彼女の選択
通学路をふらふらと歩く彼の脳に、二つの選択肢のうち、彼女がどちらを選んだかということを考えるためのキャパシティーはもう残されていなかった。
正確に言えば、もう彼にとってはそんなことはどちらでもよかった。彼は生まれて初めて味わったあの感触を頭の中で何度も反芻し、にやけた。手袋の中の傷が少し痛んだが、それも気にならなかった。
「……むら、幸村!」
校門に差し掛かったとき、彼はようやく、数十メートル手前から自分を呼び続けていた声に気付いた。
「幸村!」
戒能が解けたマフラーを襷のように握り締めながら、やっとのことで追いついて、幸村の前で、肩で息をした。
「大丈夫だったのか、幸村?」
「え……?」
彼はいくらかぼうっとした様子で返事をする。
「ああ、ごめん。お前も相当ショックだったよな。ニュースで、渚ちゃんが救急車で運ばれたって聞いたたから」
そう言われて、幸村は氷水を被ったように目が覚めた。
「ちょっと、ちょっとくらい待ってくれてもいいだろ、サトリ!」
後から等坂も追いついてくる。
「お前、昨日大変だったじゃないか。渚ちゃん、どうだったんだ?」
「ああ、あいつは、大丈夫だったよ」
「もう、どう大丈夫だったのよ!」
苛立って声を荒げる戒能を、等坂がなだめる。
「やめろよ。一番ショックなのは幸村だぜ」
「そうだっな……スマン」
二人とも本気で渚の容態と、渚を傷付けられた自分のことを心配していた。幸村は急に、さっきまで浮かれていた自分が申し訳ないように感じる。
「本当に、大丈夫だったんだ。額とかに傷ができちゃったんだけど、軽い脳震盪だけで、命に別条はないって……」
「おでこに、あの天使のおでこに傷!?」
戒能が悲鳴にも近い声を上げた。
「その傷、ちゃんと治んのか!?」
「だっ、大丈夫だってお医者さんは言ってた……」
「そうか。よかった……。でも、もしも渚ちゃんが心配してるようだったら『もし顔に疵が残るようなことがあっても、佐鳥ちゃん先輩がお嫁にもらってあげる』って言ってたって伝えて」
戒能はやや小ぶりな胸を力強く叩いた。
「ありがとう。渚も喜ぶよ」
等坂が安堵して笑いながら訊く。
「いつ退院なんだ?」
「検査とかもあるけど、一週間はかからないって。少し鞭打ちがあるみたいだから、それだけ」
「おう、じゃあ、今日にでもお見舞いにいかないとな!」
等坂の提案に、戒能が「お、珍しくいいこと言うじゃん!」と乗っかる。
「ああそうだな。渚ちゃんの体調が許せば今日行こう! スズも誘って四人でな」
「あ、スズ、今日、学校来るかな?」
「来なくったってメールで誘うさ」
「お。んじゃ任せた!」
いつものように、戒能と等坂の二人の間で、大体の話が決まってしまう。そのリズムが、幸村には心地よかった。
屋上のスピーカーから予鈴が鳴る。
「じゃ、行くか」
等坂を先頭に、三人は歩き始める。
校門の角を曲がると、彼は急に立ち止まった。すぐ後に続いていた戒能が背中に鼻の頭をぶつけ「おい、なんだよ!」とツーンとする鼻の頭を押さえて怒鳴った。
彼らの前には、腰に手を当てて仁王立ちになった人影があった。濃緑のタータンチェックのスカートから伸びたライトブラウンのタイツの脚が、驚くほど長い。その人物は、自分がそこにいることがさも当然であるかのように、堂々とこう言った。
「なんじゃ、随分遅かったではないか。遅刻するんじゃないかと思って心配したぞ?」
瞬発力で勝る戒能が、真っ先に声を上げた。
「おまえ、コンビニの!」
シャイは薄い唇の端から長い犬歯を剥き出しにして、いくらか邪悪に笑った。
彼女が選んだ選択肢は、服装が何よりも雄弁に物語っていた。襟の大きく空いた校章入りのダブルのブレザーは、深いブラウンに薄く入ったストライプの生地のアクセントに、肩に釦留めされた下襟の部分だけが濃・淡グリーンのチェック柄になっている。選択着用のネクタイ/リボンは、比較的アバンギャルドなデザインで知られる、濃紺の生地を縦一閃に切り裂くような白のラインが入ったタイだった。見まごうハズもない。それは、清良南高等学校の、学費が極めて高い上に、帰国子女しか受け入れないことで知られる、国際科しか着ることのできない、特注の冬服であった。
「なに、この人、ウチの生徒だったの?」
「幸村、お前知ってたのか……」
「いや、俺も、今の今まで知らなかった……」
そう。今の今まで。シャイは制服の上に重ねたPコートのポケットに両手を突っ込むと言った。
「あー。それは仕方ない。今日が転校初日じゃから。今日からワシは、諸君らの一コ上の先輩じゃ。よろしく頼むぞ」
「あ、はい……よろしくお願いします」
中学が陸上だったこともあって上下関係に一番うるさい戒能は、先輩というだけで条件反射的に頭を下げた。
等坂は敢えてしれっと尋ねる。
「渚ちゃんのことですっかり忘れてたけど、あの後って、その、シャイ先輩と幸村ってどうなったんだ?」
本当に今まで忘れていたかのようにそう尋ねる。シャイは彼に「のう? これって言っちゃっても差し支えないかのう?」と一応断り、彼が「あ、うん」と頼りない返事をしてから、彼の左手を掴んで自分の右手を絡ませた。
「どうなったって、こうなったんじゃよ」
そして彼女は校門の前で彼の顎先を持ち上げ、頬ではなく、唇にキスをして見せた。
「マジかー!」
等坂が絶叫する。数人の生徒が、校門前のキスあるいは等坂の声に驚いて立ち止まる。
「マジじゃ」
シャイは手袋越しに五本の指を全部絡めて握った左手を「これはワシのじゃ」とでも言うようにPコートのポケットに突っ込む。
「のう、ユッキー?」
シャイは少し腰をかがめて、下から見上げるようにして訊いた。
「ゆ、ユッキー……」
その響きは気恥ずかしく、くすぐったかった。
急にグイと、右の耳が掴まれる。
「ちょっと、幸村」
「痛っ、いてて!」
戒能が耳を掴んで彼を引きはがした。
「あんた、見損なったわ」
「……なんだよ」
「なんだじゃないわよ! あんた、渚ちゃんが大変だったのに、作ったばっかりの彼女とイチャイチャしてたわけ?」
半分は当たっていた。
「そんなわけなかろう?」
シャイがいかにも腹立たしそうに否定した。
「渚が跳ねられたのは、こいつがワシに告った後じゃ。やきもちを焼くのは勝手じゃが、いらん詮索はよしてほしいのう?」
「や、やきもちって!」
戒能は猫のように毛を逆立てて−−−−等坂と幸村にはそう見えた−−−−怒りをあらわにする。
「おいお前ら!」
そこで、校門を締めにやってきた進路指導の教員から声が飛ぶ。
「ふざけてないで早く教室に行け! もう予鈴は鳴ってるぞ!」
シャイは特段慌てることもなく飄々(ひょうひょう)と、他の三人はそそくさと教室に急いだ。