優しさと疑惑と勉強と
時間は有り余るほどあって、解散を告げられてからまだ一時間ほどしか経っていなかった。
泣き止むには泣き止んだが、それからの沙耶の調子というのは最悪そのものだった。周囲の環境をすべて失うというのは、悲劇以外の何物でもない。それを急に味わわされる沙耶の気持ちは、誰も理解することが出来ないだろう。
その気持ちを断ち切る切欠となったのは、一つの音だった。
――きぃん……
空しくも響く、鐘の音。それは客人の訪れを表すチャイムによく似ていた。事実、それは現世界の物と変わらず、扉の擦りガラスには人影のようなものが映っている。
人影を確認した沙耶は立ち上がり、気怠そうな足取りで扉へと向かう。そして扉の前で立ち止まり、開錠。扉を開いた。
「……こ、こんにちは……」
シルエットの正体は叢雲奈々――長く、よく手入れのされた銀髪が特徴の、弱気そうな少女。彼女もまた、ディアボロスの「遊戯」への参加者の一人。そして沙耶と同じように、目を赤くして泣いた跡が残っていた。
沙耶は奈々の顔を見て少し驚いた。敵になる人物が自ら近づいて来たからだ。
「叢雲奈々……だったかな?何でここに?」
当然のことながら、沙耶は警戒した。遊戯が始まる前からの敵の接触――それは悪い方向への兆し。
警戒心をむき出しにして険しい顔になる沙耶に一瞬奈々は委縮するが、彼女は退こうとはしなかった。
「あのね……これから私たち戦うのに、こんな事言うと呆れるかもしれないけど……聞いてほしいの」
そう前置きして、息を軽く吸って覚悟を決める。その眼は真剣そのもので、とてもこれから冗談や間抜けたことを言うような表情ではなかった。
思わずつられて沙耶も警戒を軽く解き、奈々の話を聞く体勢になる。
「私、雨宮さんや、みんなと、仲良くなりたいの」
「…………は?」
豆鉄砲を食らった鳩そのもののリアクションをする沙耶と、それを見て慌て始める奈々。
空気はそのままで凍りつき、数秒その状態が保存された。その状況を解いたのは奈々のほうで、慌てて言葉を紡いだ。
「あ、え、えっと!確かに敵同士で仲良くなろうだなんて、そんなこと可笑しいよね。私だって、それくらいは分かるよ」
「…………」
「で、でもねっ。せめて、せめて今だけは仲良くしたいの……甘いって言われちゃうかもしれないけど、それでもいい。私は甘くて、弱いから、だからこうやって人に縋るしか、方法が無いの……っ!!」
最後のほうは叫びに近い、嘆きだった。感情の昂りか、奈々は無意識に沙耶の肩を掴み、揺らしていた。さすがにこの行動には焦ったのか、沙耶は肩に触れていた手を慌てて離させる。
互いに息も荒く、睨み合いが続く。
気まずい沈黙の中、沙耶が動き、塞いでいた部屋への道を開いた。
はぁ、と溜息をついて「……入っても良いよ」と奈々に心を許すまでの時間は、とてつもなく長い物だった。
…………
真白な空間に置かれた、飾り気のない家具と二人の少女。
奈々を部屋に上げたはいいが、それから話すことを全く考えていなかった沙耶と、言いたいことを玄関先で一通り言ってしまった奈々の口は閉じたままで、いざ向かい合うと何から話すべきか分からず互いに戸惑っていた。
「……ね、ねぇ」
沙耶が口を開く。
話す内容を考えていたのだろうか、「へっ?」と不意を突かれたように奈々が顔を上げる。
「魔法ってさ、最初ディアボロスから聞いたとき、どう思った?」
ディアボロスの『遊戯』は打撃戦のみに限らない。彼が新たに作る少女たちの身体はただの人間の身体ではなく、地球のあらゆる生命体を遥かに凌駕する力を兼ね備えた、人間の形をした、人間とはまた別の生命体とのことだ。
ただ、それは当の彼女たちにとっては不安を煽る材料にしかなっていなかった。夢だったものをいきなり現実につきつけられ、知りもしないものをいきなり使えというのには、かなりの無茶があるというものだ。身体の勝手のこともあるだろう。
しかし、奈々は意外な返答をした。
「うーん……まあ、別にいいんじゃないかな、って」
奈々は特に魔法や身体の事を気に掛ける様子はなかった。不安な表情をしているわけでもなく、むしろそれを聞いてからの奈々の表情は先ほどよりも少しだけ明るくなっていた。
