悪魔とゲーム
お父さんに、何作ってあげるんだ?
帰りの電車の中で、幸村は久しぶりに鈴鹿にメッセージを打った。ケータイの画面にリロードされた直前の会話は、数週間も前のものだった。疎遠になっていた、というわけでもない。等坂や戒能が連絡を取ってくれるし、四人で使っているスレッドもあったので、わざわざ二人っきりでメッセージを使う必要がなかっただけだ。
ふと、何の気なしに、メッセージを上に上にと遡ってみる。リロードされた過去の二人のメッセージが、何か大事な記録のようにずっと続いている。最近のものは、等坂の誕生日プレゼントの相談や、幸村が四人で行く待ち合わせに遅れたときに入っていたメッセージ、それと、たまたま二人で話したときに話題になった映画のオフィシャルサイトのリンクだった。遡れば遡るほど、一つ一つのメッセージは長くなり、会話の密度が上がっていった。去年、クラスが別々だった高校一年生のときのメッセージは、ほぼ毎日入っていて、まるで彼女の日記帳のように、その日、彼女のクラスであったことや、彼女が撮った写真が添付されていた。そうした写真のセンスは、たまによくわからないものもあったけれど、公園に捨てられて錆びたブリキのおもちゃに付いた雨上がりの水滴や、緑のベンチの上に忘れられた赤いマフラー、軒先の洗濯物を留めているちょっと変わった洗濯バサミなど、彼女が見る世界をよく写していた。たまに送られてくるその写真が、幸村はとても好きだったが、それに対して、いちいちコメントを返す必要はなかった。彼と彼女の間では、そういうやり取りはしない約束になっていた。
中学三年生になると、またクラスが一緒になったことや高校受験があったこともあって、やり取りは少し減った。けれども、時折、向かい合って話せない悩み−−−−その中にはもちろん、選択性緘黙症のことも含まれていた−−−−や、学校では口に出せない会話が延々と続くことがあった。時刻は真夜中の二時や三時のものが多く、幸村は、あの頃、毎日昼間にとても眠かった事を思い出した。
そこまで遡って、降車駅に着く。
家までの道すがら、幸村は、一体、自分が今までどれだけの時間を彼女と過ごしただろうと考えてみる。メッセージのやり取りも含めると、彼は、中学二年生の終わりから、高校二年生の始めまで、毎日のように彼女と話しをしていた。
シャイと口論をしたセイレーン・コーヒーと、彼女がバイトしていたコンビニの前を通り過ぎ、告白をした公園を抜けると、幸村の平屋の家が見えてくる。背の高いマンションに囲まれた、小さな家だ。明かりの消えた玄関は、渚がいない寂しさを思い出させた。
「ただいまー……」
小さくそう言って、建て付けの悪い玄関を開ける。引き戸のサッシにガラガラと砂が噛む音と、いつもそれに被せるように聞こえていた「おかえり、にぃーに」の声が聞きたくなる喪失感の後に、
「貴様、正気か!」
と、居間の方でシャイが叫んだ。なんだ、あいつ、また勝手に人の家に上がりこんでたのか、と思っていると、
「正気ですとも。こうなったら、死なば諸共です」
と子供っぽいベルゼブブが言い返すのが聞こえた。口調は穏やかではない。
「考え直セ、今からデモ、遅くナイナイ」
これは……声はよく覚えていないが、明らかに日本語を喋り慣れていないイントネーションからして、全身タトゥー女だと思う。
幸村は、何事だと思って急いで靴を脱ぐと、居間の扉の前に立ち、中の様子を伺った。
「ここで悪魔を召喚したら、いかにオツムが発展途上な貴様であっても、どんなことになるかわかっておるじゃろう? この家だけでなく、街ごと木っ端微塵じゃぞ?」
木っ端微塵、とはますます穏やかでない。
「そんなことは言われなくともわかっています。しかし、ここまで追い詰められたら、そうするしかありません」
揺るぎない決意を感じさせる、力強く、切羽詰まった口調だった。シャイは彼女らしからぬ、いくらか狼狽した様子で説得する。
