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天使と悪魔のゲーム  作者: とっきー
7/18

はじめてのチュー

 −−−−という、へんてこな夢を、彼は見た。

 こういう破天荒な夢を見るのは脳が若い証拠だ、という話を、テレビで見た覚えがある。

 さっとベットから起き、カレンダーを見る。今日はクリスマスイブの二週間前。決行の日である。幸村は手櫛で軽く髪を直そうとして、髪が心なしか、いつもよりごわついていることに気付く。

「あれ、なんだろ……」

 階段を降りて一階のキッチンへ向かう。しかし、そこに買い置きしていたはずのコッペパンとサラダはない。

「渚が食っちまったのか?」

 炊飯ジャーを見るが、ご飯が炊けていないばかりか、予約さえされていない。

「あいつ、炊き忘れたな……!」

 仕方ない。学校に行く途中でコンビニで何か買おう。戒能との約束もある手前、コメなし納豆と味噌汁、というメニューで済ませるわけにもいかない。

 そうしているとツトツトと、二階から降りてくる足音が聞こえる。そしていつものように、建て付けの悪いガラス戸ががらがらと開く。

「おはようなぎ……さ……?」

 ドアの向こうに立っていたのは、渚とは似ても似つかない人物だった。

「よう。にぃーに? お目覚めはいかがじゃ?」

 いくらか意地の悪いイントネーションだった。コンビニ店員(シャイ)は渚の猫柄のパジャマを着て、人並みよりいくらか長い犬歯を見せながらニヤニヤと笑っていた。

「残念ながら夢オチではなかったのう。貴様の本物の妹は検査も含めて一週間ほど入院じゃ。判断が遅かった割に、ワシの超絶スーパー宇宙パワーで顔に傷が残る事もない軽傷で済んだ。お主、ラッキーじゃったのう?」

 渚の話が出た瞬間に、幸村は頭に血が昇った。

「てめえ、自分でやったくせにふざけんな!」

 彼は怒りに任せて殴り掛った。

 握り拳を固めた彼は、確かに、目の前の女を殴り飛ばしたいと思っていた。しかし同時に、殴りかかられても微動だにしないこの厚顔不遜な自称悪魔の女に、格闘技の経験もない自分のフルスイングのパンチが当たるわけがないと思っていた。

 だが、実際、彼女は全く避けなかった。幸村の薬指の拳頭は彼女の頬を打ち、彼女の体を壁際に叩きつけた。

「え……マジ、かよ……」

 殴った彼の方が驚いていた。

「素人の割には、なかなかいいパンチではないか」

 シャイはよろりと起き上がると、口の中をごにょごにょと動かして、赤い塊を手のひらに吐き出す。それは折れた彼女の歯だった。

「お前、何で避けなかった……」

「殴られてやろうと思ったんじゃよ。ワシはそれくらいのことをしたと思ったからな。じゃがしかし……」

 シャイは辺りを見回してティッシュを見つけ、何枚か取って幸村の右手を握った。

「素手で人を殴るのに、口元を殴る馬鹿がいるか? 普通は頬骨とか、こめかみとか、殴っても自分は怪我をしない場所を殴るもんじゃ」

 彼女に握られた手の甲を見ると、数センチに渡ってざっくりと抉れている。

「う、うわっ……」

 幸村は一瞬のうちにできたその傷の深さに驚く。

「自分でやっておいてそのリアクションはないじゃろ!」

「いや、でも、あ、これ、マジ痛い!」

 深すぎる傷というのは、それに気付いて初めて痛みが出てくるものである。幸村は、包丁でちょっと指を切ったくらいの傷とは比べものにならないほどの痛みを感じる。

「バカモン動くな! 血が飛ぶわ!」

 彼女は手の甲の表面の血を軽くふき取ると、口に溜めた自分の血を長い舌先に滴らせて、傷口をベロリと舐めた。

「痛って……!」

 彼女の血液が傷口を覆い、熱したフライパンに水を垂らした時のように、彼の手の甲の上で沸騰する。彼女の血が消えたあとには、皮膚がギザギザと裂けて、中の白っぽい真皮質が露わになった傷口が見え、またじわじわと血が湧いてくる。

「なんじゃ、思ったより深く切れておるのう……」

 シャイはもう一度口をごにょごにょと動かすと、彼の手を口元に持ってきて、舌で再び手の甲を舐めた。裂けた傷口に柔らかな舌が入り込んできて、わずかに裂け目を押し広げながら表面を撫でていく感触は、痛くはあったが、同時に、体の中に何かが挿入される危機感と気持ちよさが混ざった奇妙な興奮を伴っていた。

