付き合うためのフザけた条件
彼女は大きなファーのついた黒のダウンジャケットの下に、白い薄手のニットを着ていて、首元には、首輪のようなチョーカーから下がった逆さ十字が揺れていた。ボトムはバイト中と同じジーンズだったが、足元は軽めのスニーカーから、黒い羽をあしらった黒皮のエンジニアブーツに履き替えていた。幸村は、そのややマニッシュで、ストリート風の服装を、彼女によく似合うと思った。
彼女はずっと遠くから、口元をやや緩ませながら、いつもの強い視線で彼の目を捉えると、やや伏目勝ちにした目を彼に向けたまま逸らそうともせず、公園のレンガの地面をブーツのかかとでザリザリと鳴らしてやってきた。
「やあ。待たせたな」
彼女は支配者のように片手を満月にかざしてそう言った。
「まず初めに、単刀直入に訊こう」
四文字熟語を使った日本語は極めて流暢だった。彼女は角の尖った、低い、ドスの効いた声で言った。
「貴様は……」
キサマ、という音が、夜の公園に極めてサディステックに響いた。
「私のことが好きなんだな」
「はい!」
幸村は迷いなく、まるで心臓に鋭利な刃物を突き刺して、そのままえぐり出し、両手で彼女の前に捧げるように、そう言った。
「そうか。そうなんだな……」
「そうなんです。ですから、ぜひ、お友達から……」
「ふっふっふ……」
彼女は小さく笑った。それはどんどん大きくなり、夜の街に響き渡るような高笑いに変わった。
「では貴様と付き合ってやろう! しかし、一つ条件がある!」
「はい……?」
「貴様には、ワシと一緒に天使と悪魔のゲームを戦ってもらーう!」
「は、はい……?」
さすがの幸村も一歩引いた。
「なんだ貴様? できないというのか?」
「い、いや、その……」
正直、何を言われているのかわからなかった。というか、やばい人だと思った。
「ワシが信頼できるソースから得た情報によれば」
というか、一人称が「ワシ」なんだ、と幸村は思う。
「日本の青少年というのは、惚れた女のためならば、ヤクザ相手にケンカしたり、悪の組織に立ち向かったりと、およそ勝算のないクレイジー極まるゲームに平気で参加することができるそうではないか! 貴様も、貴様の気持ちが本当ならば、イエスと言え、イエスと! 神のひとり子の名のようになっ!」
そう言って彼女は、あっはっはと高笑いする。
最後のフレーズの意味がよくわからなかったが、なんか、取り敢えず、すげえ偏った知識みたいだけど、親日家ではあるみたいだ、と、彼は思った。
「あの、そのゲームっていうのは?」
彼は勇気を出して訊いてみた。
「おお、貴様、興味があるのか。大出来大出来!」
たいできって……何時代だ? と彼はまた心の中で突っ込む。
「では教えてしんぜよう。天使と悪魔のゲーム、というのは、貴様ら人間が文字を生み出す以前、太古の昔から、天使と悪魔がおおよそ千年に一度の周期で繰り広げてきた、由緒正しきゲームじゃあ! 貴様はそのプレイヤーに選ばれた! 畏み畏み、その栄誉を受けよ!」
また彼女は、東京の夜空に響き渡るような声で高笑いする。
「あ、あの……」
幸村はおっかなびっくり言った。
「すみません。この話はなかったことに……」
「そうかそうか。謹んで申し受けるか……って、貴様!」
彼女は琥珀色の瞳を、月明かりの下でゴールドに光らせた。
「貴様、今、なんと言った?」
「ですから、この話は……」
「あん?」
彼女は完全に恫喝するように言った。
「ごめんなさい!」
彼は告白したほうなのに、腰を九十度に折って謝った。
「では、僕はこれで!」
彼は回れ右をして、ぱらぱらと手を振る。
「おい待て貴様!」
幸村の足取りが速くなる。
「待てと言っておろうが、貴様!」
もう彼は全力で走り出していた。
彼女はその背後で叫んだ。
「えーい、フルフル、キャッマーンじゃあ!」
振り向くと、彼女は中指を立てて済まさじい怒気を放っていた。
「待て。少年……」
正面から声が聞こえて、彼の三半規管に、車に跳ねられたような−−−−無論、彼は車にはねられた事はないのだが、きっと跳ねられたのであれば、これくらいの衝撃であろうというくらいの−−−−衝撃がやってきた。
進行方向から正反対のベクトルに弾き返された彼は、ぐらつく頭を押さえながら、彼が衝突した物体を見上げる。
