那月有希
「カレー臭い」
彼女は会うなりそう言った。
遅刻寸前で駆け込んだ電車の座席に、那月有希は今時珍しい紙媒体の小説を広げて、涼しげに座っていた。
「まあ、カレー臭くとも、隣に座ってもらわないことには話せないからね。どうぞ。私の隣になんてなかなか座れるものじゃないから、ありがたく思ってちょうだい」
彼女は縁の厚いメガネを、ハリウッド映画のスパイが潜入直前に装備品をフィット具合を調整するように、人差し指と親指で僅かに押し上げる。
「あなたひょっとして、ラーメンも食べた?」
隣に座るなり彼女は鼻にハンカチーフを当てる。
「そんなに臭うか……?」
幸村は少し体を反らして口を押さえる。若干ショックだった。那月は容姿は良い方だから、余計にだ。
「まあ、確かに私は少し臭いには敏感な方だけど……幸村くんって、見かけによらずに大食いなのね。さすが高校生」
「お前だって、高校生だろ」
「そうね。同じ十六歳ですものね」
彼女は下腹部に手を当てる。その動作の意味がわかるのは、もう少し後になってからだった。
がたんごとん、と時計のように一定のリズムを刻む電車の中で、彼女は提案をした。
「さて、あなたの呼気が臭いという話ばかりしてても何にもならないから、少しは有益な会話をしましょうか」
棘のある、というか、棘しかない言い方だった。
「あなた、鈴鹿実里さんとは、ずっと昔からのお友達だったんですって?」
幸村は、ちくりと脇腹を刺されたような気がした。
「それに……」
それは一番知られたくないことだった。
「ちょっと付き合ってたこともあったとか」
那月は可笑しそうに笑う。
「でも、これって冗談じゃないことだと思うの。私にとっては」
彼女はハンカチーフを口元から離して少し前屈みになり、幸村の顔を斜め下から切り上げるように見据えた。
「だって、これって、あなたにとっては圧倒的なリードじゃない? 私とあなたの間には、数年間に及ぶ、しかも、その中の数ヶ月は彼氏彼女だった時間も含んだ、膨大な情報格差があるってことでしょ? これって本当は、ゲームにならないくらいのリードだと思わない? サッカーでいうと、最初から四点くらい取ってる感じ」
部室のサッカーボールといい、実はサッカーファンなのかと思いながら、幸村は那月の強い視線を押し返そうと睨み返す。しかし、彼女の視線は全くブレない。
「ねえ。少し私とあなたの間の情報格差を埋めるっていうフェアプレー精神を見せてくれてもいいんじゃない?」
「そう言われたって……」
「隠すの?」
「隠すっていうか、何から話したらいいかわかんないんだよ」
「まあ、あなたが話したがらない気持ちもわかるけど……」
那月は目を車窓の外に向けて、しとやかに揃えていた足をぶらりと前に振り出した。そして不意に耳に唇を寄せると、息が鼓膜に届いてノイズを作るほど近くで、
「あの悪魔と、あなたはどんな契約をしたの?」と訊いた。
「な、なんだよ……」
「あの悪魔、いやらしそうだったから、さぞかしいやらしい契約をしたんでしょうね。思春期のオトコノコの欲望を満たすだけの。なあに? 毎日セックスさせてくれるとか? それでゲームに勝ったら、どんなすごいボーナスをくれるの? ゲームに勝つためには、私にヒントを与えちゃいけないわよね」
「なんのことだよ、本当に……」
幸村は耳元で囁く那月の頭を、指先で、いくらか遠慮がちに押しのけた。
「あなた、だってゲームに参加する代わりに、何か願いを叶えてくれるっていう契約をしたんでしょ?」
それでようやく意味がわかる。
「契約……っていうのか。俺のは散々だったよ」
「なに散々って?」
「言いたくないくらい最悪だ。俺から一番大事なものを奪い取ら『ない』代わりに、ゲームに参加しろって……」
「ふうん……何でそんなことになったの?」
那月は足をパタパタと振る。見かけによらず好奇心は旺盛なのかもしれない。
「一応、欲しいものはないかって質問されたんだ。けれど、何にも思い浮かばなくて。それでシャイが俺の頭の中を覗いて決めようとしたんだけど、俺の中に『欲望』みたいなものが見えなかったらしい……それで、欲しいものを与えるんじゃなくて、今あるものを奪わない代わりに、ゲームに参加しろって……」
「なにそれ。ちょー損じゃん?」
「うん……。もっと、生活費とか、家とか、ちゃんと要求するんだったって、今思った」
「生活費? 家?」
「あ、俺ん家、兄妹二人だけで住んでるボロ家だから……」
「へー。なんか複雑そうだけど、結構頑張ってるのね。少し見直しちゃった」
那月は少しの間だけ、天井のエアコンから吹き下ろす風で揺れている吊り広告を見上げてなにか考えると、訊いた。
「ねえ。さっきの、『一番大事なものを奪い取らない代わりに』の『一番大事なもの』って、エッチなもの?」
「なんで今の流れでそうなんだよ……」
「うそうそ。妹さんとかだよね」
「そうだよ……」
「ふうん。イイお兄ちゃんじゃん」
那月は立ち上がる。高校の最寄の駅は次で、列車は減速を始めていた。
「待てよ。お前も教えろよ。お前は何を引き換えに、何のために、このゲームに参加したんだよ?」
「うん?」
那月は「ああ、確かにね」という顔をして言った。
「信じられないと思うけれど、私は何も要求していないわ」
彼女は右手でつり革につかまり「って言ったって、わけわかんないわよね」と言って、左手で下腹部を押さえると、
「ヒント。私は私の勝ちにこだわっているわけじゃないから、ヒントをあげる。私のここはもう空っぽなの。もう私、自分の人生でやるべきことは全部やっちゃったから」
「……なんだそれ。ハラヘッタってこと?」
那月は肩を揺すって笑った。その様子はごく普通の、可愛らしい、ちょっとメガネが厚いだけの女の子だった。
「確かにお腹は空くわね。でも、私は別に衣食住に困ってるわけじゃないし」
電車は高校前の最寄駅につく。二人は同級生らしく一緒に列車を降りる。
「そうそう。さっきの情報格差の話だけどね」
那月は後ろに回した両手で握った革製の学生カバンを、後ろ足で、徒らにポンポンと蹴り上げて言った。
「私ね、さっきちょっと意地悪な訊き方しちゃった。ごめんね」
彼女はズレたメガネを直す。今度はさっきよりは防御的なニュアンのない、自然な動作だった。
「本当にそんなにあなたに有利なゲームだったら、初めから天使側が納得しないと思うの。だから、あなたにはあなたで、あなたが彼女と過ごした二年以上の月日の情報価値を相殺して余りある、何らかのハンディキャップを負っているんじゃないかと思って。例えば、鈴鹿さんを助けたくても助けられない理由とか……」
彼女は人通りの少なく無い、駅の構内の線路を跨ぐ高架の上だというのに悠然と立ち止まって、後ろから続いてくる人並みと挟撃するように幸村の前に立ちはだかり、背伸びをして、グイと彼の目を覗き込んだ。
「ねえ。本当に例えばっていうことなんだけど、もしも幸村くんと鈴鹿さんがトンデモない別れ方をしていて、それがあなたにとって、鈴鹿さんを助けられないハンディキャップになっているとしたら、それって、相当な精神的なダメージだと思うの。そういうのって、それこそ、ベルゼブブが取り憑く格好の憑代になると思わない?」