ゲームの始まり〜決行の日
地上でこの物語が始まる、16年前の出来事である。
そこは天にして天でなく、地にして地ではなかった。足元には雲が広がっており、踏みしめると数センチほどへこむが、それ以上は、圧縮された雲が踏み固められた雪のような強度を持って体を支える。
どこからということもなく、ハープのゆったりとした分散和音が鳴り響いており、頭上の雲ひとつない青空−−−−それは、ここが既に雲の上であることから当然なのだが−−−−からは、砂金・砂銀を流したような輝く滝がいくつかの筋をつくって流れ落ちている。それはあたかも天から伸びた光の橋、あるいは綱のようであり、ここを中心としてすべての銀河が、天文学的な時間をかけて生々流転し、最終的にこの星屑の川となって還ってくることを端的に表していた。
雲の大地からそびえ立った雲の頂きの根元、一段上がった台座の上に、一人の少女が座っている。彼女は鼻先のつんとした、聞き分けの悪そうな子供の顔をしていて、雲で拵えた極めて高価で手間のかかる細工の椅子に浅く座り、上体をぐったりと後ろに倒して、首から上だけ起こして台座の下を見下ろしている。一言で言うと、かなり高圧的な座り方である。こうした彼女の姿は見る者の抱く神のイメージによって変化する。例えば、彼女は、今この物語が描いているような少女に見えるのと同時に、他の者にとっては燃え立つ炎、あるいは厳しい男性、光るシルエットにも見える。更に実を言うと、この文章に記した「少女」という文字も、読む者の抱くイメージによって「炎」とか、「男性」とか、「光」に変わる。というのはさすがに嘘である。
真面目に彼女について話そう。彼女こそがヘブライのヤハウェであり、ゾロアスターのアフラ・マズダであり、コーランのアッラーであり、他の言い方をすれば、創造主や、アルファでありオメガと形容される存在である。要するに神である。
彼女はこの千年数百年の退屈に、喉の奥を見せた長い欠伸をひとつすると、玉座に足を組んだまま両手を広げ、眼下に額突いた天使と悪魔達にこう言い渡した。
「さあ、ではゲームだ。千年に一度の、待ちに待った、人間の世界の存亡をかけた、天使と悪魔のゲームだ」
天使も悪魔も喝采する。その声は不思議な運動量を孕んでいて、彼や彼女らの腹や胸から出て、四方に拡散した声は、空気や足元の雲を揺らし、空を押し上げ、天頂から降ってくる銀河の屑の流れを震わせた。
「では、今回の趣向や、いかがいたしましょう」
純白の一枚布の上着をまとった大天使のミカエルが、海のようなブルーに光る髪を星屑の滝に洗わせながら言った。
「かまわん。貴様らで決めい」
彼女の声が響くと、黒い端女服を着た女が一歩前に進んで礼をする。彼女は全身の至るところにぶら下げた聖ペトロの逆十字をからからと揺らし、ロザリオの玉を数えて常に祈りながら、
「では、こうした趣向ではいかがでしょう?」
と玉座の上の彼女に尋ねた。
「よい。いうてみよ」
「はい」
マステマ、あるいはマンセマト、敵意、悪意、憎悪を暗示する名前を頂いたこの悪魔、あるいは堕天使は、雲の大地にひれ伏すと口を開いた。
「これまでと同じ趣向では詰まりませぬ。つまり、天使が、これからこの世に生を受ける人間を一人選び、そのものを悪魔が倒せればこの世界が滅び、倒せなければ世界が生きながらえる、というだけでは、ひねりが足りませぬ。そこでどうでございましょう。こういうのは」
そういうと、マステマは舞踏会のステップのような気軽で力みのない軽い跳躍で、数メートル上にある台座までスカートのレースの裾を躍らせながら弧を描き、玉座の右手に膝をついて、彼女の耳元で何かを囁いた。それを聞くと、眠そうに半分閉じていた彼女の目が開き、彼女は大きく頷くと立ち上がった。
「よし、マステマ。貴様の好きにするがいい!」