それは女性だった。そして彼は一目で、その女性が極めて「ヤバそう」であることがわかった。
さて、どこからどう説明しよう。説明すべき点がいろいろありすぎるのだ。
まずはそう、彼女が側頭部につけている「ツノ」から説明すべきだろうか。それが一番、象徴的な「ヤバさ」だからだ。それは牡鹿のツノのように、あるいは木々の枝のように、左右対称に五十センチほどの長さを持って、複雑に枝分かれしながら生えていた。その表面は古い樹木の枝のように筋張って、所々ささくれているように見えるが、よく見ると表面は皮膚組織のようなものにくるまっており、筋のように見えるのは、皮膚の下の組織が浮き出ている内部組織のうねりである。そして、表面にはムートンのように、短いが密度の濃い毛のようなものが生えている。どうやってそんなものを頭につけているのか、仕組みは全くわからないが、その極端に凝った造りのファッションガジェットは、一対で数万円は下らないだろう。それが、赤紫に染め上げたセミロングのおかっぱの髪の毛の合間から唐突に生え出ているのである。
次は褐色の肌に入れられた、白い刺青がいいだろうか。彼女の茶色い顔面には、円や四角形、あるいは星型のモチーフと、世界史の教科書の石板の図に掘られているような、アルファベットでも日本語でもない文字が、目蓋の上にまで彫り込まれている。
ぷっくりと膨らんだ唇には黒と白と銀のリングのピアス。目には特殊なコンタクトレンズを入れているのか、通用ならば白目がある部分は塗りつぶしたような黒色をしており、赤い瞳の中には、ミミズのような糸状の物体がうごめいている。
冬の中でも際立って寒い今日だというのに、胸の谷間から恥骨の付近まで、布地が大きく開いたフロントレースアップの編み上げになった赤黒いエナメルのボンデージドレスを着ている。
編み上げの陰に見える腹部には、女性とは思えないほど発達した腹筋が浮き出ている。短いスカートの裾からはガーターベルトの皮のバンドを垂らし、編み込みの粗いストッキングを履いている。膝から下は、おそらく特殊な接着剤で皮膚と密着させていると思われる毛皮の長いブーツが、まるで彼女自身の足が、途中から偶蹄類のそれになってしまったかのように履かれていて、つま先は二つに割れた蹄のデザインになっている。両の腕にはドレスと同じエナメルのアームカバー。その先の指は、異様に長いつけ爪が付いていて、その先からは、髑髏や六芒星のモチーフがキーホルダーのようにぶら下がっている。そしてそれらの奇抜な服から見える素肌には、指先であろうと太ももであろうと、いたるところに、顔面と同じ呪術的な匂いのする白い刺青が施されている。
「お前、ちょっと待テ。待ったほうがイイ」
彼女は歯を見せて嗤う。汚れているというより、元からそういう色であるかのように灰色がかった歯の合間から、突起状のピアスをつけた長い舌が見える。その舌先は二つに裂けていて、彼女が唇のピアスを舐めると、舌のピアスと擦れて、ころころという音を立てた。風が急に強くなる。
「待て、マテ」
彼女は片言の日本語でそういう。やばい。百パー、完全にやばい人だ。幸村はそう確信した。
いつの間にか降り始めて、地面にうっすらと積もった雪が巻き上がり、渦状に吹き上がる。空から降る雪も急に勢いを増し、風に乗って真横に叩きつけるように降り始める。幸村はきっぱりと言った。
「すいません、待てません!」
彼は持てる力の全てを以って走った。
「あ……一寸、待て」
彼女はそう言ったが、走り去る彼の耳には届かない。
彼は逃げた。公園を抜けて、人気の少しでも多い、明るい駅前方面に向けて逃げた。コンビニの前を通り過ぎ、スーパーのある角を抜けると、後ろからギャンギャンという鳴き声が聞こえてくる。振り返ると、小型犬のような生き物が追いかけてくる。頭にはトナカイのようなツノを生やし、足は偶蹄類のそれのように二つに割れた蹄が付いている。四本足で走るそれはぐいぐい距離を詰めてくる。
「なんなんだよ!」
走る目に、コーヒーショップの看板が目に入る。咄嗟に幸村は、さすがに犬はコーヒーショップには入れないと踏んで、そこを避難場所に選んだ。
