アプローチ
その午後である。
『ベルゼブブ、別名、蝿の王……本当はバアル=ゼブルっていう異教の豊穣の神様だったんだけど、ライバルだったユダヤ教側が、それを貶めるために語呂合わせで、蝿の王っていう意味のバアル=ゼブブに音を変えて伝承したんだ』
『ふうん……随分えげつないことするのね』
数学の授業中、那月有希は、肩に留まった神の恩寵と話しをしていた。声を出す通常の会話ではなく、思念による会話である。人間にとって思念話を使いこなすのはなかなか難しく、頭の中で考えていることが全て思念話に乗ってしまったりするのだが、彼女は初日でこれをほとんど完璧に使いこなしていた。
『まあ、えげつないって言っても、槍と鉄砲もって襲いかかるよりはいいかしら? 十字軍みたいに』
グレイスは苦笑いする。
『十字軍といえば、ベルゼブブは確かに「暴食」をシンボルとする悪魔なんだけど、実際の悪事は、王様をそそのかして戦争をさせたり、聖職者を堕落させたりするような、一見して食欲とは関係無いことばっかりなんだ』
那月は少し考えて『関係ないって、本当にそうかしら』と言葉を始めた。
『私、食欲と、何かを渇望する欲求って、根っこでは同じなんじゃないかなってう気がするの。もっとご飯が欲しい、富が欲しい、財が欲しい。支配欲とか、色欲とかも多分そう。ほら、お腹いっぱいだと、あんまり人ってガツガツしなくなるじゃない? 欲しいものにすぐに飛びつくことを、「がっつく」って、食べるみたいに言うし』
『それは慧眼かもしれないね』
那月は教室の前の方を見る。ベルゼブブに憑かれているという少女、鈴鹿実里は、少し疲れたような様子で真面目に授業を受けている。普通科の鈴鹿と国際科の那月は、本来ならば別々の授業なのだが、国立難関校向けの主要三教科は、サテライト式の合同授業になっている。その授業を聞くともなしに聞き流しながら、那月は話を続ける。
『七つの大罪をモティーフにした昔の映画では、そのものズバリ、びっくりするほど太った大食漢の男が「暴食」の罪で殺されてたけど……』
そして彼女は、霧の中を見通すように目を細める。鈴鹿の小さくて細い肩は、彼女が知る「暴食」のイメージには程遠く見える。それを見ながら、那月は想像を膨らませてみる。ひょっとすると、これから数週間とか、数ヶ月のうちに少しずつ、その少女の、クリーニング店からブラウスを返されるときについてくる、針金を加工しただけのハンガーのような薄っぺらい体に余分な肉がついていって、「暴食」に相応しい体型に膨れ上がるのだろうか。そうだとしても、ベルゼブブが少し前から取り憑いていたにしては、体重の増え方はさほど顕著ではない。むしろ、痩せてしまっているようにも見える。天使と悪魔のゲームというのがどれだけのタイムスパンで展開されるのかは知らないが、そんなに悠長なゲームなのだろうか。そこで、聡明な彼女は、少し違った面から物事を捉えてみようと試みる。
『ねえグレイス。ベルゼブブの悪事と一緒で、今回のって、「暴食」って言っても、単なる食欲じゃなくて、何かもっと根源的な現象が起きてるんじゃないのかしら。何か別のものへの渇望が、彼女を滅ぼそうとしているんじゃないのかしら』
『かもしれないね……けれど……』
『一体それがなんなのか、断じるに足る情報が全くないのがネックね』
教室の前の壁一面を覆った接触型説明用大型電影板の中から、男性教員が「この問題を、モニターの出席番号の生徒さん、解いてください」と言う。問題は二問。画面には、各学校のクラスの状況に合わせて、セレクトされたナンバーが表示される。
出席番号十二番の鈴鹿実里と、三十番の那月有希である。
『この問題だと、彼女、解けないわね』
問題文をざっと流し見しただけで、彼女はそう言う。
『難しいの?』
『自慢したくはないんだけど、私にとってはそうでもないわ……けれど、彼女は多分数学苦手だから』