 傷に塗りたくられた彼女の血液は再び蒸発していく。彼女は裂け目をつなぎ合わせるように押し付けて、継ぎ目をまた舐める。さっきは痛みが勝っていたが、今は(くすぐ)ったさが勝る。血液が蒸発した後には薄皮が張っていた。

「こんなもんかのう? 痛みはだいぶ引いたじゃろ?」

 確かに、傷に気付いたときに比べると痛みは無くなっている。

「特別サービス、純度百パーセントの悪魔の血じゃ。この程度の傷なら治せる。見たとおり、表面は治り始めておる。あとは傷口が開かないように絆創膏かなんかでキチンと閉じて、包帯でも巻いて固定しておくんじゃな。応急セット的なものはあるか?」

「ああ。こっちだ」

 傷口を押さえながら、キッチンから、指を切った時などのために置いてあった、救急箱を出して来る。

「絆創膏、絆創膏……」

 シャイはガサゴソと中を漁り、小さな箱に入ったそれを見つけると、二つ取って幸村に拳を出させる。ガーゼの部分をぺろりと舐めて少し自分の血を付け、薄皮が張った裂け目をカバーするように二つの絆創膏を貼り付け、上から柔軟性の包帯を巻きつける。彼の手に触れる彼女の指はいくらか冷たかったが、その掌は柔らかかった。

「よし、こんなもんじゃろ。表皮の中も、明日になれば治っておる」

「そんなに早く治るのか?」

「無論じゃ。ほれ」

 そう言って、彼女は自分の口に左手の人差し指を突っ込んで、殴られた左頬の中を開いて見せた。

「どう(ろう)じゃ(りゃ)、もう(ほう)治っとるじゃろ(はほっへほるはほ)?」

 口に指が入ってうまく喋れない彼女の発音は間が抜けていて可愛らしかった。

 彼女の口内は白い歯の隙間に血液が付いているものの、折れて外に吐き出されたはずの歯は綺麗に生え揃い、それにぶつかって切れたはずの頬の中も無傷である。

「まあ、貴様は人間じゃから多少効きが遅いとは思うが、一日もあればオッケーじゃ。とはいえ、結構奥の方まで裂けておったから、今からすぐの朝シャンと、体育の授業、今晩の自慰くらいは控えた方がいいじゃろうな」

「じ、自慰って……」

「なんなら、ワシが手伝ってやろうか? 悪魔の手練手管で貴様の全てをこってりと絞りとってやろうかのう?」

 シャイは首を傾かせて、下から掬い上げるように幸村を見つめ、胸元に手を当てる。

「う、あ、パス、パス!」

「ふん。つまらんのう」

 彼女は居間に歩いて行くと、紺色のスポーツバックを開けて、コンビニの袋を取り出す。それを持ってつかつかとキッチンに戻ってきて、中身を電子レンジに掛けた。

 醤油系の香りがして、幸村の腹が鳴る。そういえば、昨日の夜は何も食べていないのだった。シャイは、彼のものほしそうな顔に気付いて言った。

「心配するな。ちゃんとワシと貴様の分、二つ買ってきておるわ」

「あ、ありがとう……」

「まあ、座って待っとれ」

 間も無くチン、と音がして、加熱が終わる。

「ホレ。貴様の分じゃ」

 そう言って彼女がコタツの上に出したのは、ホッケの解き身とジャコと高菜のヘルシー三食弁当だった。

「貴様、それをよく買っておったじゃろう? その……好きなのか? そういうのが」

 いくらか視線を逸らした彼女の顔は、照れているようにも見えた。

「うん。安くて美味しんだ。…………覚えててくれたんだな」

「ああ日に何度も来られたらさすがに覚えるわ。しかも全部ワシのレジに並ぶし。ぶっちゃけ、他のバイトの定員にもからかわれてちょっと恥ずかしかったのじゃ……」

 彼女は自分の台詞の最後をかき消すように、ビリリと大きな音を立てて、いくらか乱暴に肉まんの包みのシールを剥がした。

「あれ、冬季限定激辛カレーじゃないの?」

「売り切れじゃった。ってかなんでワシのお気に入りを知っとるんじゃ。気持ち悪い」

「あ、ごめん……」

「まあ、良いよ。確かに、貴様が店にいるときに、バックヤードで飯を食うのに、何度か売り場に出てるのを持っていったことがあったからな。それに、ワシは一応、貴様と約束したから、それくらいのセクハラは許そう」

「なにを約束したって?」

「なんじゃ忘れておるのか? 公園で言うたじゃろ? 天使と悪魔のゲームを戦ってくれるという条件付きで、ワシは貴様と付き合ってやると。そして貴様は昨晩病院で、ゲームに参加すると約束した。じゃから、貴様とワシは今、彼氏彼女の関係じゃ。絶賛アツアツ交際中じゃ」

