再び軋む世界 ※営業に支障が出るので早めに解決しましょう
開店したと言ってもここは隠れ家的喫茶店、店内は数組のお客がいるだけで基本的に開きスペースが多い。黒野は開店と同時に辺りを見回し、お客らしき人がいないのを確認して新聞を読み始める。少女やソニアも特にやる事がないのを悟って、椅子に座って談笑を始める。コレでいいのか、黒野刻継よ
駅から20分と微妙に遠く、交通の便も微妙に悪い。元々2本あった主な道のうちの一本が新しく舗装され、そちらのほうが色々な道に通じているためそちらを使う人が多いのだ。もう一本の取り残された道は物好きやツーリングをするバイク乗り位しか使わないほど閑散としている。ゆえに隠れ家的になってしまっているのだ
だが出される料理はどれもかなり旨い。店の裏にある本場の釜で焼くピッツァ、店主黒野が早朝より仕込みをし、丁寧に焼き上げた自家製パンを使ったトーストセット、店の裏側の土地で無農薬栽培している新鮮な野菜、そして黒野が厳選し取り寄せた豆を使った香ばしいコーヒー。
どれをとっても1級品ばかりで、お客の層はリピーターがほとんどである。特にアーモンドトーストセットとフレンチトーストセットが人気で、黒野が手作りで作るアーモンドトーストクリームはお土産としても人気である
と、少女がおもむろに立ち上がり窓を開けてこう叫んだ
「客が来ねぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
あたりの木に止まっていた鳥が一斉に飛び立った。黒野が新聞を読むのをやめて六法全書を読み始めたあたりで少女の限界が来た。開店からはや数時間、お客は0。今更だが、立地条件が悪すぎだ
「静かにしなよ、それなりにご近所さんもいるんだから」
「人来なさすぎですよ、いくらなんでも……良くこんなので経営できますね」
「まぁ独自のルート使ってるから仕入れ値は格安だし、野菜とかもほぼ自家栽培だからお金にはほとんど困ってないんだよ。利潤より、お客様の笑顔が見たいんだ、僕はね」
「なんかカッコいいこと言ったつもりでしょうけど、それでも割に合わないんじゃないですか?」
「一つだけ言っておくよ」
黒野がゆっくりと立ちあがり、少女に近づく。そのときの感覚を少女はこう語った
「えぇ、なんていいますかね……覇気、というか、殺気、というか……ともかく、ドス黒いオーラのようなものが見えたような気がしました。一種の気迫でしょうね、初めてですよ、気迫だけで視界が霞んだのは。そして唇に何か柔らかいものが触れたと思ったら、それは黒野さんの人差し指でした。そう、それ以上は言ってはいけないと示唆する感じの仕草ですね。そうして彼はこう言ったんです」
「世の中には、知っていいことと、知らなくていい事があるんだよ?」
「確信しましたよ。このお店の利潤の出し方は知らなくていい事に当てはまるのだと、ね」
少女が白目で口をパクパクしだした直後、店のドアの開く音がした。軽い金属がぶつかり合い、チリンチリンと小気味いい音が店内に響く。
「いらっしゃいませ、ようこそゼニシアへ」
柔和な微笑を浮かべて黒野はお客の対応へと移る。持っていた六法全書がいつのまにやらこの店のメニュー表に変わっていた。
また世界が歪む。均衡が乱れ、運命が掻き乱され、世界が引き合う。軋む世界の狭間、互いが互いに侵食を開始。その余波はゼニシアにも影響を及ぼした
少女とソニアがゼニシアの新しい居候となってから数ヶ月が経った。元々小さな規模の店なので正直黒野1人でもやっていけるのだが、何もせず居座るのは悪いからと2人は言い、店を手伝い始めたのである。
ソニアはこちらの世界に順応し、黒野から賄いを任せられるまでに料理の腕が上がった。もとより火の世界でもソニアは自炊をしていたので、慣れてしまえば飲み込みは早かった。ただ身長の問題で少々足元がおぼつかないのが目下の問題となっている。
対する少女はというと、この店の経理関係を任せられていた。今では食材やコーヒー豆の発注、ガス代水道代などの必要経費の管理を一手に担っている。
