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ベル・エポックの騎士 世界ライトヘビー級王者 ジョルジュ・カルパンティエ(1894-1975) 

作者: 滝 城太郎
掲載日:2026/03/10

ベル・エポックとは19世紀末から第一次世界大戦が始まる1914年までのパリを中心としたフランスの文化、芸術が艶やかに花開いた時代のことである。ジョルジュ・カルパンティエが世界タイトルを握ったのは1920年のことだが、あえてタイトルを「ベル・エポックの騎士」としたのは、第一次世界大戦が火ぶたを切ったと同時にフランス空軍に入隊してボクサーとしての成長期を犠牲にしたカルパンティエの最も輝かしい時期がベル・エポック期だと考えてのことである。14歳でデビューしたカルパンティエはフランスバンタム級チャンピオンを皮切りに十代までに欧州ウエルター、ミドル、ライトヘビー、ヘビー級までを制したスーパーティーンエイジャーだった。デビューから20歳で入隊するまでの7年間の成績が76勝10敗(42KO)5分なのに対し、戦後の復帰から引退までの7年間は世界戦を4戦含んでいるとはいえ11勝4敗(11KO)1分に過ぎない。第一次大戦後に世界チャンピオンになってからはアメリカで売れっ子になり主戦場をアメリカに移したため、パリっ児たちにとっては十代のカルパンティエの方がカリスマ的な存在だったに違いない。



 「タフで金持ちの色男」と言うと、一体どこのお坊ちゃんだろうと想像するかも知れないが、フランスのボクシング界で最も華麗だった男、ジョルジュ・カルパンティエはブルジョワ育ちどころか、ランスの炭鉱夫の息子で幼少時から喧嘩早い腕白坊主だった。

 もし、彼の人生に干渉する者が誰もいなければ、ルドルフ・ヴァレンティノばりの容姿を生かしてジゴロになるか、いなせなギャングスターとして裏社会でのちょっとした顔役になっていたかもしれない。ところが、運命の女神はこの少年を陽のあたる場所にいざなうために一人の男を遣わした。近代フランスボクシングの祖と言われるフランソワ・デュシャンである。

 一九〇五年のある日、ランスの街角で喧嘩をしている二人の少年に目を留めたデュシャンは、やけに手が早いうえにすばしこい方の少年に声をかけてみた。「坊やボクシングをやってみる気はないか」

 するとその少年は目を輝かせてその話に飛びついてきた。「喧嘩に強くなるんだったら、やるよ」

 これが十一歳のカルパンティエと、後にマネージャー兼トレーナーとしてこの滅法気の強い喧嘩坊主を拳の世界の玉座へと導くデュシャンの出会いであった。

 二十世紀初頭のフランスにはまだボクシングの普及率が低かった。元陸上選手で、イギリスでボクシングを学んだ経験のあるデュシャンは、フランスの青少年にボクシングを広めるため、ランスにジムを開き、数多くの入門者に手ほどきをしたが、カルパンティエの運動神経の良さは別格だった。まだ体力づくりの段階であったにもかかわらず、スパーリングでは年長の選手を倒してしまうほどセンスが良く、デュシャンもこの少年が一流の器であることを確信した。

 当時のカルパンティエは炭鉱の仕事の合間にボクシングの練習をしていたが、炭鉱で稼いでいた週給五フランをデュシャンが負担するという条件を出されるに至って、両親も渋々息子のプロ入りに同意した。


 十四歳でプロデビューした頃のカルパンティエはまだ体も小さく、スタートはフライ級だった。キャリア初期は、各地でサーカス興行のようなことをしていたデュシャンに伴われ、アクロバットショーなどの演目の一つとしてボクシングの試合を行っていた。

 というのもベル・エポック期までのフランスでは、格闘技といえばサパットという足蹴りを中心としたキックボクシングのようなものが主流で、ボクシングの興行はあまり旨みのあるものではなかったようだ。

 プロ入り二年目に十五歳の若さでフランスバンタム級チャンピオンのポール・チルに挑戦できたのも、成人男子の平均的体格がウエルターからミドル級のフランスでは軽量級の選手層が薄かったことによる。

