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暴言から始まるダイエット騒動

 小梅と朱詩は仲が悪い−−。


 それは、下の者達や二神をよく知らない者達の間だけであって。


 軍の古参メンバー達やそれに準ずる者達からすると



「喧嘩する程仲が良い」



 なのだが--。



「というか朱詩」

「何さ明睡」

「お前、他の奴らに触れられるの極端に嫌がるだろ。体質のせいで」


 朱詩の体液は全て極上かつ超強力な媚薬である。直接口から摂取しなくても、汗とかが蒸発して気化したのを吸ってそのまま下半身が大変な事になる者達が多い。いわば、歩く凶器だ。子宝的には『神』だけど。


「なのに、小梅と触れ合っても」

「大丈夫、小梅と取っ組み合いをする時には萩波がしっかりと術をかけてくれるから」


 萩波の術で、短時間なら触れ合っても大丈夫なようにして貰っているらしい。ただし、とんでもなく体力と気力を消費するので、毎回毎回は使用出来ないのが玉に瑕だそうだが。まあ、普通の術では朱詩が生み出す媚薬の影響は消せない。

 というか、今まで萩波以外にそれに成功した者は居ないのではないだろうか?


 そもそも、どんな相手だろうと今までは百発百中朱詩の媚薬の効果に膝を屈しているし。


 古参メンバー達、それに準ずる者達だって朱詩が少し本気を出すだけでその影響力に次々とやられてしまっているぐらいだ。


 因みに、その影響力をものともしない者達が居る。

 一神は萩波。流石は自分達の戴く『王』である。


 そして果竪。

 彼女には、何故か朱詩の媚薬の効果は現れず、結果として朱詩は果竪を抱き締める事で神肌を堪能している。


 勿論、本来であれば萩波に殴られる行動だが、萩波も朱詩の体質にはいたく同情している事もあって、過度な物にならなければ静観している節がある。

 まあ、そもそも朱詩の体質は生来の物に加えて、彼を囲い神生を狂わせてきた者達の仕打ちが合わさった事が大きな原因だ。本神のせいでは無い。


 そして朱詩は、別に良いと思っていた。

 萩波は自分の媚薬に耐えられるし、果竪には効かない。神肌が恋しくなれば果竪に抱きつけば良い。


 しかし朱詩は見つけてしまった。


 小梅--。


 朱詩は初めて触れたいと思う相手を果竪以外に見つけた。

 そして、初めて自分の体質を心底呪わしいと思うようになった。


 本神は認めないが、気付く者達は気付いている。


 朱詩は小梅に触れたい、抱き締めたい、側に居たい。


 けれど彼はそれが叶わぬ望みだと知っている。

 自分が望めば相手を苦しめ壊すと知っている。


 側に居れば居るほど、相手を壊していく。

 だから、朱詩はその願いにそっと蓋を閉めて無かった事にした。


 ただそれでも、完全に距離を離しきれるほど彼は大神でもなければ、老成もしておらず--結果として、小梅と喧嘩ばかりする事になっていた。


 他の相手にはあれだけ囁ける甘い言葉も、小梅には罵詈雑言にからかい言葉となる。

 他の相手にはあれだけ甘い視線を向けられるのに、小梅にはからかいと揶揄混じりの視線となる。


 他の相手にはあれだけ色っぽくしどけなく振る舞えるのに、小梅とは取っ組み合いの喧嘩ばかりする。




 --と。

 凄まじい砂埃を上げながら、何かがこちらに向かって走って来た。


「モグラの化け物!」

「誰がモグラだっ!」


 朱詩の叫びに、小梅が大地を強く蹴ってそのまま朱詩に跳び蹴りをした。多くの権力者や金持ち達が血みどろになって争い、国すらも巻き込み傾けた程の経歴を持つ朱詩の、腹部に。


 その迷いの無い完璧な跳び蹴りに、その場に居た男の娘達の心は高鳴った。


「朱詩! あんたまたあたしの荷物に悪戯したでしょっ!」

「何もしてないよ~」


 艶かしい白い腹部に見える見た目だが、意外にも触ってみると固い腹部を持つ朱詩は小梅の一撃にも耐え抜き、軽い口調でそう返した。普通の男なら吹っ飛ぶレベルだと言うのに。