「私みたいな弱い人も、強くなれるから、きっと神様はそういうことを考えてくれて、魔法っていう力を使わせてくれるんだと思う。もっと別の理由も、本当の理由があるかもしれないけど、私はそう勝手に思ってることにしたの」
「……そっか」
どこまでも前向きな考えに、沙耶は驚くばかりだった。ディアボロスに弄ばれているというのに、それでもポジティブシンキングを止めようとしないその姿勢には頭が下がるものがあった。
続けてお礼を言おうとすると、奈々は自分の着物に手を伸ばし、懐からふと一冊の本を取り出した。ハードカバーの、持ち歩くには少し不便そうな代物だ。
「これ……私の部屋に置いてあったの。魔導書かな?分からないけど、でも日本語で書いてあるし、説明も分かりやすいし」
「あ、あぁ……そうなんだ」
明らかに、敵がやる行為ではなかった。敵に塩を送る余裕など、誰一人としてどこにも存在するはずがないのに、彼女はそれを平然とやってのけていた。これを何の目的もなくするならお人好しも過ぎる。しかし、彼女が本当にこの行為を利敵行為と分かっていてやっているのなら――。
利用しない手はないと、沙耶は心の底で嗤った。
これはゲームではない。命を懸けた試合だと。それを浅いながらも理解していた沙耶は、なりふり構っている余裕がないと判断した。しかしそうも考えると奈々の考え方にも疑問が湧いてくる。これが演技だとすれば、この魔導書を見るわけにはいかないのだ。これは罠だと考えるのが妥当なところだろう。
対処法は一つ――本の中身を信じないことだ。
「……?大丈夫?」
沙耶が長考から戻るころには、奈々が不思議そうな目で見つめていた。トリップしていたのがバレたのだろう。
動揺が隠し切れなかったのか、慌てて沙耶は「な、なんでもないよ」とどもりながらも返した。彼女は嘘が大の苦手だった。しかしそんな沙耶の言動を「そうですか」の一言で済ませてしまう奈々からして、よからぬことを考えていたということまではバレていないようだ。
改めて本を開こうとするが、その手が止まり、沙耶を見つめる。
「雨宮さんには、本当に感謝してるの。私に心を開いてくれた、唯一の人だから」
「唯一、ってことは他の人の所にも行ったの?」
奈々は首を縦に振ってその事実を肯定し、話を続ける。
「……でも、私の話を聞こうとはしてなかった。私を否定して、扉を閉めちゃって……。そんな中、雨宮さんは私を部屋に招き入れてくれて……この恩は、いつか返したいと思ってる」
「大げさだよ。ちょっと人助けが好きなだけで、大したことはしてないよ」
奈々のベタ褒めぶりに思わず笑みがこぼれる。つられて奈々も笑う。先ほどまでの沙耶の疑いの目はどこかに飛んでしまっていた。
それからは二人で一緒に魔導書を読み、魔法の根底――その仕組みと使用方法、更には基本的な魔術を文章のみでだが、習うことにした。そしてそれを完全に理解するまでには二人に大きな差があった。奈々の呑み込みが早かったこと、そして沙耶が勉強が苦手であったことから、終始奈々が沙耶に魔導書の内容を教える、教師と生徒のマンツーマンの形になっていた。「うあー」と呻き声を上げながらも沙耶が奈々と同レベルまでに理解が追いつくまでには倍の時間がかかった。
「……ふぃー。ちょっとかじる、って言ったのにいっぱい過ぎて頭が破裂しそうだよ」
「ごめんなさい。私、本を読むのが好きだから、つい熱くなっちゃって……」
絵本を読むが如く、さらっと魔導書を読んでいた奈々の姿は本好きで収まるようなものじゃない――その能力を以てすればこの本はこの一日で読み切られてしまうのかもしれない。そう考えると、彼女は魔法に特化した、強力なライバルになりうる。
(私の部屋にも、魔導書あるかな……?)
奈々が帰った後に、もし魔導書があるなら勉強しなければ――命のかかった勉強なだけに、苦手でも俄然やる気が違っていた。
というわけで、第一のライバル、叢雲奈々ちゃんです。
なんかかわいこちゃん書きたいなー、と思っていたらいつの間にか某なかなか契約しない系魔法少女になっていたわけですが。
今見てみると、それっぽくなってるのは否めませんね。しかしそんなことを言っていると沙耶ちゃん含め全員がパクリみたいなことをいわれかねないので、あまり気にしないことにします。