 十月十五日の初挑戦試合で引き分けたカルパンティエは、一ヶ月後(十一月二十七日)の再戦で八ラウンドにレフェリーストップされながら、その一ヶ月後(十二月二十二日)にまた挑戦の機会を与えられ、今度は七ラウンドにダウンを奪う快勝でナショナルタイトルを手にしているが、この短期間で同じ相手とタイトルを懸けた三連戦が組めたのは、カルパンティエの他には客を呼べるような手頃な挑戦者いなかったということだろう。

 この頃のカルパンティエは110ポンド(50kg)くらいのウエイトだったが、一年後には130ポンド(60kg)、さらに一年後には140ポンド(63・5kg)と身体も大きくなり、それにつれてKO率も向上していった。

 デビューからしばらくの間はKO勝ちがなかったが、二年目に十五勝一敗(五KO)二分、三年目に十五勝三敗(九KO)二分と天性の強打者の本領を発揮し始めた。

 一九一一年六月十五日、ウエルター級になったカルパンティエはフランスウエルター級チャンピオン、ロベール・ユスターシュとのタイトルマッチに臨み、十六ラウンドにユスターシュのセコンドがらスポンジが入り、見事TKOで国内二つ目のタイトルを獲得した。

 ナショナルタイトル(国内)での二階級制覇などそれほど珍しいものではないが、バンタムからフェザーとライトを飛ばしてとなると話は別だ。日本でも東洋フェザー級で無敵を誇ったピストン堀口が選手生活の晩年に日本ミドルチャンピオンになった例があるだけだ。

 堀口の場合は、全盛時代はアジア圏では選手層の厚いフェザー級、ライト級で闘い、年を取って身体が肥大してからは国内では層が薄かったミドル級王座に短期間就くことができたが、カルパンティエは体格が向上にともなって、より層の厚い階級へとランクアップしているところが凄い。

 ナショナルタイトルとはいえ、カルパンティエはまだ十七歳の少年である。しかも眉目秀麗な顔立ちには似合わず好戦的なハードパンチャーとあっては、今日なら推し活ファンが雲霞のごとく押し寄せてくることは間違いない。事実、ユスターシュに勝利した後のドレッシングルームには、フランスの歌手、俳優、作家といった著名人が大勢お祝いに押しかけてきたというから、この時点で単なる少年アイドルという枠を超えた社交界の人気者だったようだ。

 その知名度は海の向こうのイギリスにも響き渡り、国内タイトル獲得の余勢をかったカルパンティエは十月二十三日、ロンドンのキングズホールで欧州ウエルター級チャンピオン、ヤング・ジョセフに挑戦した。

 終始試合のイニシアチブを握ったカルパンティエは、十ラウンドでジョゼフを棄権に追い込み、まずウエルター級でヨーロッパの頂点に立つと、さらに翌一九一二年二月二十九日には、モンテカルロでジム・サリヴァンを二ラウンドで鮮やかに仕留め、欧州ミドル級タイトルまで手に入れた。

 この試合には貴族や王女など名だたる名士が観戦に訪れたが、観客の半数が女性ということでも大きな話題となった。


 ビクトリア朝時代までのヨーロッパでは、ボクシングは紳士のスポーツではあっても、ベアナックルファイトが主流だったプロの試合となると、残虐性を伴うがゆえに女性が観戦するようなスポーツではなかった。

 ましてや、十九世紀後半以降、イギリスに代わってボクシングのメッカとなったアメリカに至っては西部開拓時代という背景もあって、ジョン・L・サリヴァンに代表されるような獰猛なファイターに大衆人気が集まり、ある意味での野暮ったさゆえに女性から注目されることは少なかった。

 ところが、「リングの紳士」と言われたジム・コーベットが世界ヘビー級チャンピオンになった頃からボクシングに対する世間の認識が大きく変わっていった。舞台興行や映画出演による収入が、ファイトマネーを上回るようになったコーベットは、その紳士的な佇まいから、多くの女性ファンを得たが、時にビキニブリーフのような露出度の高い格好でスパーリングに臨むなど、ボクサーの鍛え抜かれた肉体の美しさを誇示したことで、ボクシングというスポーツにセックスアピールという新たな要素を取り入れたのだった。

 コーベットが、腕力自慢の殴り合いから科学的なスポーツへとボクシングを進化させたのみならず、美的センスまで持ち込んだことで、ボクシングは女性にも受け入れられるようになり、二十世紀の初頭には、早くも女性のプロボクサーが誕生している。こうした流れが後押しして、一九二〇年代には、女性がボクシング観戦に訪れるのも珍しいことではなくなったが、婦人参政権要求の拡大によるウーマンパワーの増長という社会の趨勢とも無縁ではないだろう。