カラン、とドアにぶら下がったカウベルが鳴る。冬の乾燥した空気に擦られた喉がぜえぜえと音を立てる。さっきまであんなに寒かったのに、ワイシャツの中で下着が蒸すほど暑い。膝に手を突いて息を整えていると、もう一度、カラン、とカウベルが鳴った。
「なんじゃ。貴様もセイレーン・コーヒーが好きなのか?」
その独特の口調は間違いなく、彼女のものだった。
「も、もう、勘弁してください……」
息も絶え絶えに、幸村は頭を下げる。
「まあ、落ち着け。別に取って食おうというわけではないんじゃから」
そう言うと、彼女はオーダーカウンターの前に歩いていく。足元には、あの小型犬とトナカイを足して二で割ったような生き物がぴったりとくっついて短い尻尾を振っている。
そして彼女はメニューも見ずに、
「ダークモカチョコチップカフェラーペグランデソイエッドワンショットキプトタンブラープリーズ」
と、彼には全くもって理解できないカタカナの呪文を唱えた。
「かしこまりました」
召喚された悪魔のように、店員が機械的にレジに入力を始める。そして彼女は会計が言い渡されるよりも前に、きっかり七百五十円を銀の小銭受けの中に入れる。店員は「ありがとうございます」と言うと、奥の壁に並べられたタンブラーから、赤地にもみの木とサンタクロースとトナカイのソリが描かれたクリスマス柄の一本をとってきて、「こちらでお間違いなかったですか?」と訊く。
「ああそうだ。ありがとう」
彼女はいくらか偉そうに、しかし、気安い笑顔を浮かべながら、店員と会話をする。
「さあ。貴様は何にするのじゃ?」
「え、俺は……」
レジ上のメニューを見上げる。
セイレーンラテ、カフェアメリカーノ、カプチーノ、カフェモカ、ホワイトモカ、カラメルマキアート、カフェラーペ、カラメルカフェラーペ、ダークモカカフェラーペ、グリーンティーフラッペetc.etc…..
コーヒーの種類が四種類以上ある店に入った事のない彼には、それらの間にある違いがほとんど理解できなかった。困り果てた様子でボードのあちこちに目を走らせる姿を見かねてシャイは、
「なんだ。貴様、初めてか? 分かった。ワシがリードしてやろう。貴様、まず、およそコーヒーと呼べるものがいいか、それとも、ほぼスイーツなものがいいか?」
「じゃ、じゃあ、その、およそコーヒーと呼べるもので……」
「分かった。ミルクたっぷりの、こってりしたものがいいか、それとも、ブラックコーヒーに近い、あっさりしたものがいいか?」
「うーん……」
「特に好みはなさそうじゃな。その様子だと、エスプレッソでスイーツを、という感じでもなかろう。もう八時近いが、ディナーは済ませたか?」
「いや、まだ……」
「では、マフィンか何か、食物を選べ。合いそうなものを適当に選んでやる。ワシが払ってやるから値段は気にするな。さっき言った、ゲームの経費の内だ」
「あ、ありがとう」
彼女が指差したのは、ガラスケースの中に並べられた、サンドイッチやマフィン、菓子パンだった。夕食どきを過ぎた時間帯ではあるが、一応駅前でもあり、二十四時間営業のこの店にはある程度の物量があった。
「じゃあ……」
言われた通り、好きなものを選ぼうとして、ミックスサンドイッチを選びかけ、五百八十円もするのに気づいて、幸村は、三百円のチーズマフィンに決める。
「分かった。ミックスサンドイッチじゃな」
「いや、その上のチーズマフィンでいいよ!」
目線を読んだ彼女は、幸村が言い出すよりも先に、
「ミックスサンドイッチ、セイレーンアイスラテグランデ」
と注文してしまった。
南国の昆虫の殻のような、赤いガラスに黄色のドットが入ったランプの下の、丸いソファー・テーブルに腰掛け、彼女は幸村と向かい合った。少し奥まったその席から見える店内は、赤や蒼の混ぜガラスのランプが暖かい色彩を放ちながら天井からぶら下がり、仕立てのいい革張りのソファーや、漆黒の塗料がよく塗り込められた、ツヤのあるパイン材のテーブルで埋め尽くされている。その中を漂う濃厚なコーヒーと、バニラやシナモンが混ざった甘い香りに、幸村はすっかり飲まれていた。
「さて。貴様には色々と説明が必要じゃなあ……」
彼女は山のように生クリームを盛った上に、チョコソースとチョコチップをまぶした、彼女自身が「ほぼスイーツ」と形容したコーヒーをストローで軽くかき混ぜると、静かに啜った。