「待て、冷静になるんじゃ。このゲームには、きっと貴様が思っているより多くの解が眠っている。そう思わんか?」
それをベルゼブブは、はっきりと否定した。
「それはあくまで、あなたの視点から見えているものです。今の私にとっては、ここで全てをリセットしてしまうことが最適解なのだということくらい、わかっているでしょう? あなたは優秀なネコでしたが、ネズミを追い詰め過ぎてしまったんです。やり過ぎたネコは、ネズミに噛まれて感染症で死んでしまうということを、思い知らせてあげますよ」
それは、例えば、核弾頭の発射ボタンを押すように、決定的なセリフに聞こえた。
「やめろ、やめるんじゃー!」
シャイが悲鳴をあげ、幸村は慌てて扉を開けた。
「俺からも頼む、やめてくれ!」
そう叫んだ彼の目の映ったのは、仲良くコタツに入った三人の姿だった。
「おう。お帰りユッキッキ。遅かったのう」
モールの付いたダウンジャケットを羽織ってコタツにぬくぬくと手足を入れて、シャイは言った。
「お帰りなさいユッキッキさん。すみません。お邪魔しております」
ツインテールを揺らして頭をさげるベルゼブブは、渚のピンク地に猫柄のとんぷくを借りている。
「おかエリ。おか、エリ。ユッキッキ、ユッキッキ」
片言で喋る全身タトゥー女は、露出度の高い格好をもろともせず、肩出しのエナメルのボンデージのまま、足だけコタツに突っ込んで、甘皮まで丁寧に剥いたミカンを半分に割って、ベルゼブブとシャイにサーブしている。
チャーン チャカ チャン チャンチャーンというファミコン調のBGMが、軽快と言うよりはチープに流れている。
テレビの画面には、迷路のようにうねった道の上に、ベルゼブブと同じツインテールの女の子が立っていて、画面の下には「『悪魔のカード』を使いますか?」「はい」「いいえ」と言う選択肢が出ている。
幸村はがっくりと床に膝を突いた。
「悪魔を召喚するとか、家とか街が吹っ飛ぶって、人生ゲームの話だったのかよ……」
「ん? 当たり前じゃろ? すまんな。テレビ台の中にゲーム機と一緒にソフトが入っておったから、勝手に開封して遊んでおったよ」
「そうか……いや、ならいいんだ……」
それは一週間ほど前に渚が「年末年始と言ったら、人生ゲームで徹夜で人生悟るしかないよね!」と言って、中古で買ってきたものだった。勉強に集中したいからと、冬休みまでは開封もしない約束だったが、そんなことは些細な問題だった。
ベルゼブブは「では、ユッキッキさんもお帰りになった事ですし……」とハードウェアに手を伸ばし、リセットボタンを押した。
「貴様!」
シャイがコタツの天板を叩いて激昂する。激昂はしているが、寒いのでコタツからは出ないし、おいしいミカンがおしいので、ちゃぶ台返しはしない。平和なものである。
「返せ、ワシの三時間を返せっ!」
「百四十億年近く生きている悪魔が、三時間くらいでシノゴノ言わないでください……第一、私があそこで悪魔のカードを使っていたら、全プレーヤーの全財産が木っ端微塵に吹き飛んでリセットと同じだったんですから……」
「確かに……」
琥珀色の目に少し涙を浮かべながら、シャイは意外に素直に納得した。
「そしたら、ユッキッキも一緒にやってくれるかのう?」
彼女は琥珀色の瞳を潤ませて尋ねる。
「いいけど、さっきから気になってはいたんだが、人を某サル顔芸人とか、スポーツ万能なグリーンモンスターと血染めな上に頭上に冷却装置をつけたイエティーがメインキャスターを務めるレジェンダリーな子供向け番組みたいなあだ名で呼ぶのはやめてくれないか」
「なんじゃい、せっかくベルっちと二人で考えたのに」
「結構イケてると思ったんですけどね」
シャイも、ベルっちと呼ばれたベルゼブブも、腕を組んでうーんと唸る。
「そしたらやっぱり、ベタ過ぎますが、ユッキーとかですかね?」
「いや。それは今朝試して不評だったんじゃ。恥ずいとかなんとかで」
「そうなんですか? 見かけによらず、ナイーヴなんですね」