「というか、小梅重い。また太ったんじゃないの?」


 朱詩はニヤリと笑って言った。


 小梅に稲妻が走った。


「ふと……ふと--」

「大変だねぇ? 僕は太らないから分からないけど」


 朱詩だけではなく、古参メンバー、それに準ずる者達に含まれる男の娘、美男美女、美少年美少女と謳われる者達は、それはそれは見事な肢体をしている。完璧なスタイルをしている。太るなんて言葉自体が無かった。


「ふと、る」

「ふふんっ! まあ、今でそれならきっともう少ししたらぶくぶくの風船になっちゃって、だぁれも小梅の事なんて相手にしないかもねぇ」


 朱詩の嫌味に、流石に周りの面々は眉を顰めた。


 確かに小梅は気が強くて女らしさからは程遠いが、思いやりと他者を気遣える少女だ。活発で元気が良く、はきはきとした話し方も好感が持てる。

 何よりも、小梅は自分達に見惚れる事はあっても、それで自分達をどうこうしようとする様な少女では無かった。


 それは生来と言うよりは、彼女自身の精神面が大きいだろう。


 自分がされて嫌な事はしない。

 されてなくても、相手が嫌がる事はしない。


 想像力豊かであり、それによって他者を思いやれる気質は、何よりも輝かしい資質だと、過去に自分達の意思全てを無視して囲われてきた者達の総意である。


 はっきりいって、小梅はこんな風に貶される存在では無い。特に朱詩の毒舌は相手の心に大きな傷を生み出す力を持っている。


 ただ本来の朱詩も、こうやって無闇矢鱈に相手を貶す様な少年でもないし、敵でもない相手に自ら攻撃を加える性質の持ち主でも無い。


 現に、涼雪や葵花にはそんな事は一言も言わない。


 小梅だけだ。

 朱詩がこうやって攻撃するのは。


 そしてそれが、朱詩が抱くもどかしさと焦燥、そして自分の叶わぬ思いの裏返しである事はここに居る者達は分かっていた。


 明睡は、なおも言い募ろうとする朱詩を止めた。余りにも小梅が可哀想過ぎる。


「おい、やめろ」

「なんでさ。太る小梅が悪いんだろ?」

「太ってないだろ」

「太ってるよ! だ~れにも相手にされないんだからっ!」

「っ!」


 小梅はグッと強く朱詩を睨み付けた。その泣き出しそうな一歩手前の顔に、朱詩は一瞬だが悲しみと嬉しさと切なさを混ぜた様な顔をした--本当に一瞬だが。


「何?」

「……見てなさいよ」

「は?」

「痩せて綺麗になって見返してやるんだからっ!」


 そう宣言した小梅に、明睡は「あ、心配する必要なかったか?」と思わず小梅の男気に感動してしまったのだった。



 ただ、それはいささか浅慮だったと明睡は程なく実感する事となる。



「小梅……」

「何」


 とある昼食時。

 明睡は、大きな溜息をついた。


「食事を取れ」

「取ってるよ!」


 果竪が余り食べない事は皆が知っている。

 元々はそうでもないが、村と家族を失ってから暫くはご飯がまともに食べられず、胃が小さくなってしまった。その時の影響が続いており、今でも食事量はそれ程多くは無い。あと、ちまちまと食べる。


 なので、今も果竪は小梅の隣でチマチマと固い黒パンを食べていた。ハクハクと食べる姿は、ハムスターに似ている。


 それと似ているのが葵花だ。

 長年満足に食べてこられなかった影響で、保護されてから数年は経つが、果竪以上の小食と食事の遅さだ。同じように、黒パンを少しずつ噛んでいる。白くて柔らかいパンも差し出されるが、果竪と同じ物を食べたがるのだ。