 カルパンティエが登場したのは、一部のボクサーがセックスシンボルとして捉えられるようになり、ボクシングに審美的な魅力が要求され始めた時代であった。いみじくも、とある雑誌のイラストレーターがカルパンティエの肉体美を「ミケランジェロが彼の姿の美しさを見れば、喜びで気絶しただろう」と表現したが、彼には同時代の世界的人気レスラーであるフランク・ゴッチやジョージ・ハッケンシュミットのボディビルダーのような逞しさの中には見出せない一種の繊細さが備わっていた。

 落としても割れることがなく、傷ついても修復可能な眩い黄金の壺よりも、美しさと脆さが同居したガラス細工や陶器に魅入られる人がいるのと同様に、速くて華麗だが、無双というわけではなく、時に悲壮感の漂うファイトを見せるところに芸術性を感じるファンも少なくなかった。

 愛称である“オーキッドマン(蘭の男)”は、カルパンティエの容姿ならびにボクシングの優雅さをたとえたものだ。

 世界的な著名作家であるジャック・ロンドンやバーナード・ショーがイギリス人でありながら、フランス人であるカルパンティエの熱狂的なファンの一人として知られるように、その人気は国境を越え、イギリスで試合をする際にも観客の多くが同国人ボクサーよりカルパンティエを応援していたほどだ。


 一九一二年六月二十四日、マリティームにドイツ系アメリカ人、フランク・クラウスを迎えた世界ミドル級タイトルマッチは、前半を優位に進めながら、減量苦のため後半はふらふらになってしまった。十九ラウンド、クラウスがクリンチの際に体重を預けてくるカルパンティエから離れようと、肘で胸を突いているところを見咎めたマネージャーがリングに飛び込んだため、カルパンティエの反則負けとなった。

 まだ成長期にあったカルパンティエはすでに身長が一八〇センチに近づき、ミドル級リミットで試合に出れば立っているのがやっとという状態であったにもかかわらず、デュシャンに勧められるままにビッグマッチに挑み、不本意な幕切れに終わってしまった。

 カルパンティエ少年の苦難はさらに続く、世界戦から四ヶ月後の十月二十三日には、元世界ミドル級チャンピオン、ビリー・パプケに挑戦したものの、カットした右目尻からの出血が止まらず、十八ラウンド開始早々の棄権負けを喫している。

 人気沸騰中のアイドルボクサーにかくも厳しい試練を与えるとは、デュシャンもデュシャンだが、これに怯まず立ち向かってゆくカルパンティエの根性も見上げたものだ。しかもこの時まだ十七歳の若さである。いくらヨーロッパでは一線級といっても、高校生くらいの少年が選手層の厚いミドル級の新旧世界チャンピオンと拳を交えるなど、この時代でも異例のことだった。

 一九七六年に史上最年少、十七歳六ヶ月でWBC世界J・ウエルター級王座に就いたウィルフレド・ベニテスにしても、二団体あるうちのジュニア階級を制したに過ぎず、世界チャンピオンが総勢八人しかいない時代とは難易度が違う(ベニテスの時代は二十六人)。

 カルパンティエは弱い相手ばかりを選んで華々しいKO勝利を披露するより、苦行に近いサバイバルマッチを重ねてゆくことで、天賦の才にさらに磨きをかけていった。ミドル級を諦めて、ベストウエイトであるライトヘビー級に上げた一九一三年は十一勝〇敗(九KO)と快進撃を続けた。


 一九一三年二月十二日、バンズマン・デイック・ライス(英)を二ラウンドでKOして欧州ライトヘビー級タイトルを奪取すると、六月一日には、空位の欧州ヘビータイトルをボンバーディア・ビリー・ウェルズ(英)と争い、これも四ラウンドでKO。何と十九歳の若さで欧州選手権の四階級制覇を成し遂げてしまった。

 当時のヨーロッパの重量級がタレント不足とはいえ、ほんの少し前までウエルター級リミットで戦っていたボクサーが、わずか二年でヘビー級まで制するというのは奇跡に近い。まだライトヘビー級までは体重制限があるため、体格差は最小限だが、無差別級であるヘビー級となると、七十キロ台後半がベストウエイトのカルパンティエは明らかにハンデを背負って戦わなくてはならない。