彼女はそう言い渡すと、両手を広げて風を受け、重さがなくなったかのように数センチ浮かび上がり、さまざまな光の渦−−−−それは「虹の色」と同じように、見る者の抱く「形容しがたいほどさまざまな光」に対するイメージによって、例えば仮に「七色」と呼ばれるものであり、叙情的な記述を諦めて端的に描くとすると、「もはや人間が認識できない波長も含めた、物理的に存在しうる全ての波長」と形容すべきものだった−−−−に姿を変えて、彼女自身が創り出した世界へと溶けていった。
主の命令を受けた端女服の女は、彼女に代わって壇上に立つと、
「では、始めましょう。悪魔の姉妹たちよ」
と声をあげ、玉座の上で目を瞑り、祈るように胸の前で両手を組む。
彼女の足元の雲は裂け、彼女の体は真っ逆さまに下界に落ちていく。しかし彼女は叫ぶことも恐れることもない。彼女は渡り鳥がそうするように、心地好さそうに両手を広げ、順調に目的地へ向かっている船の甲板から風を感じ、潮の香りを楽しむように目を瞑り、あるいは輝く海面と青空と、その間に浮かぶ白い雲の層を見渡すように目を開け、全てを定められた流れに任せて落ちていく。その体は、まるで真空の中を泳いでいくように、空気の抵抗も受けなければ、寒さにさらされることもなく、ただただ、雲と青空の重なりあった空間を、自由に滑りながら流れていく。体を翻して天上を見上げれば、彼女に続いて、同じ定めを受けた悪魔の姉妹たちが、いくつもの影を落として天上から下界へと降りていく。彼女たちの一人ひとりに、不幸にすべき人間たちが定められていて、一人ひとりに悲しい物語が知らされている。しかしそれは、今は未だ、彼女たちの羽を重くすることはない。
「また、お会いましょう」
マステマはそう言うと、再び目を瞑って、自分の体が宙を流れていくのに身を任せた。
☆
それから、人間が数える時間で、十六年が経った。
場所は日本。ここで生まれ育った者は自嘲的に「小さな島国」と形容することが多いが、二百程度存在するこの世界の「国」の中では六十番目に当たる、そこそこの領土を持った国である。その中心地である東京の中のある街に、幸村圭一という十六歳になる少年がいた。
少年はその朝、いつも七時から七時半までの三十分間、スヌーズを繰り返しながらしつこく彼を苛む携帯の目覚ましよりも早く目を覚ました。すんなり起き上がり、寝癖のついた髪を軽く手で梳かして、壁のカレンダーを確認する。
今日はクリスマスイブの二週間前。待ちに待った、「決行の日」である。
一階に降り、コタツに座って、前日に用意しておいたコッペパンとパック入りのサラダを食べ始めると、ツトツトと階段を降りてくる音がする。建て付けの悪い引き戸がガラガラとガラスを鳴らしながら開き、長い髪をゆるいシュシュで後ろに束ねた、黒ぶちの眼鏡の女の子がもっそりと現れる。彼の妹の渚である。
「あれ、あんちゃん、今日ちょっと早くない?」
「早くはない。遅くもないがな」
「あと、ちょっとキリッとしてる? 床屋に行った?」
「いや。行ってない。今が俺にとってはベストな長さだ」
「はあ、さいですか」
彼女はまだ眠い目を両手でこすると、キッチンに入り、タイマーで炊いておいた米をしゃもじでかき混ぜ、ごはん茶碗に盛ろうとする。そこで、彼女は「あんちゃん」のお茶碗が、まだ自分の碗の横に並んで竹編の椀入れ籠に入っていることに気づく。
「あんちゃん、今日はお米抜きなの? 炭水化物抜きダイエット?」
そう言いながら、彼女は冷蔵庫から納豆を取り出し、ケトルに少し水を入れ、インスタント味噌汁を作るためのお湯を沸かし始める。
「炭水化物抜きダイエット中の奴がコッペパンを食べるか。納豆がまずいんだ。納豆が」
「ん? なんで?」
少年はいくらか言いにくそうに口ごもると言った。
「戒能がな。そんなこと言ってて」
「佐鳥ちゃん先輩が?」
「ふーん」
ケトルの中で、お湯がしゃわしゃわと音を立てる。沸かし過ぎてもガスの無駄なので、この音が聞こえてきたら加熱は止めて、椀に注ぐことにしている。
「ああ、そういえば、昨日、なんか三人で熱心に話してたよね。あんちゃん、今日なんかあるの?」
「ん……」
コッペパンとサラダを食べ終わった少年は、座卓から勢いよく立ち上がる。
「うん。なんか、ある!」
少年は何かを決心するように握り拳を固めてそう答えた。