空と静寂と涙と
朱里との交戦から半日と少しが過ぎ、開戦の時は刻々と迫っていた。
常に外の景色が変わらない天界では時間感覚も麻痺しやすく、霊体の為に人間の身体が引き起こす欲求も存在しない。
「んあー…………」
頭も身体も使ったために、しばらく動く気がしなくなり、備え付けのベッドの上に寝転がる沙耶。身体の疲れはなくとも、精神への負荷は存在するために、それが身体の疲れと連結して沙耶をベッドへと誘ったわけだ。
奈々のようなよほどのお人好しでなければ誰かが足を運んでくるという事も無いだろうし、かと言って誰かに会いたいわけでもない、しかし暇すぎて息が詰まりそうな、そんな心情が沙耶を現在襲っていた。
「…………んがーあっ!!」
睡眠をとって起きてから約十分足らずのことだった。暇を持て余しすぎて溢れ返った感情は叫びとなって部屋中を沙耶の声で埋め尽くす。しかしそれで何かが改善されるわけもなく、叫びきった後は喉と気持ちの乾きが襲ってくるだけだった。闘技場に行くほど時間は残されていないので、とりあえず外に出て気持ちを入れ替えることにした。
…………
違った風景が見たいために闘技場とは逆方向に歩くことにしたが、あるのはおおよそ半日前に見た風景と変わらない、延々と続く廊下と定期的に現れる曲がり角だけだった。これで気分が晴れるかと言われればまず否定の言葉が出るだろう。
どうせ同じ風景ばかりだと呆れかえり、それでも部屋に戻るのが嫌だった沙耶は走りだし、目的もなく部屋からどんどんと遠ざかっていく。後先を考えている様子ではなく、ただただ一心不乱に、全力で走り続けていた。
そして走ること数分。沙耶が無いと勝手に決めつけていた廊下の終わりが唐突に現れ、その代わりに正面に現れたのは上へと昇る階段だった。躊躇する事も無く、階段の手前から軽く飛んで階段の一段目に足を着き、一段飛ばしで階段を上っていった。
階段の先は展望台のようになっていて、しかしそこがコンクリートで覆われているわけでもなく、剥き出しの大地があるだけで飾り気は皆無だった。それは西部劇に出る谷を彷彿とさせる。
そしてその崖に腰かけて遠くを見るような目で呆然としている少女が一人。よく手入れのされた長い黒髪と、か細い腕は箱入り娘であることを暗示していた。その正体は転生候補の一人、夕霧奏である。
「…………」
奏は気付いているのかいないのか、微動だにせずに向こう側を見ていた。雰囲気からして、話しかけることは難しいようだ。なんとなしにそれを察知した沙耶は無暗に近づこうとはせず、奏と反対側の崖に腰かけ、周りを見渡す。
明るいのに星が見える空は新鮮味があり、改めてここが地球ではないことを実感させられる。それを思い出して溜め息をついて、しかしその溜め息が何にもならないことを思い出し、空を見るのを止めて下を見る。下は雲で覆われていて見えない。雲の上にいるのもやはり現実からかけ離れていることを思い出させ、涙腺の崩壊を誘う。
「ぐっ…………!」
泣いても何の解決にもならない。それは沙耶自身が一番知っていることだった。それに今は一人ではない。反対側とはいえ、沙耶の後ろにはライバルとなる人間がいるのだ。どうせ倒せば関係ないが、それでも弱味を握られたくないと、必死に涙を堪えていた。
これ以上外の風景を見るのは意味がないと思い、沙耶は崖の先に伸ばしていた足を引っ込め、手の力で胴体を陸の方へと戻してくるり、と身体ごと方向を変えた。
「我慢は、お身体に障りますよ……?」
沙耶の頭上から澄んだ声が響く。ふと上を見上げると、そこには崖にいたはずの奏がいつの間にか沙耶の前に立っていた。
「うわぁっ?!」
気配に気づけずにいきなり現れた奏に沙耶は驚き、後ろに手をつこうとする。しかしついた先は何もない空間で、地面についたと思った腕は宙に投げられる。
パニックに陥る沙耶。そのままバランスを崩し、身体ごと宙に放り投げられそうになるが、空と雲が逆さまに映ったその瞬間に沙耶の身体が何者かによって支えられ、そのまま地上へと戻される。言うまでもなく、その何者かの正体は奏だった。
「驚かせてしまいましたか……?申し訳ありません」
ふぅ、という奏の溜め息がやけに沙耶の耳に心地よく届く。奏の言葉に朱里のそれとは違って嫌味は含まれておらず、むしろ純粋な謝罪と安堵のように聞こえた。
ゆっくりと沙耶は立ち上がり、素直にお礼を言うべきか皮肉るか迷ったが、
「優しいんだね、夕霧さんって」