 ましてや、対戦相手の英国ヘビー級チャンピオン、ボンバーディア・ビリー・ウエルズは一九〇センチを超える大男で、英国ヘビー級史上十指に入る強打者としても知られる強豪だっただけに、わざわざ危険を冒して戦う相手ではなかったはずだ。

 ところがカルパンティエという男は、相手が強敵であればあるほど、闘争心を燃やすタイプだった。欧州ヘビー級選手権も、ウェルズから先制のダウンを奪われながら、その後反撃に転じるや、スピードとテクニックで大男を翻弄し、一方的に打ち据えている。こんな危なっかしいところも、女性ファンの母性本能をかきたてたのだろう。

 六ヶ月後の再戦でもウェルズを一ラウンドKOで返り討ちにしたカルパンティエは、一九一四年七月十六日、白人ヘビー級の第一人者であるガンボート・スミス(米)に勝利し、ホワイト・ヘビー級チャンピオンの称号まで手に入れているが、この試合はミスジャッジの手本とされるほどのお粗末なものだった。

 スミスにとってはキャリアベストといっていいほどの試合運びだった。スピードのあるカルパンティエの右に左を巧く合わせて主導権を握り、六ラウンドには右眼の視界を失ったカルパンティエに強烈な右が命中した。この一撃でふらついたカルパンティエは、崩れそうになりながら足を踏ん張ったものの膝がマットに落ちてしまった。

 本来ならダウンと判断されるべきところだが、スミスが身体を入れ替えて放ったとどめの一発は、すでに体勢が崩れていたカルパンティエの頭部を軽くかすっていたため、ダウン後の加撃を主張したセコンドたちがリングに殺到するや、倒れたカルパンティエをコーナーまで運んでいってしまった。

 レフェリーも一旦試合を止めてコミッショナーの判断を仰いでから試合を再開すればよかったものを、カルパンティエ陣営の主張を鵜呑みにしてスミスの六ラウンド反則負けをコールしてしまった。

 誰の目にもカルパンティエは劣勢であり、観客席からはブーイングが響いたがもはや後の祭りだった。もちろん明らかな不当判定だが、試合会場はカルパンティエ贔屓の多いロンドンだったことがスミスには不利に働いたと思われる。

 試合の出来は今ひとつだったものの、スミスは十ポンドも重く、アメリカでもトップクラスのヘビーウエイトである。デュシャンの願望は確信に変わった。

 「ジョルジュは世界ヘビー級の頂点を極めることができる器だ」と。


 ライトヘビー級時代のカルパンティエに初黒星をつけたジョー・ジャネットは、サム・ラングフォードの好敵手として知られる黒人強打者で、体重差が十六ポンドもあった。試合は接戦の末の十五ラウンド判定負けだったが、リングサイドに陣取った新聞記者たちの多くが、主審フランツ・レイチェルの判定に抗議する一幕もあったように、多くのホワイトホープたちが避けて通ろうとする黒人の強豪選手とも堂々と戦い、観客を満喫させた(一九一四年三月二十一日)。

 ちなみに、ホワイト・ヘビー級タイトルマッチにおけるカルパンティエのファイトマネーは、現在の貨幣価値で九十万ドルに相当するというから、正式な世界チャンピオンでないボクサーにしては桁外れの高額である。しかも彼はボクサーとしてリングに立つだけでなく、レフェリーから試合の講評まで行うマルチタレントでもあった。一九二〇年には「Brother of Brown Owl」という暗黒街小説まで著しているように、博学で文才にも長けたインテリジェント・ボクサーとして、その知名度は高まる一方だった。


 カルパンティエ人気に沸く花の都パリには、もう一人、時の人ともいえる話題のボクサーがいた。世界ヘビー級チャンピオン、ジャック・ジョンソンである。

 有色人種に対する差別が厳しいアメリカを逃げ出して、一九一三年から一九一四年にかけてパリで防衛戦を行ったジョンソンは、青銅の魔人像のような逞しい漆黒の肉体に群がる白人女性が後を断たないほどの人気ぶりで、黒人ボクサーの造形美を世に問うた先駆でもあった。

 反面、白人男性の憎悪を一身に集めていたため、かつてジョンソンに反則勝ちしたことがあるジャネットと互角の勝負を演じたカルパンティエとの対戦話が浮上してもおかしくなかったが、体格差と力量差がありすぎたのか、この世紀の一戦を手掛けようとするプロモーターは現われなかった。