とりあえず寒いので、幸村ももそもそとコタツに入る。全身タトゥー女が「食え、クエ」と言って、きれいに剥いたミカンを、四葉のクローバー状に開いた皮の上に乗せて渡してくれた。耳、鼻、舌、ヘソといたることろにピアスを開けまくったりしている粗暴そうな外見のわりに、意外と器用である。幸村は「あ、ども」と言って、それを一口食べると、
「っていうか、シャイとベルゼブブって、実は仲良いのか?」
と尋ねる。シャイは、なんだ、今更そんなことを訊くのか、と言う顔をして、「当たり前じゃろ。もともと悪魔や天使というのはみーんな神が作った兄弟姉妹じゃ。こいつはワシの妹みたいなもんじゃ」と言った。
「お前、その妹を昼間、拷問っていうか強姦しようとしてたよな?」
「まあ、そういうのはワシの趣味じゃから」
「趣味で人を犯さないでいただけますか……」
ベルゼブブは再起動したゲームの画面を進め、自分のアバターを作り始める。
「そうじゃ、ムラムラ」
「人を年中発情期の猿みたいなあだ名で呼ぶな」
「だいたい合っとるじゃろ」
「合ってない! 俺はいたって紳士だ!」
「変態という名のな! あっはっはっはっは!」
元ネタはよくわからなかったが、シャイは豪快に高笑いした。
「と、話を本題に移すとじゃな」
シャイはひとしきり笑うと、時代劇の殿様のように言った。
「ワシは腹が減ったぞ」
「あ。わたしもお腹が空いていますよ?」
「お、オレも、空いタ。すイタ」
「えー……」
弱った幸村の肩をシャイがトンと叩く。
「案ずるな。なんたる偶然か、カレーの具材を四人前用意してある。ご飯も今炊いておる所じゃ」
「お前、絶対、最初から俺に作らせるつもりだっただろ」
「えー、なにー、超絶そんなことないよー、ダーリン」(超絶棒読み)
「わたし、幸村さんが作ってくれたカレー、食べたいですー」(同前)
「作れ、つクレ」(同前)
「お前ら、絶対、示し合わせてるよな、そうだよな? てか、たまたま四人前のカレーの材料とかあるわけないだろ。三人で買いに行ったんだよな、三人で行って、四人前買ってきたんだよな、だよな、だよな?」
三人とも、ひゅーひゅーと口笛を吹く。誰一人きれいに吹けてない。
「ごちゃごちゃ言っとらんでさっさと作れ、抜け作が」
面倒になったシャイが、ドスの効いた声で言った。
「わ、わかったよ……」
「ゲームはワシが一人二役で適当に進めといてやる」
「うん……」
コタツを出て、台所に行くと、キッチン机の上に人参、玉ねぎ、それに、シャイの好きそうな激辛のカレールーの入った袋が置いてある。冷蔵庫を開けると、牛肉のパックと、らっきょと福神漬け、それとご丁寧に、隠し味に使うりんごジュースが入っていた。
「これ……煮込むにしては、ずいぶん高級な牛肉だな……」
取り出したブロック肉は和牛で、グラム九百八十円、二パック三千円だった。
「いいんじゃよ。ワシのポケットマネーじゃ」
「お前、いいのかよ。コンビニでバイトしてたくらいだから、金ないんじゃないのか?」
「何を言っとる。あれは世をしのぶ仮の姿。実際は、ああやって日々、ターゲットである貴様を誘惑していただけのことじゃ。そして貴様は見事にネズミ捕りに引っかかったというわけじゃ」彼女は得意気に言った。
「よし出来ました」と、ベルゼブブが自分そっくりのツインテールのアバターを作り終え、シャイに代わる。
「それに、ワシは、この国のコンビニ弁当とスイーツアンドスナックが大好きなのじゃ。特に、季節限定物は外せない」
アバターの名前は「シャイ」、ビジュアルも本人と同じ、ややストリート系をセレクトする。
「そういえば、マステマさんにも、『どうせゲームをするなら日本にしてくれ』ってネゴってましたよね」
ベルゼブブがミカンを食べながら口を挟む。「ああ。それでバーターで肩もみとか、会議の手伝いとかさせられたのう」
「あの……質問いいかな」
幸村は、包丁を握った手で、いくらか申し訳なさそうに挙手をする。
「良い。許可しよう」