純粋に口から出た言葉だった。見ず知らずの人間であるとは言え、崖から落ちようとしている人間を救うのは精神が普通であればごくごく普通の事なのかもしれないが、しかしそれでも言うべき言葉なのかもしれない。
しかし奏は決してそれを聞いて嬉しそうな表情をすることはなかった。むしろ沙耶の言葉を聞いてから今度ははぁ、というマイナスの溜め息を吐き、頭を横に振った。
「……そうやって言って、心の底では私の事を馬鹿な人だと、きっと貴女は思っているんでしょう?」
「えっ…………」
絶句した。予想外すぎる言葉が沙耶を襲い、思考を止まらせる。意味を確実に誤解しているのだろう、沙耶は弁解しようとするが、その前に奏が言葉を発する。
「私は、黙って見ていればよかったんです。そうすれば、もしかしたら敵が一人減って、少しは楽な状況になっていたのかもしれません」
――そうだ、普通じゃないんだ。
頭の隅に追いやられていた事実がどんどんと鮮明になっていき、その度に自分が死んだという事実を再認識する。奏の言っていることはねじれているが、この状況ならさして異常なことではなく、むしろそうであって当たり前なのだ。
奏はそのまま話を続ける。
「でも、私にはそんなこと、出来ません。冷徹になれだなんて言われても、それは無理な相談ですもの……こちらに来てまもなく叢雲さんが来たときは心を鬼にしてお断りしましたが、今は後悔しています」
(……でも、私の話を聞こうとはしてなかった。私を否定して、扉を閉めちゃって……)
確かに奈々は沙耶に対してそう言っていた。奏の話と一致していることから、恐らく朱里も、そしてこちらで未だ顔を見ぬ候補――神楽唯についても、同様に奈々の話を聞かなかったのだろう。
奏が一通り話し終わったところで、今度は沙耶が口を開く。
「みんな同じだよ。私もこっちに来て、ディアボロスの話を聞いてからは態度を変えようとは思ったけどさ、無理だったよ」
奏の暗い表情とは対照的に、沙耶は笑っていた。しかし頬は引き攣っており、自然なものとは程遠い作り笑顔だった。
「今は一人前のフリだけでいいと思うんだ。みんな背伸びして、誰が冷静でいられるかの競争だよ。私はそう思うな」
「雨宮さん……」
今の沙耶自身が、まさにその状態だった。何も支えのない状態で、どれだけ気丈に、強く振舞えるか。希望も望みもない天界という地獄で、誰が強「そうに見える」か。
「情けないな、私って。とんだ失態だよね……あはは、っ……」
そして、我慢していたものがついに溢れだした。沙耶の目からぽろりと涙が流れだし、決壊したダムのように際限なく溢れ出す。
奏は慌て、しかし沙耶にかける有効な言葉も持ち合わせていなかったために、やむなしと言った感じで沙耶の身体を両手で抱きしめた。
「――!」
「……ごめんなさい。酷いことを言ってしまいましたね。今まで私は他人を疑うばかりで、信じようとなんて思わなかったんです」
沙耶は奏の胸元から離れようとはしなかった。もはや奏に対して虚勢を張る必要が無くなった上に、こうして奏が沙耶に対して比較的善意的であるうちにこうでもしておかなければ沙耶の精神がとても持ちそうにはなかったからだった。
「……大丈夫。疑わないと、この世界では生きられないから。それが、当たり前だから……」
とても大丈夫そうではない、震えた声で沙耶は応える。しばらくもしない間に、奏の死に装束は胸の部分だけ湿気を帯びていた。
奏は空を見上げ、三度目の溜め息をつく。
「貴女とは、もう少し違う出会い方をしたかったです……そうしたら、私の世界も広くなったのに……」
お待たせして申し訳ございません!
というわけで3人目のライバル、奏ちゃんです。
このキャラは難産でして、ちゃんとした設定が決まったのが一話を書き終えてからの話でした。他のキャラはちゃんと決まっていたんだけどなぁ……
さらにキャラ固定にも苦労しまして、結局こんなにも日にちが……
完全に言い訳ですが、申し訳ないです。
今までのライバルの共通点としては、「おとなしい」ですね。主人公である沙耶ちゃんとはだいたい真逆のベクトルです。
まあそのおとなしさにも若干の違いがあるために、全員が全員沙耶と逆位置にあるわけでもないですが。
その中でも奏は和風なお嬢様をイメージしてみました。そのイメージがちゃんと伝わっていると良いのですが……
3話のあとがきで地上に降りるとか盛大に詐欺ってました。その点についても、お詫び申し上げます。