「え?」

 幸村の箸の先から、ジャコがボロボロとこぼれる。

「え、うそ、まじ?」

「なんじゃ、嬉しくないのか?」

「いや、嬉しい。ほんと……」

 ちょっと頭がおかしいとか、喋り方が変とか、友達がイっちゃってる全身タトゥーのボンデージ女だとか、地球外生命体みたいな犬を飼ってるとか、性格がめちゃくちゃ悪いとか、たぶんドエスだとか、それ以前に悪魔だとか、そういうことが頭を過ぎったが、彼にとっては些細なことだった。

 目の前の、やや紫かかった髪の、琥珀色の瞳の、通った鼻筋の、白い肌の、長い手足の、夢にまで見た完璧な外国人女性が自分の彼女だと思うと、突如として地平線から日が昇ってきたように、世界が急激に明るくなっていくのを感じた。

「な、なあ、その……すごい恥ずかしんだけど……」

 彼は目を震わせながら尋ねた。

「なんじゃ?」

「だ、ダーリン、って、古い洋画みたいに呼んでくれたりするか?」

 リクエストともに、シャイは何の躊躇もなく小首を傾げて言った。

「なんじゃ、ダーリン?」

「うわあっ!」

 幸村は箸を投げ出して後ろ様に倒れる。

「な、なんなんだコレ、今、胸っていうか、心臓がぐしゃぐしゃってなった! 確かに、ぐしゃぐしゃってなったぞ!」

「なかなかいいリアクションをするのう、ダーリン?」

 意地悪そうなやや釣り上がった彼女の目が、彼にはどんどん近づいてくるように感じた。

「ああ、やめて、やめてくれ! それ禁止、それ禁止だ!」

「なんじゃあ、ノッてきたのに、つまらんのう……」

 シャイはコンビニ版のセイレーンラテをちゅるるとストローで吸うと、何か思いついたように「そうじゃ」と呟く。

「なんだよ……」

「いいことじゃよ」

 彼女は床に手をついてコタツの綿入りのカバーの上に散らばったジャコとご飯粒を拾い集めて、口に含む。四つん這いになったパジャマの胸元から、綺麗な二本の鎖骨と、その奥に下がったいくらか小ぶりの、しかし形のいい乳房が、小さな二つの突起とともに幸村の目に映る。

「こんなのはどうじゃあ?」

 彼女は幸村の膝のあたりに落ちた米粒も拾って口に入れると、コタツに入った彼の太ももにまたがり、首に手を回した。

「ごぼしたら『もったない』じゃろ?」

 彼女の顔が視界に覆いかぶさる。唇に温かく柔らかいものが触れて、口の中に、さらに柔らかいものが入ってくる。ジャコの塩っぽい味と、少し乾いたぱらぱらとした米粒、それにうっすらとコーヒーの香りがする。彼は口の中に押し込まれた固形物を嚥下すると、「よくできました」と、彼女は唇をつけたまま囁き、長い舌を彼の舌に絡ませる。それはかすかに甘く、粘り気があった。彼女は自分の唇で彼の唇を摘むように弄り、それに飽きると舌先で(くすぐ)ったい上顎や、唇の裏、あるいは彼の舌先を舐めた。

 どれくらいそうしていたか、彼にはわからなかった。二人はコタツの隣に体を重ねて横になり、彼女は彼の上に覆い被さったまま、キスというよりは唇と舌を使った悪戯のような行為を繰り返し繰り返し続けた。そして彼が息を切らして、苦し気に咳をすると、彼女はようやく唇を離した。

「どうじゃった?」

 彼女はひょいと上体を起こして、腰に手を当て、得意げに笑った。

「どうって……」

 彼は百メートルを全力で走った後のように息を切らしていた。

「なんじゃ、言葉も出んか?」

「俺……初めてだった……」

 そういった目は、少し涙を浮かべながら、天井に吊り下がった和風のルームライトを見上げていた。

「ん? 何が初めてだったんじゃ?」

「今のが、俺の、初めてのキスだったんだよっ!」

 幸村は勢いよく体を起こすと、両手でシャイの肩を掴んで揺すぶった。

「お前、何てことしてくれたんだよ! 初めてのキスっていうのは、こう、もっとゆっくり、女の子が目を閉じるところから始まって、唇だけで、たどたどしくするもので、ちょっと歯がぶつかっちゃったりして痛かったり、鼻先が当たって恥ずかしかったりするもんだろ! なのに、なんだよ今の、マジ気持ちいいっていうか、よすぎるだろ、エロすぎるだろ、返せ、俺のピュアなファーストキス返せ!」