「その、たまーにシャイ達の話に出てくるマステマさんって、誰?」
一瞬、シャイもベルゼブブも「え」という顔をする。
「貴様、そんなことも知らんのか? よくそれで高校に入れたな? 一体全体、聖書とか神学の点数は何点じゃったのじゃ?」
アバター設定の手を止めた彼女は本気だった。
「本当です……信じられません」
ベルゼブブも言葉を失っていた。その横でタトゥー女は、ミカンの甘皮をかさかさと集めてゴミ箱に捨てている。幸村は断固として言った。
「何をどう勘違いしているのかわからないが、現代日本の高校受験の科目には、聖書も神学もない」
二人は姉妹のように声を合わせて叫んだ。
「えー! カルチャーショーック!」
そして「え、なんで、まじか?」「いや、やっぱりこの国は特殊なのでは?」とこそこそと相談した後、シャイはビシッと幸村を指差して言った。
「わかった! 貴様ら日本人はあれだ、仏教とか、神道を代わりに習っておるのじゃな?」
「んなわけないだろ。特定の宗教なんて学校で教えようもんなら、いろんな団体が怒り狂う」
「マジか……Oh, my gosh…」
幸村は、外人が実際にOMGと口にするのを生まれて初めて聞いた。
「貴様ら、それでは日々何に基づいて生きているのだ? 人はパンのみに生きるにあらず、というではないか?」
ベルゼブブが隣でコクコクと頷いて賛意を示す。
「また訳のわからないことを……」
幸村はその間にも、トントンと包丁を動かし、人参、じゃがいも、玉ねぎの仕込みを進める。
「パンってのは、要するに飯のことか? 『飯のために生きるにあらず』とか言われたって、お前がバカにする現代日本って場所では、みんな今日も明日も明後日も、家族みんなが飯を食うために、必死になってあくせく働いてるんだぜ」
そう言いながら換気扇のスイッチを入れ、まな板から顔を離して、玉ねぎをみじん切りにする。シャイはぺったりとコタツに突っ伏した。
「わからん……では、貴様ら日本人は、何のために、何に従って生きているのだ?なんらの信仰もなしに、ただ闇雲に、飯を食うためだけに働いて、なぜそれで生き続けていられるのだ?」
幸村は面倒そうに口を尖らせると、みじん切りの玉ねぎを、鍋を兼ねた底の深いフライパンではなく、電子レンジに投入した。こうすることで、三十分くらいかかる飴色玉葱が、正味十分足らずでできるのである。
「なんだよ。なんの宗教もなしに、ただ家族の幸せのために働くのが間違ってるっていうのか」
「そういうわけではないが……」
幸村の口調は、彼には珍しく、いくらか怒っているように聞こえた。ケトルにおすううと湯を注ぎ、コンロの火にかけながら彼は言った。
「この国に何かみんなが信じてるっていうか、願ってるみたいなものがあるとすれば、多分、家族とか、友達とか、自分をこの世界にいさせて(、、、)くれる人達と、ずっと一緒に幸せにいたいっていう、そう言うことなんじゃないかって思う。だから俺は等坂も戒能も鈴鹿も大事にしたいし、渚とこの先もずっと一緒に暮らせるように、勉強もするし家事もする。こういう気持ちって、お前がバカにしたニッポンのお父さん、お母さんが、たぶん、心の底では共有してる価値観だと思う。みんな嫌なこととか悲しいこととか、いっぱいあると思うけれど、明日も明後日も家族が飯を食えるように頑張ってる。それを簡単に否定しないでくれ」
電子レンジがチンと鳴り、彼はそれを満を持して、熱しておいた深底のフライパンに投入する。
「それに、そういう気持ちって、世界中でそんなに変わんないじゃないのか。俺は宗教には詳しくないけど、宗教の決まりとかを守った結果、家族や友達と幸せでいられなくなる宗教なんて、嘘なんじゃないかって思う」
幸村は居間に背中を向けたまま鼻を啜り、フライパンの玉ねぎが焦げ付かないよう、ゆっくりと大事そうに混ぜた。
「ふん。今日のところは、黙っといてやるわい」
シャイは捨て台詞のようにそう言って、幸村のアバターを作り始める。
「なんだよ。否定しないのかよ」