キッチン関係の仕事はしないのか、と思う諸兄もいるだろうが、彼女はそういうことに関してはまったくダメダメだったのである。手伝い始めの頃はキッチンにいれば1日に2桁台の皿を割るわ、野菜を刻んでいれば野菜ではなく自分の指を切るわで見れたものではなかった。
(ホールに関しては色々と司法的に面倒な事が多いので黒野が担当している)
夕方18時頃。お客もはけ、3人でゆっくり飲み物を飲んで休憩していたとき。もうそろそろ店じまいすべきかと黒野が売り上げ帳簿をつけ、少女は割ってしまった皿やコップの片づけをし、ソニアは黒野のジッポライターの炎を操って戯れている。と、たまたま着いていた店内の小さなテレビがにわかに騒がしくなる。
主に緊急のときに良く鳴り響く音がテレビから流れ始めた。直後、それまで放送していた番組から緊急ニュース速報へと画面が切り替わる
『緊急速報です、九州と沖縄の一部の地域が消失しました。繰り返します、九州と沖縄の一部の地域が消失しました……』
画面には日本地図が表示され、九州と沖縄の一部が灰色で塗り潰されていた。消失したとされる部分だろう。その塗り潰されている部分を見て黒野の表情が険しくなった。少女が「どうしたんですか」と聞く前に、黒野は店の置き型の電話の受話器を取り、どこかへ電話をかけ始めた
「………! もしもし、良かった繋がった! 黒野です! 無事だったんですね……はい……いえ、人の命より重いものはありませんから……えぇ、はい……」
九州と沖縄かどちらかはわからないが、知り合いがいたのだろう。黒野の声のボリュームが少女が聞いた中で一番大きい。程なくして電話を切った黒野の表情は優れなかった
「誰だったんだ?」
ソニアが問うと、黒野は笑顔を無理やり作って答える。その表情は痛々しい
「あぁ、ウチにコーヒー卸してもらってる農家さんだよ。もしや、と思ったけどまさかビンゴしちゃうとはね……」
「この店のコーヒーって日本産だったんですか? かなり珍しいと思いますけど」
「まぁ7割は外国産だけどね。昔店開く前にちょっと放浪しててね、個人営業でこじんまりやってる人なんだけど……今ので農地のほとんどのコーヒーノキが持ってかれたらしい……代わりにカラカラに干からびたドライフルーツみたいなのがなった妙な木が生えてきたそうだよ」
間違いない。世界がまた歪んだのだ
「このままにしとくとウチのコーヒーの味にも影響が出ちゃうね。早急に対処しないと。どこの世界が歪んだかわかる?」
「ちょっと待っててくださいね…」
少女がエプロンのポケットからまたあの大きな本を取り出す。ドン! と机に置き、拍子を軽く叩くとひとりでに本が開き、凄い勢いでめくれ始めた。数枚のページが本から切り離され、淡く輝きながら少女の周りに漂う
「ふむ……これは……」
「どんなところかわかった?」
「色は黒……虚無と虚構に塗りつぶされた混沌そのものの世界……闇の世界、といってもいいですね」
切り離されたページの一部にじわりとインクが滲むように何かが浮き上がってくる。浮かび上がってきたのは風景画のような挿絵だった。暗雲が立ち込め、どこまでも黒い世界が広がり、なにやら禍々しい雰囲気が見て取れる
「そこで魔物が現れたのかな?」
「わかりません、あまりにも歪んでいるので……すみません」
「かまわないよ、行くべきところがわかったならそこへ行って何をすべきか確かめればいい話だ」
「どんな世界なんだろうな、楽しみだ!!」
ソニアがはしゃぐ、旅行気分らしいがそれでいいのか
「ともかく、こっちとそっちで世界の置換があったんだ、悠長な事は言ってられないかな。準備しようか、二人とも」
「はい!」
「合点!」
ヒュバッ ジャキッ バサッ ギュ
黒野がダークグレーのハットを被る。少女がいつもの服を着、艶やかな黒髪をたなびかせる。ソニアが指だし手袋をつけ、ぎり、と拳を握り締める
「さぁ、出陣だ」
黒野たちの前に大きな石造りの扉がどこからともなく現れ、重い音を響かせながら開く。そして3人はその扉の中へと消えた