脅し
不愉快だった。とてつもなく不愉快だった。
何が不愉快だったのか。それは、ほんの十分間の間に理不尽な要求をされ、小馬鹿にされ、からかわれ、最後に、渚に手を出すと言われたことも勿論不愉快だったのだが、何より、一番最初に頭に浮かんだイライラの種は、ここ数週間にわたって恋い焦がれてきた相手が、あんな理解不能な女だったということだった。それが、馬鹿にされたようで、騙されたようで、とてつもなく不快だった。
駅前からコンビニの前を通り過ぎ、公園を抜け、住宅街に入る。高層マンションや、高級車を軒先に泊めた一軒家の多いその区画の中に、ポツンと立った古びた長屋のような家が、彼の家だった。
「ただいまー……」
そう言ったときには、いくらか不安を感じていた。しかしそれも、いつものようにテレビのバラエティー番組の笑い声と共に、
「はーい。おかえりー」
と渚の返事が返ってくるとともに、駅前のピンクチラシのように風に吹かれて何処かへ消えていった。
「にぃーに、遅かったね?」
ジャージ姿の渚は、ピンクに招き猫の柄の入ったとんぷくを羽織り、開いた首筋にタオルを巻き、コタツの上に、食べかけのミカンと、もう食べてしまったミカンの皮と、剥いだ甘皮と、高校の数学の教科書とノートを開いたタブレットを広げて、暖を取っていた。
「ああ。ちょっとその、戒能達と会っててな」
「佐鳥ちゃん先輩達か。連日だねー」
「まあ、その連日も今日で終わりだ」
化粧を落としてコンタクトレンズを外した渚は、少しニキビが残る額にかかる前髪をヘアバンドで後ろに避け、描かないとやや薄すぎる眉毛の下に縁の厚いメガネをかけ、二重まぶたを少しだけ眠たそうに下ろしたまま、タブレットのノートに、後ろに猫のキャラクターのついたタッチペンを走らせている。変わった様子はない。
「お前、テレビ見ながら勉強するなって言っただろ?」
「だめだめ。テレビないとねちゃうもん」
「寝てからやればいいだろ?」
「私、発育がいいから、一回寝るともう朝なの!」
発育が良いと自称する渚は、ジャージの上からでもわかる大きな胸を反らせて背伸びをする。背骨がこりこりという音を立てるのが聞こえる。
「コーヒーでも入れるか?」
「いい。この時間だと、眠れなくなっちゃうもん」
「そうか」
「にぃーには飲むの?」
「さあ、どうすっかな……お前、また呼び方変えたか?」
「うん。だいたい一週間くらいで変えてる」
「今朝は……なんだっけ?」
「今朝までは『あんちゃん』 今はにぃーに。ちょっと遠州弁っぽいね。とある研究によると『お兄ちゃん』の言い方は五十通り以上あるそうだよ?」
「一週間に一つずつ試していって、重複なしで一年間使えるわけか」
そう言って流しに向かいかけると、かすかに夕ご飯の卵焼きの匂いがし、幸村は、腹が減っていることに気付いた。
「なんか残り物とかあるか? 食パンとかでもいいんだけど」
「あ、ごめん。食パンあったんだけど、お腹空いてたから食べちゃった」
「仕方ないな……」
幸村は、元来た玄関へと引き返す。
「あれ、にぃーに、またどっか行くの?」
「ああ。明日の朝飯のこともあるから、食パンくらい買ってくるわ。それで、フレンチトーストでも作って今食べる」
「ええ、悪いよ。食べたの私だし、私、行ってくる。先にお風呂にでも入ってきて」
そう言うと、渚は立ち上がる。
「勉強してろよ?」
「いいの。ちょうど眠くてぼうっとしてたところだったから」
ジャージの上から、高校指定の制服であるブラウンのダッフルコートを羽織る。
「じゃ、すぐ戻るから」
狭い家だ。何歩か歩けば、すぐに玄関についてしまう。渚はローファーを突っかけて、コートのポケットに入れっぱなしにしていた手袋をはめて出て行く。
ガラガラと砂を噛む音を響かせて引き戸が閉まった直後に、自動車のヘッドライトが擦りガラスの向こうに現れ、急ブレーキの音と、その直後の重たい衝突音と共に止まった。
「え……?」
幸村は、一瞬、その音の意味がわからなかった。
「あーあー。可哀想にのう」
その声は、さっきまで、喫茶店で幸村をなじっていた彼女のものだった。
彼女は、玄関の傘立ての横の暗がりに、腕組みをして立っていた。
「貴様、シュレディンガーの猫、という概念を知っているか?」
「知るか!」
幸村は靴を突っかけると、上がり口に飛び降り、引き戸を開けようとする。しかし、建て付けが悪くとも、ついさっきまでは問題ない範囲で開閉していたはずのその扉は、誰かに押さえつけられているかのように全く動かない。
「シュレディンガーの猫。平たく言うと、人間は箱を開けてみない限り、中に入っている猫が死んでいるのか、生きているのかわからない。それは、例えば、五十パーセントの確率で死んでいる猫と、五十パーセントの確率で生きている猫が、同時に目の前の箱の中に入っているのと同じことではないか? ということじゃ」
「開けろ! ここを開けろ!」
幸村は、彼女のダウンジャケットの襟を掴んで、下足入れの棚に背中を叩きつける。
「ほう、威勢がいいのう!」
外から人の声がする。「女の子が倒れてるぞ!」「救急車、誰か、救急車を呼んで!」