「無神論者に何を言っても大概無駄だということはよくわかっておる。それに、ワシは神に背くもの、悪魔じゃぞ? 神に疑問を抱くのはウェルカムじゃ」
「そうだったな」
髪型や輪郭、服装を選ぶピコピコという電子音が聞こえる。シャイは「これか……いや、ちょっと違うな……」と試行錯誤を繰り返しながら、時間をかけて幸村を造形していく。彼はたまに玉ねぎを混ぜ、火加減を調整しながら、彼女が思いの外真剣な眼差しで自分そっくりのアバターを作っていくのを、不思議な気分で見ていた。
適当に火を弱めて、彼女たちに合流することはできたのだけれど、彼はそういう手抜きが、おまじないや魔法のように、不思議と料理を不味くすることを知っていた。だから彼は、静かに玉ねぎをかき混ぜながら言った。
「で、なんの話だっけ。ああ、そうそう。シャイの話に出てくる、シャイの友達が誰なんだ、っていう話だったな」
「友達か」
シャイは高校の制服を着た、(彼女としては)幸村そっくりのアバターを満足そうに見て、小声で「よし。上出来じゃな」と言う。それに対してベルゼブブが「ちょっと、ハンサム過ぎません? あと、足長くないですか?」と突っ込むと「いいんじゃこれで!」と彼女の脇を小突いた。
彼女は咳払いを一つする。
「話の途中じゃったな。マステマは、友達というよりは同僚かのう。奴は神に最も忠実な悪魔じゃ。やつの仕事は、善良な人間の、その良心を試すこと。それが神の望みじゃから。今回のゲームも、奴が考えたものじゃ。なのでワシも、他の悪魔たちも、すまんが、このゲームの筋書きはよく知らんのじゃ」
玉ねぎが飴色に変わり、香ばしいかおりを漂わせ始める。そこに、カレーに入れるのはちょっと躊躇われるくらいの、角切り肉と言うよりは高級サイコロステーキのような霜降り肉三百グラムを豪快に投入する。
「なんか、悪魔って言っても、いろいろいるんだな。会社で一人一人仕事が違うみたいなもんか」
「おお。言い得て妙じゃな」
牛肉の表面に、軽く焦げ目が付くくらいまで炒める。肉から染み出てきた牛の油の匂いと、溶けた玉ねぎの香りが宙で絡まる。
「そろそろかな……」
玉ねぎ以外の野菜も投入する。油が野菜の水気を弾く音が台所を満たす。ガスコンロの五徳とフライパンをすり合わせながら、大きくフライパンを振る。野菜と肉が三十センチほど宙を舞い、香ばしいかおり撒き散らして、加熱されたフライパンに戻っていく。シャイはコントローラーをいじる手を止めて鼻翼を広げ、野菜と肉の焼ける匂いを楽しんだ。
「いい感じじゃな。あとは茹でて、ルーを入れるだけかえ?」
「あたり。お湯入れちゃうから、ちょっと待っててくれ」
幸村はケトルで火にかけていたお湯を深底のプライパンに注ぎ、巻き上がる湯気の中でキッチンタイマーを十五分にセットする。
「お待たせ」
彼はコタツに戻ってくる。
「まあ、別に待ってはおらんかったがな」
タトゥー女はシンプルに、タンクトップの浅黒い女性のアバターを選んでいた。確かに、彼女の奇抜すぎる外見をアバターで再現することは不可能だろう。
そして名前の欄には「フルフル」と書いてあった。
「え、まさか、こいつって、犬の……」
「あれ、言っておらんかったっけ?」
シャイはフルフルの肩をぽんと叩く。
「飼い犬、っていうか、飼い悪魔のフルフルじゃ。以後お見知りおきを」
「お、お見知り……ヨロ」
「もっと早く言え!」
幸村が怒鳴って、ゲームは始まる。
ゲームは天界から降りてきた天使と悪魔が、赤ん坊の入った揺りかごに語りかけるところからスタートする。
『やあ、この世へようこそ! 人生はサイコロの目で決まるゲームのようなものだよ。楽しくても嬉しくても、辛くても悲しくても、俺たちが見守っているから、メゲずに、ダレずに、頑張るんだぜ!』
二人分の声優の声が入った冒頭は、説教くさいセリフの割に妙に明るい。