「ワシは面倒な解説はぶっちゃけ苦手じゃ。左脳派・右脳派とか分けるんじゃったら完璧に右脳派じゃ。そんな貴様がちゃんと理解できるかどうかわ分からんが、はじめにこれだけは言っておく。これからワシが貴様に伝えることはすべて真実じゃ」
英語の女性ボーカルの曲が流れている。アップテンポの古いブルースだ。
「単刀直入に言って、さっきワシが言った通り、貴様は天使と悪魔のゲームの参加者に選ばれた。ワシの名前はシャイターン。貴様と貴様と組んでこのゲームを戦うことになった悪魔側の代表じゃ。よろしく頼むぞ」
そう言って、彼女はカルマブレスレット−−−−リングやクロス、インフィニティなどの呪術的な意味のあるモチーフを、革やチェーンで手首に巻きつけたもの−−−−を幾つもつけた手を伸ばす。幸村はその手を握ろうとはせず、当然にしてこう言った。
「すいません。何を仰っているのやら……」
「だから、ワシの仰っていることは全て真実じゃというておるに。貴様に選択権はない。しかし、それなりの『取引』をすることはできる。欲しいものがあれば、なんだってくれてやろう」
「だから……もう、なんなんですか? ……頭おかしい人なんですか?」
「ほう……なるほど、そういう反応をするのか」
自分を悪魔といった彼女は、ほとんどスイーツのコーヒーを一気に半分近く啜ると、
「では、証を見せよう」
と言った。
「貴様、どんなことが起これば、私を本物の悪魔で、天使と目下ゲーム中だと信じる?」
「どんなって……」
「まあ、選べという方が無理か」
彼女は諦めがちにそう言うと、ゴールドの目をゆっくりと座席に走らせる。
「では例えば……」
彼女は紫のマニュキュアをつけた人差し指で、窓際に座って、英字新聞を読んでいるサラリーマン風の男を指差した。
「あの男は若いが、妻子がいる。子供は三歳の女の子と、六か月の男の子じゃ。しかし、あの男にとって、結婚はいささか早すぎた。まだ自分の自由な時間が欲しくて、ああやって、会社帰りに女と飲んだ後、酔いを冷ますためにコーヒーを飲んでいる。ワシは今からあの男を殺そうと思う」
「はい?」
途中までは占いでもしているのかと思った。しかし、最後の一言は唐突だった。
「では、行くぞ」
彼女はストローを啜っていた唇を、同じ形のまま男に向けて、ふっと息を"吸った"。
男の髪と手にした新聞は、風もないのに、また、彼女との間は五メートル以上あるのに風に吹かれたようにこちらに向かって揺れる。天井のランプが燃えるような音を立てて一瞬大きく光って弱り、また元に戻る。そして彼は急激に眠りに落ちるように目を瞑ると、新聞を落とし、コーヒーを額で床に叩き落としながら、テーブルに突っ伏した。
「お客様?」
驚いた店員がカウンター越しに声をかける。周囲の客が、不愉快そうな顔をしつつも、飲み口から刻一刻とコーヒーが溢れて広がるペーパーカップを拾い上げ、男の机に戻す。その間、男は全く動かない。
「あの、お客様?」
カウンターから紙ナプキンを手に出てきた店員が、男の肩を軽く叩く。反応はない。
「お客様、お客様?」
店員は遠慮がちに体を揺する。そして、男の口に手の甲をかざすと、
「すいません、救急車お願いします!」
と声をあげた。
「さて……」
彼女はその一部始終を見ながら、またコーヒーを啜る。今度は最後のひと啜り分だけ残して、右手でタンブラーをくるくると回す。
「どうじゃ? 信じる気になったか?」
幸村は、目の前でバタバタと起きた事件をうまく飲み込めていなかった。おそらく、目の前で人が、心臓発作か脳卒中か、そうした突発性の病気で死に掛けているのである。そしてそれは、彼女の言葉と同じタイミングで起きた。
「信じるって……何を」
「だから、ワシが悪魔だということをじゃ」
「それとこれとは関係ないんじゃないですか?」
彼女は大きくため息をつく。
「全く、なんなのじゃ、貴様ら日本人というやつらは?」
彼女は最後のひと啜りを啜ると、また男に唇を向け、今度はふっと吹いた。
「あ、あれ……」
また風が吹いたように、今度は男の髪がこちらから向こうに吹き退けられて、彼は何事もなかったように体を起こす。そして、
「あ、すみません。寝ちゃってたみたいで、あ。コーヒー、片付けます」
