つきあってたんだよ
駆け込んだ教室に、担任の姫塚咲の姿はまだなかった。
「あー。間に合ったー!」
等坂が頭の上から抜けるような声を出すと、教室の前列で、明るい髪色の生徒が顔を上げた。
「おはよう」
弱々しい鈴鹿実里の声は、心なしかいつもよりガサついているように聞こえた。寒そうにすくめた小さな肩は、保護膜のような明るいベージュのカーディガンで覆われていて、小さな小指と薬指が、指が少し隠れるくらいの丈長の袖を、恥ずかしそうに握って口元を隠している。
「スズー! 寂しかったよー!」
戒能は等坂にショルダーバックを押し付けて、飛びつくように彼女にハグをした。
「大丈夫だった? お腹でも壊したの?」
すべすべとした頬に頬ずりをしながら彼女は訊いた。
「そういうんじゃないよ……」
そう言った声は、気のせいか、少し枯れて聞こえた。くすぐったそうにしながら、鈴鹿も戒能の制服の裾を指先で掴む。
「あれ、スズ、どうしたのそれ?」
戒能が指差した鈴鹿の右手は、人差し指と小指の付け根にキャラクターものの絆創膏が貼ってあった。猫柄のガーゼの部分に、赤黒く血が滲んでいる。
「これ……これはね……」
気のせいか、鈴鹿は少し何かを考えているように見えた。
「風邪でお休みしてる時に、よろけて転んじゃって……」
「うそ! 随分複雑にコケたんだね!」
「うん。熱もあったから、ふらふらしちゃってたのかな」
戒能はふうん、と納得したような、しないような返事をする。
幸村が手袋を外すと、鈴鹿は、
「あれ? 幸村くんも?」
と高い声を上げた。
「うわっ……お前、なんか、それ酷そうじゃん……」
戒能が「うげえ」というリアクションをする。右手の甲が、包帯でぐるぐる巻きになっていることを、幸村は今の今まで忘れていた。
「ああ、ちょっと、猫に引っかかれて……」
殴った彼女の歯でギザギザに引き裂けた、などと言えるはずもない。
「ずいぶん巨大な猫だったんだね……」
鈴鹿は少し戸惑うように言った。
「まあ、でも、こいつの怪我なんて、ささいな問題よ!」
戒能はパンと両手を叩く。
「渚ちゃんが車に跳ねられちゃったっていうから、軽傷だっていうけど、今日の放課後にでもお見舞いに行こうって話してたの。いける?」
「大変……うん。もちろん行くよ」
「そう。よかった」
そして彼女は、あ、と思い出して付け足した。
「スズがお休みの間にね、ちゃんと『決行』したの。等坂からメールいってた?」
「うん。ちゃんと読んだよ。返信はちょっとできなかったけど」
「そっか。そんなにお腹痛かったんだね……かわいいなあ、もう!」
「だから違うってば……」
「それでね、結局オッケーだったんだけど、そいつが実はすっごい嫌な女で、ウチの国際科の先輩だったの!」
「へーそうなんだ……」
鈴鹿は少し困ったように、髪と同様に色素の薄い、茶色っぽい眉毛を曲げた。
「でも、よかったね。幸村くん。念願の、ガイジンさんの彼女ができて……」
彼女ははにかむように笑いかける。それに幸村は、
「うん……ありがと……」
と、目を逸らしながら、歯切れの悪い返事を返した。
「え、なに……どうしたの?」
そう訊いた戒能の肩を、等坂が話を切るように掴んで、
「そろそろ先生、来るんじゃないか?」
と少し大きめの声を出す。
「そうね。席についてくれると嬉しいな」
クラス委員の宮村 一乃がいつも通り、嫌味のない調子でそう言う。
「なんだよ……」
戒能はスクールバックを等坂から取り返して、いくらか不満そうに席に向かう。その途中で、等坂が耳元で言った。
「わりい。話せてなくてごめんな。あいつらって、中学のとき、ちょっとだけ付き合ってたんだよ」