 ところが、亡命者ジョンソンにとって居心地の良かったパリにもキナ臭い空気が漂い始めていた。カルパンティエがボルドーでヘビー級の中堅どころのキッド・ジャクソンに反則勝ちしてから二日後の七月二十八日、第一次世界大戦が勃発したのだ。

 愛国心に燃えるカルパンティエは、即座にグローブを壁に吊るして一週間後にはフランス空軍に入隊した。一九一五年四月に飛行隊に配属されると、偵察機、爆撃機のパイロットとして前線の偵察や観測任務に従事し、クロワ・ド・ゲール勲章、ミリテール勲章(フランスでは二番目の高位勲章)を授与されたほどだから、軍人としても一流だったのだ。

 花形ボクサーでありながら、戦時中もその英雄的行為により二度も叙勲を受けたことで、その名は遠くアメリカにまで知れ渡った。


 一九一九年七月、五年ぶりにリングに復帰したカルパンティエは、二度の欧州ヘビー級タイトル防衛戦を含めて五戦五勝(五KO)の成績を引っさげてアメリカに乗り込み、一九二〇年十月十二日、百戦錬磨のベテラン王者バトリング・レビンスキーから四ラウンドKO勝ちで世界ライトヘビー級タイトルを奪取した。

 この勝利でアメリカでの人気を決定づけたカルパンティエに対し、辣腕興行師のテクス・リカードは強すぎて不人気の世界ヘビー級チャンピオン、ジャック・デンプシーとの対戦を持ちかけてきた。

 客観的に見て、カルパンティエの勝ち目は限りなく薄い。しかし、勇敢なカルパンティエが勝てないまでもデンプシーにどこまで肉薄できるか、ファン心理からすれば、勝敗の行方はともかくとして、この二人の対戦を観てみたいのは当然のことであろう。

 一九二一年七月二日、ニュージャージーシティの特設屋外リングで行われたデンプシー対カルパンティエの世界ヘビー級タイトルマッチは、「世紀の一戦Battle of the Century」と銘打たれただけあって、全米各地で大変な評判を呼び、史上初のミリオンゲート(ゲート収入が約一八〇万ドルに達した)を記録した。

 結果がほぼ見え見えの試合で、これほどの切符の売り上げを記録したのは空前絶後かもしれない(賭け率は二対一でデンプシー)。あまりにも売れ行きが良かったため、テクス・リカードが「値段を倍にしとけばよかった」と悔しがったほどだ。ラジオでボクシングの実況生中継が行われたのも、この試合が最初である。

 リングに上がった両者がガウンを脱ぎ、トランクス姿で対峙した時、八万を越える大観衆はその体格差に失望感を露わにした。カルパンティエが体格負けしないように増量したにもかかわらず、両者にはまだ十六ポンドもの体重差があったうえ、ヒットマッスルが発達したデンプシーの逆三角形の上半身の前では、カルパンティエの均整の取れた筋肉美も貧相に見えてしまったからだ。

 第二ラウンドにはスピードで勝るカルパンティエの右ストレートがきれいに入り、デンプシーが腰を落とすシーンも見られたが、このラウンドで顎に放った一撃はナックルパートでなく親指が当たったため、指を骨折したばかりか手首まで捻ってしまい、その後は次第に手数が減っていった。

 カルパンティエの伸びのいい左ジャブはよく命中したが、この程度の軽打では鉄の顎を持つデンプシーは揺らぎもしない。猫が鼠をいたぶるように、徐々に間合いを詰めてくるデンプシーを足でかわすのが精一杯のカルパンティエは、四ラウンドに二度のダウンを喫し、無情のテンカウントを聴いた。

 この試合にカルパンティエが勝てば、すでに陽が暮れているパリでは赤い花火が打ち上げられる予定だったが、敗戦を意味する青い花火が上がり、いつもは賑やかな花の都の夜もこの日ばかりは沈黙したままだった。

 「世紀の一戦」は遠く離れた日本でも関心が高かったようで、プロボクシングがまだ根付いていないにもかかわらず、早くも二ヶ月後には記録映画が公開されている。

 デンプシーに敗れはしたものの、フランス人にとってカルパンティエはなおも「三色旗の誇り」だった。

 一九二二年五月十一日、イギリスのケンジントンで世界ライトヘビー級の初防衛戦に臨んだカルパンティエは、地元では「大英帝国の誇り」と称えられる元世界ウエルター級チャンピオンのテッド・キッド・ルイスを、試合開始早々、クリンチからの離れ際に放った右ショートアッパー一発でKOし、健在ぶりを示している。

