馴染みある曲
「ピアノ、ですか?」
「うん、君のピアノ好きだし。だめ?」
「そんなことは! 弾きます、ピアノ」
そう言うとシンさんはにっこり笑った。珍しい笑顔に不覚にもドキッとしてしまう。あと、顔も熱くなっているような……
「どうしたの? 顔、赤いよ」
そう言って、彼は私の顔を覗きこむ。それはもう、いじわるそうな顔で。ここで動揺すれば間違いなくからかわれると、冷静に判断できた。
「そんなことありませんよ。それより、楽譜ってどの曲ですか?」
話題を切り替える作戦は効果抜群で、一気にその話題になる。助かった。
「僕の部屋に来て。楽譜渡すから」
言われて、彼のあとをついていく。そして渡されたのは、スローテンポの楽譜だった。
「僕の好きなバラード曲。バラードはピアノで弾くのがいいから」
渡された楽譜に目を通していく。ゆったりとしたテンポの曲。初めてみる楽譜のはずなのに曲が頭のなかに流れてくる。知っている曲のような気がしてならなかった。
「どうしたの? 弾けそうにないとか」
「いえ、聴いたことある曲のような気がして」
すると、シンさんは驚いているような、不思議そうな顔をした。
「僕以外、この曲知らないはずだけど」
「どうしてですか?」
シンさん以外は知らない曲、それなのに曲が分かる。この曲には歌詞も入っているはず。なぜだろう、もちろん分からないけど。
「この曲、僕の好きな作曲家の人が僕のために書いてくれた曲だから」
「この曲、歌詞も入っていませんか?」
そう言うと、さらに驚いた顔をする。それはそうだ。自分のためにかかれた曲を他人が知っているなんてこと、ふつうはない。でも、知っているのは確かだった。どこで知ったかなんて私にも分からない。
「歌詞、入ってるよ。僕が入れたから。でも、どうしてその事を?」
「私にも分からなくて、どんな歌詞かは覚えていませんけど、確かに知っている曲で……」
私たちはお互いに黙りこむ。一気に重たい空気になる。空気を変えたいのに、言葉が出てこない。
「歌ってみる? 似ている曲なだけかもしれないし」
そう言ってシンさんは歌い始めた。曲と歌詞を注意深く聴いていく。聴いていくうちに音楽にのみ込まれていた。
「好きだと言ったあの日から、忘れられなくて……」
そして、歌い終わり、我に返る。
「歌詞、知ってるの?」
「え、私、歌っていましたか?」
うん、と彼はうなずく。気がつかなかった。いつの間にか私は歌っていたみたいだ。でも、一緒に歌っていたってことは曲を知っているってことだ。気のせいとかじゃなく、確実に。
「もういいや。なんか、歌ったらどうでもよくなったかも。知ってるなら早いし、この曲弾いてね」
「はい。今、すぐに弾けるような気がします」
「じゃあ、今聴かせて。すぐに聴きたいから」
そう言って私たちはピアノのある部屋に向かった。楽譜をセットしてピアノに向かう。そして、ゆっくりと弾き始める。知っている曲だから表現がちゃんとできた。シンさんは気持ち良さそうに聴いてくれていた。こうやって聴いてもらえると弾きがいがある。初めてピアノを弾いていて楽しいと思える、そんな世界だった。