那月はパソコンに、カタカタと回答の式を打ち込んでいく。それは数列の問題であり、該当する教科書のチャプターが終了したあとの、過去の大学入試問題を基にした問題集の最終ページの問題だった。一見してランダムに見える数字の羅列から数列を導き出して、百個目の項を答えろ、というもので、レベルの項目には「最難関大学」と表示されている。那月は別段予習も何もしてきていないのだが、ブラックボードに掲示された問題を見ながら、等比数列の式をさらさらと定立していく。一方、鈴鹿は、頑張って解いてきたらしいタブレットのノートを見ながら入力していくが、時間がかかっている。
「あれ……」
そういう独り言が聞こえて来る。おそらく、入力していて、おかしいところに気づいたのだろう。
『仕方ないわね』
那月はチャットの画面を開くと、テキストを打ち始める。ものの一分ほどで彼女は数式が並んだメッセージを書き上げ、送信ボタンを押した。
鈴鹿のパソコンからピロリン、という音が聞こえ、画面を確認した鈴鹿が振り返る。
那月は追加で、「これをコピペして使って」というメッセージを送った。
猫のアイコンの鈴鹿から、「ありがとう!」というメッセージが返ってくる。猫がくすんと泣いているステッカーと一緒に、である。
『有希って、見かけとか口調のわりに、優しいんだね』
肩の上のグレイスが感心したように言った。
『何言ってるの?』
那月は不機嫌そうに言った。
『ああやってモタモタされると、授業が止まっちゃうじゃない。それに……』
そして彼女は、悪魔よりも悪魔的な微笑みを浮かべてこういった。
『今、恩を売っておくと、後々いいことがあると思わない?』
「那月さん、ありがとう……」
授業が終わると、案の定、鈴鹿は那月のところにやってきた。声が少し枯れているように聞こえる。
『ほら、ね?』
那月は思念でグレイスに言う。
「宿題でもよくわからなかった一番難しいのが当たるから、泣きそうになっちゃった」
気持ちはわかったが、鈴鹿が解いた問題は、公式の使い分けさえ知っていれば簡単に解けるものだった。同じ「最難関校レベル」の問題であっても、那月の解いた問題のほうがよほど難しい。
那月は「何のことだろう」と少しとぼけてから、
「あ、授業中の問題のことね。ごめんね? おせっかいじゃなかったかな?」
と、いたってノーマルに受け答える。
「そんなことないよ!」
鈴鹿は疲れた顔に、無理やり表情を作って笑う。
「鈴鹿さん、鈴鹿実里さんだったよね。数学頑張ってるの? 鈴鹿さんって、文系だったと思ってたけど」
「うん。文系は文系なんだけれど、お父さんからは、大学は家から通える国公立だったらいいよって言われてて、だから数学必須なんだ」
「そうなんだ。じゃあ、頑張らないとね」
柔らかい調子で言葉を受けて、そして、那月は仕掛けた。
「ねえ、鈴鹿さん。ひょっとして、数学あんまり得意じゃない?」
「あ、やっぱりわかっちゃったかな……?」
鈴鹿はボブのショートヘアの先をてれてれと摘んだ。
「でも、国語はすごい得意だよね? 私は国語が苦手だから、羨ましい」
「そんなことないよ。那月さん、前の試験で成績優秀者だったじゃない。あ、でも那月さん、帰国子女だもんね。漢字とか大変なのかな」
「そうそう。もう、この前も『は困った様子で』っていう文章を、『は固った様子で』だと思っちゃって、意味がわからなくて、ずっと教科書とにらめっこしてたの!」
「うそ! それ、本当に大変だね!」
『すごいありえそうな嘘だね……』
グレイスは呆れ半分、感心半分でいう。実際、彼女は大江健三郎の嫌がらせのような文章だって、スラスラ読めるのである。
そうした「日本語は難しい」ネタでひととり盛り上がったあと、
「ねえ、鈴鹿さん」
那月は、狙い澄ましたようにこう切り出した。
「今度、数学と国語、教えっこの勉強会しない?」