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天使と悪魔のゲーム  作者: とっきー
6/18

脅し

 不愉快だった。とてつもなく不愉快だった。

 何が不愉快だったのか。それは、ほんの十分間の間に理不尽な要求をされ、小馬鹿にされ、からかわれ、最後に、渚に手を出すと言われたことも勿論不愉快だったのだが、何より、一番最初に頭に浮かんだイライラの種は、ここ数週間にわたって恋い焦がれてきた相手が、あんな理解不能な女だったということだった。それが、馬鹿にされたようで、騙されたようで、とてつもなく不快だった。

 駅前からコンビニの前を通り過ぎ、公園を抜け、住宅街に入る。高層マンションや、高級車を軒先に泊めた一軒家の多いその区画の中に、ポツンと立った古びた長屋のような家が、彼の家だった。

「ただいまー……」

 そう言ったときには、いくらか不安を感じていた。しかしそれも、いつものようにテレビのバラエティー番組の笑い声と共に、

「はーい。おかえりー」

 と渚の返事が返ってくるとともに、駅前のピンクチラシのように風に吹かれて何処かへ消えていった。

「にぃーに、遅かったね?」

 ジャージ姿の渚は、ピンクに招き猫の柄の入ったとんぷくを羽織り、開いた首筋にタオルを巻き、コタツの上に、食べかけのミカンと、もう食べてしまったミカンの皮と、剥いだ甘皮と、高校の数学の教科書とノートを開いたタブレットを広げて、暖を取っていた。

「ああ。ちょっとその、戒能達と会っててな」

「佐鳥ちゃん先輩達か。連日だねー」

「まあ、その連日も今日で終わりだ」

 化粧を落としてコンタクトレンズを外した渚は、少しニキビが残る額にかかる前髪をヘアバンドで後ろに避け、描かないとやや薄すぎる眉毛の下に縁の厚いメガネをかけ、二重まぶたを少しだけ眠たそうに下ろしたまま、タブレットのノートに、後ろに猫のキャラクターのついたタッチペンを走らせている。変わった様子はない。

「お前、テレビ見ながら勉強するなって言っただろ?」

「だめだめ。テレビないとねちゃうもん」

「寝てからやればいいだろ?」

「私、発育がいいから、一回寝るともう朝なの!」

 発育が良いと自称する渚は、ジャージの上からでもわかる大きな胸を反らせて背伸びをする。背骨がこりこりという音を立てるのが聞こえる。

「コーヒーでも入れるか?」

「いい。この時間だと、眠れなくなっちゃうもん」

「そうか」

「にぃーには飲むの?」

「さあ、どうすっかな……お前、また呼び方変えたか?」

「うん。だいたい一週間くらいで変えてる」

「今朝は……なんだっけ?」

「今朝までは『あんちゃん』 今はにぃーに。ちょっと遠州弁っぽいね。とある研究によると『お兄ちゃん』の言い方は五十通り以上あるそうだよ?」

「一週間に一つずつ試していって、重複なしで一年間使えるわけか」

 そう言って流しに向かいかけると、かすかに夕ご飯の卵焼きの匂いがし、幸村は、腹が減っていることに気付いた。

「なんか残り物とかあるか? 食パンとかでもいいんだけど」

「あ、ごめん。食パンあったんだけど、お腹空いてたから食べちゃった」

「仕方ないな……」

 幸村は、元来た玄関へと引き返す。

「あれ、にぃーに、またどっか行くの?」

「ああ。明日の朝飯のこともあるから、食パンくらい買ってくるわ。それで、フレンチトーストでも作って今食べる」

「ええ、悪いよ。食べたの私だし、私、行ってくる。先にお風呂にでも入ってきて」

 そう言うと、渚は立ち上がる。

「勉強してろよ?」

「いいの。ちょうど眠くてぼうっとしてたところだったから」

 ジャージの上から、高校指定の制服であるブラウンのダッフルコートを羽織る。

「じゃ、すぐ戻るから」

 狭い家だ。何歩か歩けば、すぐに玄関についてしまう。渚はローファーを突っかけて、コートのポケットに入れっぱなしにしていた手袋をはめて出て行く。

 ガラガラと砂を噛む音を響かせて引き戸が閉まった直後に、自動車のヘッドライトが擦りガラスの向こうに現れ、急ブレーキの音と、その直後の重たい衝突音と共に止まった。

「え……?」

 幸村は、一瞬、その音の意味がわからなかった。

「あーあー。可哀想にのう」

 その声は、さっきまで、喫茶店で幸村をなじっていた彼女のものだった。

 彼女は、玄関の傘立ての横の暗がりに、腕組みをして立っていた。

「貴様、シュレディンガーの猫、という概念を知っているか?」

「知るか!」

 幸村は靴を突っかけると、上がり口に飛び降り、引き戸を開けようとする。しかし、建て付けが悪くとも、ついさっきまでは問題ない範囲で開閉していたはずのその扉は、誰かに押さえつけられているかのように全く動かない。

「シュレディンガーの猫。平たく言うと、人間は箱を開けてみない限り、中に入っている猫が死んでいるのか、生きているのかわからない。それは、例えば、五十パーセントの確率で死んでいる猫と、五十パーセントの確率で生きている猫が、同時に目の前の箱の中に入っているのと同じことではないか? ということじゃ」

「開けろ! ここを開けろ!」

 幸村は、彼女のダウンジャケットの襟を掴んで、下足入れの棚に背中を叩きつける。

「ほう、威勢がいいのう!」

 外から人の声がする。「女の子が倒れてるぞ!」「救急車、誰か、救急車を呼んで!」 

「さて、どうする? ゲームを戦うと誓ってこの扉を開ければ、妹は生きている。誓わなければ、妹は死に向かう。今この瞬間、この扉の向こうには、その二つの可能性を持った妹がいる」

