001 茜ヶ原緑青
「起きろ。……起きろー。
…………このあたしが起きろっつってんのが解んねーのかっ!!」
もううららかな春とは言い難くなってきた、というか普通に暑くなってきた五月二十三日。ついでに言えば月曜日。もっと言えば午前七時四十三分。俺、即ち石動学園高等部一年九組出席番号一番、茜ヶ原緑青は姉に叩き起こされて目覚めた。
より正確を期するなら、蹴り起こされた。背中にドロップキック。しかも二度も。ドメスティックバイオレンスもここに極まれり、って感じの激痛が全身に広がる。
なんとなく体がだるかった。全身が鉛どころか水銀みたいな。姉が一旦自分の部屋に戻ったのでもう一度布団に潜る。
「あー。まさか本気で蹴るとは……。痛てぇよ」
もう五分くらい寝たかったが、さすがに木刀を持って戻って来た時点で飛び起きた。
「春眠焼を覚えず、だよね」
微妙に間違った、というかなんか怖い台詞を呟いてにやりと笑う我が姉。
大抵の格闘技 (柔道と空手と虚刀流)はかじった俺も、剣道三段の木刀なんか食らったら真っ二つだ。「……解りました解りました解りましたっ!」
解の字がゲシュタルト崩壊を起こす勢いで起きた。
「ふーん。ご飯作ったから降りて来てねー。」 ゆるゆると手を振りながら、さっきまでの激怒が嘘のように、背を向けてあっさり階段を降りていく。何にせよ解されることだけは防いだようだ。
剣道三倍段・姉が落ち着いた後、その姉が作った簡単な朝食 (味はまあ、正直言えば美味しかった)を済ませ、全力でダッシュ。とはいえ、学校は家から徒歩五分、つまりは目の前なのだけど。
なんとか遅刻することなく学校にたどり着く。
愛すべき我が母校、石動学園。中高一貫校だけあって、かなりの敷地面積を誇っている。
勉強は言うまでもないが、部活も運動部、文化部問わずかなり優秀。
野球部は甲子園の常連。 サッカー部はワールドカップ選手を続々輩出。
吹奏楽部はちょっとしたオーケストラなんて足下にも及ばない。
このぶんだと、帰宅部だって全国大会とかに出場していてもおかしくない (いやおかしい)。
何を隠そうこの俺も、その部活の為にこんなに走っているのだ。
その野球部がランニング中で百メートルはあるだろう列を作っているが、割り込んでくぐり抜ける。学校に着くと、教室に荷物だけ置いて早速部室へ。途中、同じクラスの男子二人組とすれ違った。軽く挨拶して通り過ぎる。向こうは、登校して早々教室を出て行く俺を訝しげに見ていたが、どうせ一限は単位を落としても大丈夫だ。そこは計算している。というか、一限の担当教師はうちの部の顧問だから、必然的に自習だし。
その後も同じような視線を浴びながら、部室 (と言っても、生徒数が少なくなって使わなくなった三階の空き教室だけど)に無事に到着した。
時計を確認すると、もう八時。
「……あちゃー」
みんな来てるな。九十九里はともかく、八崎とか逢魔刻に怒られませんよーに、と扉を開ける。
教室内はがらんどうだった。
……えーっと、あれ? 誰もいない? 教室間違えた? ……待て。落ち着こう。どうも今日は頭がすっきりしないな。深呼吸深呼吸。
がつん。
頭に走る鈍く重い衝撃。
「っ痛ったぁ……!」
何奴。あ、あれか、俺の暗殺を目論む敵の間者か。
「ごそごそ音がすると思ったら。お前か。私の部屋で何をしている。茜ヶ原」
振り向かなくとも十二分に判別がつく、よく通る綺麗な声。
「ああ、おはようございます、黒崎先生」
部活の顧問で、一年九組担任でもある黒崎蓮華先生。そして俺を『図書委員会執行部』なる活動目的不明な部活に引きずり込んだ張本人でもある。
どう見ても俺と十歳違わない若々しい美貌と、冬でも着ている浴衣、それと俺を背後から殴打した凶器であるところの大きな鉄扇がトレードマーク。
……つーかここあんたの部屋じゃねーよ。
「で。茜ヶ原。何をしていると訊いている」
言葉が細切れだ。本気で怒ってる。
「今日は。朝は部活はない。昨日言ったはずだ」
「えーっと。そうでしたっけ?」
そんな話あったかな、と多分今の一撃で脳細胞の八割が六道輪廻の旅へと旅立っただろう頭を働かせる。
「……。お前という奴は。八崎あたりの爪の垢でも煎じて飲んでいろ。まあいい。授業だ。戻るぞ」
そんなに授業を自習にばかりさせられないだろう、理事長に怒られてしまうからな、と先生は今日初めての笑顔を見せた。魅力的な、ただしつや消しの笑顔を。
はあ。今日は何の日なのだろう。朝からこんな目に遭うなんて、第一話か最終話くらいのもんだ。死ぬのかな、俺。
残りわずかな脳細胞を無駄な思考に使いつつ、先生に付いていく。
――その後茜ヶ原緑青がどうなったのか。プライバシー保護の観点から伏せておこう。ただ、しばらく俺のニックネームが「転校生」になったことだけ言っておく。