 容姿端麗なカルパンティエには、映画の出演依頼も相次いだ。初主演作『不思議の人』(一九二〇)は、日本でも公開され、活劇ファンの心をつかんだ。

 これによって「蘭の男」の知名度は日本でも上がり、翌年公開されたデンプシー対カルパンティエ戦の実況映画も大盛況だった。実際、この映画を観てボクサーを志す若者も多かったという。そのうちの一人が「和製カルパンティエ」の異名を取った岡本不二である。

 明治三十八年(一九〇五)生まれの岡本は、カルパンティエより一回りほど年下だが、まだカルパンティエがヘビー級のトップクラスで戦っていた大正十三年(一九二四)に、日本拳闘倶楽部主宰の日本フライ級王座決定戦を勝ち抜き、初代日本チャンピオンの座に就いている。

 エキゾチックな美青年だった岡本は、本家同様、端麗な容姿からは想像がつかないほどの豪胆さを持ち合わせていた。オーソドックスなテクニシャンでありながら、王座決定戦と二度の防衛戦をいずれもTKOで決着をつけているように、安全運転でポイントアウトするより、チャンスと見れば倒しにかかった。当時の日本のレベルを世界と比べるのはおこがましいが、雰囲気やボクシングスタイルがカルパンティエ的だったということだろう。


 ルイス戦から四ヶ月後の九月二十四日、伏兵のバトリング・シキによもやのKO負けを喫し、無冠となるが(試合詳細はバトリング・シキの章を参照)、一九二四年からはカルパンティエ人気の高いアメリカに主戦場を移している。

 同年七月二十四日にニューヨークのポログラウンドで行われたジーン・タニー戦は三万人もの観客を集め、カルパンティエ人気を再認識させたが、そこから二年後には世界ヘビー級の王座に就く登り坂のタニーには歯が立たず、三度ものダウンを奪われたあげくに十五ラウンドにレフェリーストップされた。

 もはや立っているのがやっとという状態でありながら、最終ラウンドのゴングに応じてコーナーから出てきたカルパンティエは、最後まで勇敢だった。

 一九二七年に引退した後も、カルパンティエはしばしばビッグイベントのゲストとしてリングに招かれる一方、映画俳優としてもスクリーンで元気な姿を見せていた。

 世界恐慌で全財産を失ったが、映画出演の傍ら、なけなしの金をはたいて開店したカクテルバーが繁盛し、ナチスドイツによるパリ入城まで、三色旗の誇りとの会話を楽しみに詰めかけた各界のVIPで連日賑わいを見せた。

 かつて拳を交えたデンプシーとは親友になり、カルパンティエが亡くなるまでどちらかがフランスとアメリカを行き来し、互いの誕生日を祝い合うのが通例となっていた。それだけに、カルパンティエの訃報を聞いた時のデンプシーの落ち込みようは相当なものだったという。

 思うにデンプシーは、ピークを過ぎた自分にアウトボクシングを駆使してポイントアウトしたタニーより、自身の全盛期に真っ向勝負を挑んできたカルパンティエの方を人間的にも高く買っていたのではないだろうか。

 生涯戦績 88勝14敗(56KO)6分 

十代の若さで欧州中量級から重量級まで四階級を制覇しただけでも恐るべき十代だが、その栄光の座をいとも簡単に投げうって航空兵として前線を飛び回るなんて、怖いもの知らずにも程がある。これで水も滴るいい男なのだから、活劇の主人公そのものである。もし、現代の日本のイケメン高校生で十七歳で東洋ウエルター級、十八歳で東洋ミドル級チャンピオンになり、大学入学早々、ライトヘビー、ヘビーまで制したら、大谷翔平を超えるスポーツヒーローとして奉られた挙句に人生の道まで踏み外すのがお約束だろう。ましてや人生の絶頂期に志願兵として前線に出向くなんてありえない。そんなありえないことを行動で示したカルパンティエは、世界ヘビー級チャンピオンになれなかったかもしれないが、三色旗の誇りであると同時に人類の誇りもある。世界の四冠王も五冠王も彼の勇気の足元にも及ばないだろう。

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