 涼雪は可も無く不可も無く。

 食事量も安定しており、食事の速さも遅くも無く速くも無く。ただ、食事中に周囲のお世話をして自分の食事を疎かにする事が多い。


 そして小梅--。

 良く食べた。

 出された物はしっかりと完食したし、余っている時にはお替わりもした。気持ち良いぐらいの食べっぷりである。


 また吸収が良いのか、食べた分、しっかりと身になる。


 だから、他の少女と比べるといささかぽっちゃり目ではあった。ただ、太ってはいない。その分動きまくっているから。


 そう……太っては居ないのだ。

 そして、美味しそうに沢山食べる姿は見ていて安心出来る。


 だが、今の小梅は--。


「食べろ」

「食べてるってば!」


 小梅は、普段の食事の五分の一量しか口にしなかった。しかも、主食の黒パンは受け取りを断固拒否した。


「それっぽっちじゃお腹が空くぞっ! いや、倒れるぞっ」


 既に、小梅が食べる量を減らしてから五日が経っている。その間、周囲がどんなに進めても、宥めて説教しても、小梅は絶対に食べる量を戻そうとはしなかった。


「絶対に痩せてやる」

「痩せてるだろっ!」


 聞き分けの無い年下の少女に明睡は叫んだ。その声に、葵花がビクリと身体を震わせ、果竪に縋り付く。涼雪が困った様に微笑んだ。


「ちょっと、うちの葵花を怯えさせないでよ」

「怯えさせてねぇよ」


 茨戯の非難に明睡は苦々しく言うと、小梅をギロリと睨み付けた。


「食え」

「嫌」

「食え」

「嫌だって言ってるでしょう!」


 小梅はダンッと地面を踏みならして立ち上がった。身長差はあるが、そのにらみ合いに対して小梅は一歩も引いていなかった。


「小梅ちゃん、食事中」


 果竪が口を開くが、小梅は聞いていなかった。


「最低限の量は取っているんだから、五月蠅く言わないでよっ」

「どこが最低限だっ」

「肉も魚も野菜も食べてるでしょ! 果物もっ」

「あんな小鳥の餌程度で食べてると言えるかっ! 具合が悪いならまだしも、そうじゃなくてダイエットで食べないなんて許さないからなっ」

「何よ! 明睡はそんなに痩せているからそんな事が言えるのよっ」


 痩せている--確かに無駄な贅肉はついていない。むしろ、蠱惑的な曲線と色香に溢れた魅惑的な肢体だった。


「今は成長時期だろっ! 食わないと大きくならないぞっ」

「ならなくて良い」

「--胸が膨らまないぞ」


 これは結構胸に来る言葉だ。しかし、小梅の胸には来なかった。


「私の場合は食べても胸に来ないから良いの」

「いや、良くないだろ」


 少しは努力しろよ--と明睡は言いたい。しかし、胸の膨らまない男に言われたくないわっ!!と小梅に怒られた。

 ならばと他の女性陣に言ってもらおうにも、年齢に似合わぬそれは悩ましく艶かしく魅力的な体付きをしている女性達の言葉も聞かない。


 小梅曰く


「努力しなくても大きくなったじゃない」


 だった。


 普通なら憤慨物の言葉だが、女性陣は何も言わなかった。

 なぜなら、美少女美女と呼ばれる彼女達の胸は、確かに彼女達の意思に関係なく、むしろ何もせずとも勝手に全てにおいて完璧な胸となってしまったのだから。

 あと、彼女達は自分の胸は単なる道具としか思っていない。相手を利用し尽くす為の物なのだ。


 むしろ、彼女達は必要時以外は外していたいとさえ思っている胸だ。


 怒るも何も無い。


「バランス良く食べないとむしろ太るぞ」

「太るだけの栄養が無きゃ太らないわ」

「……」


 小梅は頑固だ。明睡でさえ手を焼く程の頑固だ。


 しかし、小梅がここまで頑なになったのは、朱詩の理不尽な暴言のせいである。それを考えると、小梅は悪くない、何も悪くない、ちょっと頑張りの方向が間違えているだけで。


「ぜったいに綺麗になって見返してやるんだからっ」


「いや、どんなに痩せても朱詩ほど綺麗にはなれ」


 余計な一言を口にした仲間の男の娘を殴り倒し、明睡は必死に自分の食欲と戦う小梅に溜息をついた。




「って事だ」

「朱詩も難儀な事ですね」


 萩波は溜息をついた。