と言って、店員が持っていた紙ナプキンを受け取り、床を拭き始める。
気の毒な店員は周囲に勘違いだと謝り、片付けを手伝ったのちに、カウンターに戻っていく。
「では、仕方ない。なんでもいいから欲しいものはないか? ゲームを戦うことと引き換えに、何か望むものはないか? それを先んじて叶えてやれば、貴様も信じる気にはなるじゃろう?」
彼女は、エンジニアブーツと長い足を見せびらかすように、大仰に足を組む。
「望むものって……」
幸村は咄嗟には何も浮かばない。彼女は右手でソファーの肘掛けに頬杖を突く。
「例えば、金でもいいし、棚ぼた的な成功でもいい。それに例えば……」
彼女は言いかけて、白い薄手のニットの襟首を下に少し引っ張って伸ばし、そうすることで見えるようになった紺色のフリルのついた下着の前面のホックを、パチンという音を立てて外した。
「例えば、このワシの体、ということでもいいぞ?」
「え……」
幸村はドクリという動悸を感じた。
「おお、すまん。それでは、私が悪魔であることの証明にはならんのう」
彼女は真っ白な歯を見せて笑う。
「それにしても貴様、本当に欲しいものがなさそうじゃな。貴様の欲望が一向に見えてこない。最近の若者は、欲しいものもないのか……では……」
飲み終わったタンブラーの口を開いて、まだ中に残っている泡のような部分を、長い舌を使って舐めとる。
「では、ちょっと悪趣味じゃが、逆に、ワシがお前から大事なものを奪いとらない代わりに、貴様にゲームを戦ってもらおう」
タンブラーの蓋を閉めると、ゴムがキュッという音を立てる。
「だから、何を言ってるのか全然……」
「ワシが理解できない言葉を言っているのではない。貴様がワシの言葉を理解しないのだ。ワシはワシが言った言葉の通り、今貴様の目の前であの男の命を奪ってみせたし、それと同じように、貴様の大切なものを奪い取ることもできる。ただそれだけの単純なことを言っているだけじゃ」
大型のトラックが、窓の前を通り過ぎる。決して作りの悪くない窓だったが、足元も少し揺れ、窓ガラスも震えた。
「そうじゃな。貴様が迷うのであれば、ワシが提案しよう」
ゴールドの瞳が、彼の頭の中にある本でも読むように、幸村の目を覗き込む。
「友達……というのも悪くはないが、ちょっとロマンがないのう。思い女……は、まあ、ワシがそれに近い者だったということか。気の毒になあ。では、やはり……」
彼女は目当ての獲物を探し当てた猛獣のように、パールピンクのグロスを塗った唇を舐めた。
「やはり、貴様の場合は、奪われて困るものは、家族、かのう?」
そう彼女が言った瞬間に、幸村は、自分でも気付かないほど反射的に、ソファーを押しのけ、膝丈のカフェテーブルの上に身を乗り出していた。
「お前、渚に手を出すつもりか」
幸村は掴みかからんばかりに彼女を睨んでいた。
「おお。貴様のような男にも、『逆鱗』というような概念があったのだな。少し安心したぞ、ニンゲン」
彼女は少しも動揺することなく微笑むと、
「では決まりだ。ワシは貴様の可愛い妹、たった一人だけこの世に残った貴様の家族である、幸村 渚には一切手出しをしないでやろう。その代わり、貴様は全力でゲームを戦うと誓ってもらう」
「無茶苦茶だ。そもそも、なんで俺が、お前を悪魔だと信じたり、訳のわからないゲームをする必要があるんだ?」
「なかなか核心を突いた質問じゃな。しかし、的外れじゃ。なぜかわかるか?」
幸村は不快感を顕にする。
「知らない。知る必要もないだろ」
「そう。知る必要はない。じゃが教えてやる。貴様がこのゲームに参加することは、貴様がこの世に生まれてくる時から決まっておった事じゃ。じゃから、『決まっていたこと』という以上に、貴様がこのゲームに参加することについて、積極的な理由はない。じゃから、ワシがそれを与えてやろうと思う。貴様の可愛い可愛い妹を使ってな」
「ふざけんな!」
幸村はテーブルを叩いた。そして、一口も食べていないミックスサンドと、セイレーンラテを残して、カバンを掴んで店を出て行く。
「おやおや……いかんあ。なあ、フルフル?」
彼女はその背中を見送ると、テーブルの上に残ったミックスサンドを一口がぶりと噛んで、足元の犬のような生き物の頭を撫でた。