四人のプレーヤーが一列に並び、ゲームがスタートする。最初にサイコロを振るのはベルゼブブだ。天使と悪魔が手を取り合いながら螺旋を描いて降りてきて、「グッドラーック!」と掛け声をかける。彼女はコントローラーを膝に置いてお祈りをしてから、えいやっとボタンを押した。
「こういうゲームってさ。結構、悪魔と天使が仲よかったりするよな」
「おおっ。いいところに目をつけましたね」
出た目は六だった。ベルゼブブのアバターは六コマ進んで、お日様のマークの上でストップする。
「いや、なんかさ。お前らを見てると、あんまり悪魔っていう感じもしないんだよな……グレイスみたいに完全に清廉潔白っていうわけでもないんだけど、なんか、ベルゼブブとかは、悪い子には見えないし……」
「えへへ……ありがとうございます。改めて言われると照れますね」
画面がイベントらしい場面に転換する。家族で公園にピクニックに行って、鳩に攻撃されるが、ベビーカーの中からビシビシと反撃に転じてボクサーの才能の片鱗が現れる。体力プラス二。
「何度見ても、脈絡のないゲームじゃな……」
シャイが苦言を呈す。
「脈絡のないのが人生、という示唆なのかもしれませんねぇ」
シャイが降ったサイコロの目は、進んだ気が全くしない一だ。しかも、開始早々に、お腹を壊して体力が下がる。
「まあ、でもその、天使と悪魔が実は仲良しっていう幸村さんの直感は当たってると思いますよ」
ベルゼブブが話を続ける。
「悪魔というのは因果なものでして、もともとは神様に作られた天使なのです。そして、私たちの力は、作られた時に神様から受けた恩寵、愛、力で決まります。私たちは神様から離れてしまいましたが、今この瞬間も、神様の愛に包まれているのです。そういう意味では、天使と根は同じですし、今この瞬間も神を経由して繋がっているのですよ」
フルフルはさくさくとサイコロを振る。
「よくわからない。なんで天使に生まれたのに、悪魔になったりするんだ?」
サイコロの目は六。ベルゼブブと並ぶ。イベントはさっきとは違って、近所の子と遊ぶ、と言うものだった。集中してみてはいなかったが、また体力が少し上がる。コントローラーは幸村に回ってくる。
「そうじゃなあ、天使が悪魔になる理由や物語はいくらでもある。一例を上げるとすると……一番有名な堕天は、ルシファーの堕天かのう?」
サイコロの目は四。道具屋で止まるが、所持金がないので、無駄に有効そうなアイテムが並んでいるものの、買える気配もない。次はベルゼブブの番だ。
「ルシファー。奴は、神によって最初に創られた、後にも先にも最強の天使じゃった。奴が何を考えてそうしたのか、真意はわからんが、それがあるとき、天界の天使の三分の一を引き連れて神に反乱を起こしたのじゃ。もちろん、結果はやつの惨敗じゃった。奴は天界を追われ、今日、悪魔と呼ばれる一連の堕天使の集団の創始者となった」
サイコロの目は三。ドクロのマーク。父親が体調を崩して入院。家計の収入が減って、所持金が半減してしまう。ベルゼブブは、「そもそも赤ん坊の所持金が一千万円というところから訳がわからないんですが、ピンチだからといってそれに手をつける親ってどうなんですか?」と突っ込んだあと、シャイにコントローラーを渡した。それを受け取ったシャイは、また思い出したように話す。
「ワシはな。ルシファーは神を誰よりも愛していたからこそ、神に背いたのではないかと思うのじゃ」
シャイはサイコロを振って、コントローラーをフルフルに渡すと、後ろに手を突き、背中を半月のように反らせる。見上げた先に見えるのは、丸い蛍光灯の付いた、古びた和風の吊り下げ照明だ。
「神がアダムとイブを創ったのは知っておろう? 神は他の誰よりも、その二人を愛したのじゃ。そしてあろうことか、ワシらに対して『アダムに使えろ』とすら言った。ワシらに対して『私だけに使えよ』と言った、その舌でな」
鍋がグツグツと沸騰する音が聞こえる。フルフルはサイコロを振る。