 色々と問題が山積みの軍だ。

 しかし、その半分は軍に関係ない所で起きていると言える。


 そしてその半分の問題は、いかに優秀な頭脳陣たる軍の上層部が頭を悩ませてもどうにもならない。小梅のダイエット問題なんてどうして良いのか。


 やめろと言う制止は既に明睡が行ったが無駄だった。


「食べ物に砂糖入れれば良いじゃん」


 諸悪の根源かつ原因である朱詩は、本部テント内に設置された長椅子で書物に目を向けたまま提案した。


「そういう問題じゃないだろっ」

「身体を壊したら困るんだろ? なら、見えない所で栄養分つぎ込んどけば良いだけじゃん」

「むしろお前が謝れば事は収まるだろっ」


 明睡の指摘に、朱詩はクワッと牙を剥いた。


「何でさ! 僕は悪くないねっ! 小梅が太いのが悪いんじゃんっ」

「太くないだろ! 確かに痩せてはいないが、健康的だろ! ふっくらして艶と張りもあって良いだろっ」

「どこ見てんのさ! 目を抉られて頭を潰されたいのっ?!」

「変な所は見てないわっ」


 朱詩が素速く反応し、明睡に牽制を通り越し一歩間違えれば殺害予告な言葉を吐いた。


「というか、小梅の無い胸を見て楽しむなんてとんだ変態だね」

「そうですか? この前、果竪と『寄せてあげて運動』をしていた時には、少しですがほんのりとした膨らみがありましたが」


「「どこ見てんだよ」」


 明睡と朱詩の突っ込みは一つになった。

 確かにどこを見ているんだ萩波……と、その場に居た者達は思った。


「あと何してるのさっ!」

「因みに果竪はその運動でも平らでした」

「そうか、それでもダメか……じゃないだろっ!」


 あの小梅でさえ膨らみが出来たのに果竪はダメ。その場に居た者達は何ともいたたまれない気持ちになった。


「今の所ダントツは涼雪ですね。寄せるとそれなりに」


 明睡が折りたたみ式作戦机を持ち上げた。折りたたみではあるが、結構重たいそれを片手で持ち上げる様は、とんでもなく恐ろしかった。


「葵花も平らでしたが」

「果竪より年下なのにあったら困るでしょう!」


 茨戯が顔を真っ赤にして叫んだ。


「ってか、そもそも何を見てるのさっ」

「ですから、寄せてあげて運動」

「どこでやってんのさっ! まさか、果竪達の休むテントで見ているんじゃっ」

「いえ、外でやってましたし」


 この時、その場に居た者達の中に「警備を見直さないと」とか「そもそも外でそういう事をしてはダメだと教えなければ」とか「まず何をしているのかと怒らないと」とか色々と思った。そう、色々と。


「年頃の少女達なら誰もが通る道です」


 いや、胸がしっかりと膨らんでいる少女はやらないだろう。あと、外ではやらないから。


「まあ朱詩が嫌だと言うなら、私がどうにかしましょう」

「は?」


 朱詩は萩波の言葉に思わず首を傾げた。


「丁度幾つか縁談話のあてもありますので、その一つを成立させてしまって夫持ちとなれば不要なダイエットも」


 朱詩は思わず喚き散らそうとした。


 しかし、その前に。


「ふざけんなっ!」


 明睡が切れた。


「なんで貴方が切れるんですか」


 明睡が萩波の胸倉を掴み、顔を真っ赤にして怒る。


「お前っ! 小梅はまだ十二歳だろっ! 十二の子供を嫁がせてどうするっ! しかもその縁談は小梅あてに来たのかっ?! それとも十二の子供を娶ろうとする変態から来たのかっ?!」

「王侯貴族での十代前半の結婚は珍しくありません。庶民でも、十代半ばぐらいから結婚を始めているではありませんか」

「小梅は王侯貴族じゃないだろっ! 相手は王侯貴族の変態かっ?!」

「きちんとした所です。あと、縁談相手は特に指定はありませんから大丈夫です」


 萩波は安心させる為にそう言ったが。


「どこが大丈夫よ!」


 茨戯も怒っていた。他の者達も怒っていた。


 それだけ、萩波が十二になったばかりの果竪に手を出した事はショックだった。そして手を出され、強引に婚姻関係を結ばされ、更にはその後は度々寝込むようになった果竪を思えば、同じ様な思いを他の少女にさせたいとも思わなかった。


