい珍しい病気で、症例も少なくて。治療方法が確立されてない病気」

「……治らないってこと?」

「そうだね。治らないって言われた」

 治らない難病というのは、色々あるんだろうと思う。生憎と医療方面に明るくない私は、香織の病気について何一つ見当がつかなかった。たまにテレビのドキュメンタリーで紹介される難病のうろ覚えの知識なんて、役に立つはずもない。

 香織はずっと、ティーカップの中を見つめていた。さっきまで浮かべていた微笑みは鳴りを潜めて、静かな表情で。その手がそっと、カップを置いた。陶器と陶器がぶつかり合う音が、ひどく鼓膜を震わせる。

「余命、長くても、あと一年だって」

 余命、一年。それが余命宣告としては長いほうなのか、私には分からない。こちらに顔を向けた香織の表情は、嘘みたいに凪いでいる。悲嘆に染まっているわけでもなく、ひたすらに静かだった。

 一方の私は、おそらくひどい表情をしていたことだろう。突然、長年の友人に病を告白され、余命はあと一年だと言われ、動揺しないほうがどうかしている。

 どうして香織が不治の病に侵されているのか。どうして香織なのか。

「多分、半年くらいしたら入院生活になるんだって。症状がひどくなるにつれて段々動けなくなっていくらしいから、その頃には会社も辞めなきゃいけないと思う」

「……お金、あるの?」

「それがさー、すごい珍しい病気だから研究のために医療費タダになるんだって。お得だよねえ」

 それは研究のためのモルモットになるということだろうか。医療の発展のためには研究は必要不可欠だろうが、香織がひとりの人間ではなくひとつの研究対象として扱われるように思える発言に、私は言いようのない嫌悪を覚えた。私が感情的になっているからそういう考えが出て来ただけで、実際はそうでないのかもしれない。

 でも、へらりと笑った香織の顔を見ると、何だか不思議と力が抜けてしまって、悲しみとか混乱とか、色んなものがごちゃまぜになって、言葉が迷子になるばかりだ。

 隣に座っている咲本香織が、一年後には死ぬらしい。特殊免疫不全がどうたらこうたらという珍しい病気で死ぬらしい。

 身内を亡くした経験はあったが、友人を亡くした経験はまだない。第一号が香織になる可能性が高いことが、あまりにも信じ難い。

 私はそろそろと、彼女の手に触れた。あたたかい。確かに体温がある。香織は微笑んで、私の手を握った。柔らかい、生きている手だ。

「もうね、症状が出てきてるの。見えないようにしてるだけで」

「どういう症状?」

「見たい?」

「……見ることで知れるなら、見たい」

「だよね。雪子ならそう言うと思ってた」

 お見通しされていた私はむっすりと黙り込んで、香織の手を握り返した。一年後にこの手が冷たくなっているのが想像できなかった。

「今日、うちにおいでよ。久し振りにお泊り会してさ」

「すっごい唐突だね……」

「だって、見たいんでしょ?」

「それだけじゃないけどね」

「うん、知ってる」

 部屋の中でなければ見せない、或いは見せたくない。香織の体に出ている症状がどんなものか、私には想像もつかなかった。

 ただ、学生の頃みたいに意味もなくだらだらとお喋りしたいと思った。最終的には死んでしまう、治らない病気になったということは別にして。まだ香織の近くにいたかった。

 要するに不安になっているだけだ。今すぐ死ぬわけでもないのに、香織が自室で突然斃れるのではと悪い想像をしている。それも見越して、香織は誘ってくれたのだろう。

 これじゃあ、どっちが病人なんだか分からない。

「香織、夕飯どうする?」

「コンビニでいっぱい買おうよ。私、肉まん食べたいなあ」

「おでん食べたい」

「あとはお酒とお菓子と…アイスいる?」

「寒いからいらない」

「うち炬燵導入したんだよね」

「やっぱいる」

 そんな話をして、私と香織は席を立った。お会計はざっくり割り勘にして、細かい数字は後で調整するという変わらないルールを適用。

 夕飯を食べ始めるにはまだまだ時間があるし、折角なのでウィンドウショッピングでもしようという話になったので、カフェから出たら向かうのはショッピングモール方面。

 カフェのドアにつけられたベルが、レトロな音でお別れを告げていた。

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