「それは、ワシらにしてみれば裏切りそのものじゃった。最愛の人が、その人に使える為に創られ、その人に使えることに喜びを感じるワシらに、その人自身ではなく、その人が創った、土塊の人形に使えよと言う。それが理解できなかった天使は少なくはなかったのじゃ」
シャイは寝そべって、背中をぺったりと、冷たい擦り切れた畳に預ける。フルフルのサイコロの目は五。掴まり立ちができるようになって、体力が二上がる。
「最愛の人か……なんか、恋愛相談を聞いてるみたいな気分になるな」
「下等な人間ごときの色恋沙汰と一緒にするな! ……と、言いたいところじゃが、本質的には、同じようなことなのかもしれんな」
シャイはちょっと首を起こしてテレビを見ると、サイコロを振った幸村がドクロマークに止まるのを見て、意地悪そうに笑った。
カレーは美味しかった。レンジでチンすることによって作成時間を大幅に短縮した飴色玉ねぎ(飴色玉ねぎをプライパンによる加熱だけで作ろうとすると、通常は三十分程度は持って行かれる)や、ややカレーが水っぽくはなるが、簡単にまろみを加えることのできるリンゴジュース−−−−彼はシャイが、リンゴのすりおろしの代わりにすりおろしリンゴ「ジュース」を買ってきたことに驚いた−−−−、それにもちろん、グラム千円する贅沢な角切り牛肉のおかげで、専門店のような深みのある味わいに仕上がった。そしてなにより、ベルゼブブの言葉を借りるなら、「超絶」辛かった。
「うひゃー! やっぱこれじゃのう!」
シャイはどこに隠していたのか、缶ビールをプシュッとして、大量の福神漬けを混ぜたカレーを流し込んだ。お前、高校生だろ? と幸村が咎めると、いやいや。ちゃんと登録上は二十歳にしてあるから問題ない。高校の世間的評価に関わるのが心配なら、ちゃんとバイト先のコンビニで買っているからそれも心配無用だ、と反論した。
「ゆ、幸村さん……リンゴジュース、まだありますよね……」
ベルゼブブは辛すぎてうまく動かないらしい舌で、口を開いて中を冷却しながらそう言った。幸村がリンゴジュースにヨーグルトを混ぜた物を作って出してやると、彼女は「ああ……あなたはきっと聖母マリアの化身です……」と涙を流した。
フルフルは「うま、うまい、うマイ、マイ、う……」と、本当に味がわかっているのか、それともシャイの言葉を真似しているのかよく分からない言葉を繰り返しながらもぐもぐと食べていた。
そして三人は寝静まる。酔っ払ったシャイはベルゼブブを抱き枕に、小犬モードのフルフルを湯たんぽにして、渚の部屋のベットで寝ている。
幸村は窓の外に見える暗い東京の夜空を見上げていた。月の綺麗な夜だった。そういえば、病室からは夜景がとても綺麗に見えていたな、と思い出す。そして、連想ゲームのように鈴鹿のことを思い出した。
昔のこと過ぎて思い出せないことというのは沢山ある。小学校からの友達がいるとして、転校生は除外するという前提のもと、その子と初めてあった日のことや、第一印象を思い出せる人は稀だろう。彼にとって、鈴鹿はそういう友達だった。
そして、彼の見てきた彼女は、大きく三つの彼女に分かれる、と彼は思っていた。
一人目の彼女は、小学五年生のときに母親が亡くなる前の彼女。二人目は中学に入り、言葉を亡くした彼女。三人目は中学二年生の修学旅行以降の彼女。
自分が好きになったのは、いったいどの彼女だったのだろう、と考えてみる。一人目の彼女は、確かにいい子だった。けれど、顔もよく思い出せない。だぶん、ごくごく普通の、クラスが一緒だったり、同じ地区に住んでいるというだけで一緒に遊ぶ友達だったのだろう。彼は認めたくなかったが、彼が好きになったのは、病んだ二人目の彼女だということを、彼はどうしても否定できなかった。
彼の連想は、死者が蘇りそうな煌々とした月明かりの下で、夢の世界に片足を突っ込みながら続く。病んだ二人目の彼女から彼が連想したのは、彼の母親だった。彼はそれを思い出したくなくて、戒能たちと食べたどぶろくラーメンの味を思い出し、「あ、今日晩飯二回食ったな……」と独り言を言った。