「さて、どうする? ゲームを戦うと誓ってこの扉を開ければ、妹は生きている。誓わなければ、妹は死に向かう。今この瞬間、この扉の向こうには、その二つの可能性を持った妹がいる」
「馬鹿野郎! いい加減にしろ!」
「頑じゃのう。では仕方ない。行くがいい」
そう彼女が言うと、扉はひとりでに音もなく開いた。
「渚!」
叫んで飛び出すと、フロントガラスが粉々に割れた外車の前に、うつ伏せになって渚が倒れていて、その周りを、近所の住人が囲んでいる。
「渚、なぎさ!」
駆け寄ろうとすると、男性が腕を掴んだ。
「ダメだ、今は触らないほうがいい!」
「離せ、家族なんだ、俺は渚の兄貴なんだ!」
フロントガラスには僅かに血痕が付着しており、うつ伏せになった渚の額のあたりからは、少しずつ血液が漏れて広がっている。
「今、救急車がくる!」
誰かがそう叫ぶ。
一瞬、力が緩んだ男の手を振りほどいて、幸村は渚の横に駆け寄る。
触れないほうがいい、そう言われた体をそっと仰向けると、切れて血が出た唇と、ガラス片が刺さり、擦り切れた左のこめかみと、メガネの縁が食い込んで抉れた鼻が、目に飛び込む。あたりを見回すと、十メートル以上も向こうに、黒縁のメガネが転がっている。
「渚あ……渚ああ……」
抱き上げる体は重い。死んだ人間の体は重い、という言葉を幸村は思い出した。
「さあて。貴様はこうして、可能性を一つ減らしてしまったのう?」
顔を上げると、彼女が兄妹を見下ろしている。
「お前が、お前がやったのか?」
「答えはイエスでもあり、ノーでもある。今この瞬間の貴様にとっては、そんなことよりも、妹を助けられるかどうかが問題じゃろ? またシュレディンガーの猫じゃ。今なら、頭に打撲と裂傷を負いながらも、奇跡的に脳震盪で済んだ妹と、脳挫傷と内臓破裂で無残に死ぬ妹が同時に存在しておる」
「てめえ、いい加減にしろ、後で殺してやる!」
そう言って、幸村は息をしているのかどうかもわからない渚を抱きしめた。
周りの人間は、二人のやりとりに全く気付かない。おそらく、彼らには見えても聞こえてもいないのだ。
救急車のサイレンが聞こえ、赤い回転灯を灯した白い車両がやってくる。
救急隊員は、幸村を離れさせ、渚の容態を確認する。
「家族の人? お父さんとお母さんは?」
隊員は幸村にそう聞いた。
「父母はいません。僕だけが、この子の家族です」
「そうか」
彼は短く答えて担架を下ろし、掛け声とともに渚の体を乗せると、ストレッチャーを立てて車両に押し上げる。
「ほら、君も乗って!」
力強い腕で引き上げられ、酸素マスクをつけられ、応急処置を施される渚の様子を、車両の端で幸村はどうする事も出来ずに見ていた。
「どうじゃ、わかってきたか? 貴様の妹は徐々に死に向かいつつあるぞ?」
彼女は、忙しく作業する救急隊員の真横に立っている。狭い車内で、彼らの腕や、腰は彼女のダウンジャケットに触れている。しかし、彼らは彼女には全く気付かない。
「シュレディンガーの猫じゃよ。猫」
彼女は嗤う。足元では、あの犬のような生き物が尻尾を振っている。
救急車は程なく病院に着き、ストレッチャーの担架に乗せられたまま、救急搬送口から手術室に直行する。
「ほれ、早くしないと、妹が死んでしまうぞ?」
手術室の奥からは、詳細は聞き取れないものの、緊迫した調子の声が聞こえる。
「あーあ。貴様が選ばんから、どんどん死に近い結果へと運命が枝分かれしていくわ。今ならまだ、重傷だが奇跡的に助かったとか、そういう妹が存在し得るぞ?」
手術室の手前で、彼女は缶コーヒーの蓋をあける。
「貴様も飲むか?」
安いコーヒーの香りは、幸村の意識には届かない。
「助けられるのか……?」
彼はようやくそう訊いた。
「お前は、渚を、助けられるのか?」
彼は彼女を見上げる。
「答えはイエスでもあり、ノーでもある。私があの妹を助けるのではない。貴様が選ぶのだ。並行的に存在している、二匹の猫のうち、どちらかを選ぶのじゃ」
「じゃあ、選ぶよ、渚を助けてくれ……」
幸村は椅子から降りて、彼女の足元にすがりついた。弾みで缶コーヒーが溢れ、幸村の制服のワイシャツにシミを作った。
「では、貴様とワシはパートナーじゃ。よろしくな」
彼女はそう言って、紫のマニュキュアを塗った手を差し出した。
彼は無言でその手を握る。
「ワシのことは、もう名前くらいは知っているとは思うが、『シャイ』と呼ぶことを許そう」
それは、コンビニのネームプレートに書いてあったのを同じ名前だった。
「どうした。一気に疲れた、という感じじゃのう?」
実際、幸村はひどく疲れていた。
「せめて寝る前に、ワシが貴様をどう呼べばいいか、くらいは決めぬか? 呼び方がなければ、成功すると決まった手術が終わっても、起こすに起こせんって」
「幸村。それが嫌なら、圭一だ」
「なんじゃ、もう少しこなれたあだ名のようなものはないのか? ワシの名前だって、フルではない」
「あだ名なんてものはない」
「なんじゃ。つまらんやつじゃのう……。まあ良いわ。貴様がそれで良いのなら。それに、あだ名がなければ、つくれば良い」
そして、悪魔は笑った。