 しかも、小梅だ。あの小梅。


 明睡達は、小梅がロリコンに手を出されて傷つき寝込む姿なんて想像したくないし、そんな未来はそもそも阻止する。


「相手も同い年ぐらいのが居ますが」

「そういう問題じゃないっ」


 というか、相手が男の娘とか美少年とかそういう類いだったら、絶対にそちらの経験に富んでいる。駄目だ駄目だ。


「因みに、葵花が欲しいという縁談もありますが」

「ぎゃあぁぁぁぁぁぁあっ」


 茨戯が絶叫した。


「そちらは私の方から丁重にお断りしましたが、諦めが悪いようです。絶対に娶って即座に自分の子供を産ませると意気込んでいます」


 溜息をつく萩波を余所に、茨戯は相手の抹殺計画を立てた。


「あと涼雪にも」


 明睡は最後まで言わせなかった。ただ、茨戯と同じように、相手の抹殺計画を立てた。


「という事で、朱詩、どうですか?」


 萩波はにっこりと笑った。


「……ひ、卑怯だっ!」


 朱詩はわなわなと身体を震わせつつ、涙目で萩波を睨み付けた。まるで誘っている様にしか見えなくとも、朱詩は怒っていた。


 けれど、所詮萩波に敵う朱詩では無かった。そもそもの場数が違う。




「あ、その」

「何よ」


 小梅は今日も食べなかった。

 そろそろ十日目になるので、頬もこけてきた。痩せると言うより、何か別の物に進化しそうな勢いだった。


 朱詩は、そんな小梅の姿にグッと唇を噛み締めた。


 違う


 本当はこんな風にしたかったわけではない


 朱詩が気に入っているのは、いつもの小梅だ


 少し太かろうと痩せていようと


 小梅が小梅なら



 朱詩は意を決してそれを口にしようとした。



「もう少し待ちなさいよ」

「え?」

「もうちょっとしたら凄く綺麗になるんだからっ! そしたら、絶対に朱詩に一泡吹かせて--」



 それ以上、小梅の口から言葉が続く事は無かった。


 小梅は栄養失調で倒れた。




「で、謝れなかったのか」

「……」


 仕方が無いとは分かっている。というか、もし倒れる前に間に合っても、ふらふら状態の小梅の耳に届いたかどうかは疑問だ。


 明睡は、小梅の側に付く朱詩の隣で溜息をついた。


「とにかく、意識が戻ったら謝るんだぞ」

「……分かってるよ」


 なまじ、相手を馬鹿にしたいとかからかいたいとかそういう理由でないから面倒だった。いや、馬鹿にしたいとかからかいたいとかいう理由も大問題だが--朱詩の場合は初恋を完全にこじらせている。しかも、相手の事を思えば絶対に成就させてはいけないものだ。


 気付いた時には失恋決定。


 此程、悲しい恋はあるだろうか?


 きっと、朱詩にとっては最初で最後の恋だろう。


「……」

「……」


 小梅がゆっくりと目を覚ます。


「ぁ--」


 ぼんやりと自分へと視線を向ける小梅に、朱詩は何かを言おうとした。けれど、その前に。


「--泣いてるの?」


 そう言われて、朱詩は驚いた。明睡もハッと息をのむ。


 朱詩は泣いていた。

 自分ですら気付かない--明睡すらも気付かない。

 静かに流れていた涙。


「--良い子」


 小梅は手を伸ばすと、朱詩の頭へと手をやる。その手は、優しく朱詩の頭を撫でた。


「大丈夫、もう何も恐い事は無いから」


 そう言って宥める小梅に、朱詩は何も言わずに俯いたままとなる。明睡は一神、天幕から出る。


 後は二神の問題だ。


 この時、明睡はもう少しそこに留まるべきだった。

 そうすれば、彼は気づけたかもしれない。


 結局、小梅は寝ぼけていて、朱詩は小梅に撫でられる手の温かさに一緒に寝てしまい--思いの外、長い時間一緒に居る事になるという事を。


 そしてその間、小梅には一切の症状が現れていなかった事を。




「へ? なんで朱詩が此処にいるのっ?!」


 と、暫くしてから飛び起きた小梅の声に起きた朱詩が、やっぱり素直になれなくてからかい、そのうちに「一緒に寝ていたのに小梅は何ともなかった」という事すら朱詩の頭に思い浮かぶ余裕すら無くなってしまった。


 そしてそれは記憶の奥底へと置かれる事となる。



 だから



「お前謝ったのか?」

「なんで僕が謝るのさ。悪いのは小梅だもん」



 もし何かが違えば、朱詩はそれ以上小梅にツンケンとしなかっただろうし、小梅が理不尽に暴言を吐かれる事も無かっただろう。



 そう--



 きっと、手を取り合い共に歩む未来もあったかもしれない。

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