「なんじゃ、うるさいのう」

 そう言うと、彼女は幸村の両頬を両手でパシリと挟んで静止させ、溶けるような目で彼の目を見つめ、その瞼をゆっくり閉じた。

「え……おい、シャイ?」

 彼女は彼の太ももにまたがり、唇を薄く開いて顎を上向け、長い睫毛の目を閉じたまま動かない。

「ファーストキス、返してくれるってことか?」

 彼女は浅く頷く。

「あ……え、マジ……?」

 その問いにも、彼女は答えない。

 彼の目と鼻の先には、彼女の青白い肌から続いた、ほどんど赤みのない、薄いけれども、縁がぷっくりと膨らんで蛍光灯の明かりを弾いてかすかに光っている唇と、その上の高いけれども、可愛らしい丸みを帯びた鼻先がある。

 耳を澄ますと、本当に小さく、唇の間から溢れる彼女の吐息が聞こえる。

「ご、ごめん……」

 彼は口の中に広がった液体を飲み込むと、目を固く閉じて、彼女の唇に向かって自分の唇を寄せた。

 ちょんと、唇が何かの出っ張りに当たる。シャイが、そこじゃないよ、と言うように微かに笑いながら少し顔を上向ける気配がして、唇に、柔らかな感触がやってくる。そこで、

 待て、ちょっと待て。

 と、彼は思う。おそらく、今、彼の唇は彼女の唇と重なっているのに違いない。けれども、この後はどうしたいいのだ、と。

 彼はおもむろに、さっきシャイがそうしたように、自分の唇で、彼女の唇を噛むように挟んでみる。

 柔らかい。よく言われることだが、本当に、マシュマロみたいに、というか、それ以上に、今まで彼の唇に触れてきたこの世のどんな物よりも柔らかい。

 もっと、触りたい、と、彼は素直にそう思う。

 もぞもぞと唇の先を動かすと、白くて硬い歯の感触と、少し開いた彼女の唇の間の舌先の湿った感触が伝わって来る。

 これって、舌、絡ませたら、どんな感じなんだろう……。

 彼は熱い鍋にそっと手を触れるように、ゆっくりと自分の舌を、彼女の唇の間に差し込む。舌が唇の間に挟まれる心地よい圧迫感と滑らかな舌触りがあり、その後で、僅かにザラついた、自分のものと同じ質感の温かい肉の塊に触れる。

 彼はほとんど無意識に、シャイの肩を掴んでいた腕に力を込めて、彼女の唇を引き寄せるように抱き寄せていた。シャイも、背中のコタツの天板に突いていた手を、彼の頭部に回す。幸村も肩を掴んでいた手を、迷いながら上に這わせて、彼女の汗ばんだうなじに手を当てた。

 そこから先は、結局、さっきの舐め合うようなキスと同じだった。やられた分だけやり返すように、彼と彼女は、言葉もなく互いの唇と舌先でじゃれ合った。

「わかったか?」

 ひとしきり遊んだ子どもが楽しさを確認するように、彼女はそう訊いた。

「わかった……結局、こうなるんだな」

「ああ。これがキスというものじゃ」

 シャイは最後に、幸村の唇の先を舐めた。

「キスにはもちろん続きがあるが、こっちも童貞(はじめて)なりのこだわりがあるのか?」

 彼女は意地悪く笑いながら言った。

「いや、そっちは、キスほどのこだわりはない……」

 彼の答えは意外だった。

「……別に、初めてってわけじゃないから」

「ほう……? そりゃまた、いい感じに歪んでおるのう」

 シャイはむしろ愉しそうに琥珀色の目を細めて言った。

「初物じゃったらこのまま、とも思っていたのじゃが、時間切れじゃ」

 壁の時計は七時半を回ろうとしていた。シャイは幸村の太ももに座ったまま尋ねた。

「本日以降の学校生活について、貴様に、二つの選択肢をやろう」

 彼女はまた悪戯っぽく笑う。

「今、貴様がリアルタイムで体験しているのは、冴えない高校生の冴えない日常生活の中に突如として超絶美女な悪魔少女が舞い降りる典型的なラブコメじゃ。さて。ここで王道的な展開としては二つある。一つ目は、この美少女が転校生として学園生活に入り込んでくるパターン。二つ目は、ご都合主義宜しく、主人公にしか見えない霊的な存在として主人公につきまとうパターン。与えられた時間は十秒。時間切れとともに、選択権はワシに移る」

 彼女は壁の時計を見上げる。二本の大きな血管が浮き出た首筋が少し汗で湿りながら、彼の目の前で白く伸び上がる。彼はその首筋にもキスをしたい衝動にかられる。

「あと五秒……」

 カウントダウンが始まる。

「じゃあ、ひと……」

 彼が残り二秒でそう言いかけた時、シャイはニヤリと笑って、自分の唇で彼の口を塞いだ。

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