「馬鹿野郎! いい加減にしろ!」

「頑じゃのう。では仕方ない。行くがいい」

 そう彼女が言うと、扉はひとりでに音もなく開いた。

「渚!」

 叫んで飛び出すと、フロントガラスが粉々に割れた外車の前に、うつ伏せになって渚が倒れていて、その周りを、近所の住人が囲んでいる。

「渚、なぎさ!」

 駆け寄ろうとすると、男性が腕を掴んだ。

「ダメだ、今は触らないほうがいい!」

「離せ、家族なんだ、俺は渚の兄貴なんだ!」

 フロントガラスには僅かに血痕が付着しており、うつ伏せになった渚の額のあたりからは、少しずつ血液が漏れて広がっている。

「今、救急車がくる!」

 誰かがそう叫ぶ。

 一瞬、力が緩んだ男の手を振りほどいて、幸村は渚の横に駆け寄る。

 触れないほうがいい、そう言われた体をそっと仰向けると、切れて血が出た唇と、ガラス片が刺さり、擦り切れた左のこめかみと、メガネの縁が食い込んで抉れた鼻が、目に飛び込む。あたりを見回すと、十メートル以上も向こうに、黒縁のメガネが転がっている。

「渚あ……渚ああ……」

 抱き上げる体は重い。死んだ人間の体は重い、という言葉を幸村は思い出した。

「さあて。貴様はこうして、可能性を一つ減らしてしまったのう?」

 顔を上げると、彼女が兄妹を見下ろしている。

「お前が、お前がやったのか?」

「答えはイエスでもあり、ノーでもある。今この瞬間の貴様にとっては、そんなことよりも、妹を助けられるかどうかが問題じゃろ? またシュレディンガーの猫じゃ。今なら、頭に打撲と裂傷を負いながらも、奇跡的に脳震盪で済んだ妹と、脳挫傷と内臓破裂で無残に死ぬ妹が同時に存在しておる」

「てめえ、いい加減にしろ、後で殺してやる!」

 そう言って、幸村は息をしているのかどうかもわからない渚を抱きしめた。

 周りの人間は、二人のやりとりに全く気付かない。おそらく、彼らには見えても聞こえてもいないのだ。

 救急車のサイレンが聞こえ、赤い回転灯を灯した白い車両がやってくる。

 救急隊員は、幸村を離れさせ、渚の容態を確認する。

「家族の人? お父さんとお母さんは?」

 隊員は幸村にそう聞いた。

「父母はいません。僕だけが、この子の家族です」

「そうか」

 彼は短く答えて担架を下ろし、掛け声とともに渚の体を乗せると、ストレッチャーを立てて車両に押し上げる。

「ほら、君も乗って!」

 力強い腕で引き上げられ、酸素マスクをつけられ、応急処置を施される渚の様子を、車両の端で幸村はどうする事も出来ずに見ていた。

「どうじゃ、わかってきたか? 貴様の妹は徐々に死に向かいつつあるぞ?」

 彼女は、忙しく作業する救急隊員の真横に立っている。狭い車内で、彼らの腕や、腰は彼女のダウンジャケットに触れている。しかし、彼らは彼女には全く気付かない。

「シュレディンガーの猫じゃよ。猫」

 彼女は嗤う。足元では、あの犬のような生き物が尻尾を振っている。

 救急車は程なく病院に着き、ストレッチャーの担架に乗せられたまま、救急搬送口から手術室に直行する。

「ほれ、早くしないと、妹が死んでしまうぞ?」

 手術室の奥からは、詳細は聞き取れないものの、緊迫した調子の声が聞こえる。

「あーあ。貴様が選ばんから、どんどん死に近い結果へと運命が枝分かれしていくわ。今ならまだ、重傷だが奇跡的に助かったとか、そういう妹が存在し得るぞ?」

 手術室の手前で、彼女は缶コーヒーの蓋をあける。

「貴様も飲むか?」

 安いコーヒーの香りは、幸村の意識には届かない。

「助けられるのか……?」

 彼はようやくそう訊いた。

「お前は、渚を、助けられるのか?」

 彼は彼女を見上げる。

「答えはイエスでもあり、ノーでもある。私があの妹を助けるのではない。貴様が選ぶのだ。並行的に存在している、二匹の猫のうち、どちらかを選ぶのじゃ」

「じゃあ、選ぶよ、渚を助けてくれ……」

 幸村は椅子から降りて、彼女の足元にすがりついた。弾みで缶コーヒーが溢れ、幸村の制服のワイシャツにシミを作った。

「では、貴様とワシはパートナーじゃ。よろしくな」

 彼女はそう言って、紫のマニュキュアを塗った手を差し出した。

 彼は無言でその手を握る。

「ワシのことは、もう名前くらいは知っているとは思うが、『シャイ』と呼ぶことを許そう」

 それは、コンビニのネームプレートに書いてあったのを同じ名前だった。

「どうした。一気に疲れた、という感じじゃのう?」

 実際、幸村はひどく疲れていた。

「せめて寝る前に、ワシが貴様をどう呼べばいいか、くらいは決めぬか? 呼び方がなければ、成功すると決まった手術が終わっても、起こすに起こせんって」

「幸村。それが嫌なら、圭一だ」

「なんじゃ、もう少しこなれたあだ名のようなものはないのか? ワシの名前だって、フルではない」

「あだ名なんてものはない」

「なんじゃ。つまらんやつじゃのう……。まあ良いわ。貴様がそれで良いのなら。それに、あだ名がなければ、つくれば良い」

 そして、悪魔は笑った。

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