第4話 お姉ちゃん
ノートに黒鉛を走らせる音が、部室内を練り歩く、午後4時ちょっと。
発音の張本人である炭木は、真剣な眼差しで教科書に目をやりながら、右手におさまるシャープペンシルへと力をいれていた。
しかし、その真横で、存在を主張するのはいつものアホ毛ガール。
アホらしく口をポッカリと開け、目の焦点を上にあげ、大きな口呼吸をくりかえす。
炭木が教科書に目をやるたびに、その目を細めているのは、このアホづらが視界のはしっこを侵略してきている証拠であろう。
そんなことをされてしまえば、当然、集中の線も切れてしまう。
「あの……なんですか、藤崎さん」
「ん? あぁー、ん? なんだい炭木君。宿題、わからないところでも、あったかな?」
「いや、別に」
「おぉ、そうかいそうかい。ま、私はね? 先輩、だからね? 教えることなんて、たやすいからね? 年上だから。そう、年上」
気持ち悪い話し方に、少し、炭木は顔をしかめた。
「それなら大丈夫ですよ。わりと自分でもできる範囲なんで」
「え、あっ……そうなの?」
すると、また、藤崎は口を開け、眼球だけを天へとむける。
この時間が、藤崎なりのNOWLOADINGであると、理解することは容易であった。
「…………じゃ、私も静観しましょうかね。ほら、大人の余裕ってやつよ。私はお前より、ふたつも上のお姉さんだからね。頼りたくなったら、お姉さんが力になりますから……ね!」
「はぁ……」
「まぁ、いつでも? 藤崎お姉ちゃんを頼っていいからね!!!」
「わかりやすく、めんどくさいな」
━━第4話 お姉ちゃん━━
あの現場を見られた以上、弄られることは、想像にかたくなかったであろう炭木。
しかし、相対するのは残念ガール。
あまりの承認欲求は、ななめうえ、というべきか、むしろ、ななめした、というべきか。
宿題くらい自分でできる炭木だったが、ここは出方を変えてみる。
「わかりました。じゃあ、ここ、教えてください。ちょっとややこしいんで」
そう、この女、へたにほったらかして、いつ鼻水が爆発するかもわからない。
ならいっそ、へりくだってしまい、なあなあのまま満足させてしまえば穏便なのでは、という判断だった。
「…………」
「……? あの、藤崎さん?」
「つーん」
「あ?」
「お姉ちゃんじゃない私はぁ、教えることがぁ、できましぇーん」
「うわ」
炭木、ドン引き。
つまり藤崎は、「頼られたい」ではなく、「お姉ちゃんとよばれたい」だけなのである。
だが、いくら炭木とはいえ、年上の他人を「お姉ちゃん」とよぶのは、こっぱずかしいもの。
なんらかの代替案をひねりだすしか、穏便への道はない。
「えーと、藤崎部長は……」
「つーん、つーーん」
「藤崎……氏?」
「えー、んん?」
「藤崎先輩……とか……」
「……っっ!!?!!!?」
突如、椅子をガタリと鳴らして立ちあがった藤崎は、自らの丹田をおさえつけた。
その場から1歩分あとずさり、意味もなく、丹田をおさえつけた。
「…………先輩」
「っっ!!!?!??!」
鼓膜へ愛撫。
声ちんぽ。
炭木のバリトンボイスが、藤崎の丹田付近のあれを、新たな世界に導かんとしていたのだ──!
*
拝啓。
暗い無重力空間を、私はひとり、さまよっている。
暗黒空間に点々とする粒子が絡み合い、ぶつかり、宇宙がスパーク。
星々の誕生、そして、崩壊。
私の鼓動のすべてが地鳴りとなって、大地を沈め、生きとし生けるものたちを、新たな姿へと成長させる。
見開く目は宇宙だった。
たるんだ口はビックバンだった。
やがて、氷河の世界に小さな花が芽吹き、生命の誕生を、みな、慈しむのだ。
せんぱい。
センパイ。
先、輩────。
──だがしかし、炭木はそんなこと知ったこっちゃなかった。
当然、彼女の変貌を見逃すはずもなく、まくしたてるよう猛攻する。
「お願いしますよ先輩! ここ、藤崎先輩ならできるでしょ!」
「お゛ぉッ!?」
「藤崎先輩は先輩ですもんねえ。先輩だから、教えかたもうまいんだろうなぁ!! ねえ、藤崎先輩っ!!」
「お゛ほぉォ゛ッ!」
炭木自身、正直、目的もなにもわかっていなかった。
彼の意欲を駆り立てた要因は、圧倒的背徳感のみ。
藤崎's cute aggression。
脳みそをどこかにおきさり、言語を失った藤崎は、キュートの部類にギリ、はいったのだ。
「…………しゅ、しゅみきぃ……」
「はい! なんすか」
「ここの答えぇ……! X=2ぃ!!」
眩い光沢からはじきだされた、赤子の産声のようななにか。
たれるよだれと真っ赤な顔が、妖艶にもみえるような気がする。
そして、その表情が、炭木の加虐心を刺激していくのだ──。
………………
…………
「お疲れ様。って、みんなもう揃ってるかしら?」
部活動開始の5分前。
時間厳守で扉を叩いた片岡だったが、タイミングとしては、あまりに最悪といえよう。
「せーんぱい。ここは、どうですかぁ?」
「う゛ぐフゥ゛ッ!! ここ、(2X−3)(X+1)、……ですぅ」
「わぁ、さすが先輩! 頼りになるなぁ。先輩が俺の先輩でよかったあ!」
「うひぁ゛ぁ゛ッ!? ひでァ゛っっ!! お゛お゛ッッ!?!?」
ストッパーが機能しないことでおこりえる、阿鼻叫喚の地獄絵図。
しかし、同級生が後輩にオホらされていようが、片岡が取り乱すことはなかった。
片岡ももう藤崎と出会ってから3年目になる。
こんなカオス空間であっても、状況の整理に、時間を要する必要はない。
「なぁに? 今日は、先輩デーかしら?」
「あぁ、片岡さん。お疲れっす。藤崎さ……先輩が、そう呼んでくれっていうから、なんか、楽しくなっちゃって」
なにげない「先輩」であっても、藤崎の体はビクッと反応してしまっている。
体は正直だな、というやつである。
いつもなら意味のない反論のひとつやふたつ、あったであろう。
だがいまは、恍惚としすぎて、コクリコクリと頭部をゆらすことしか、できないのであった。
「ふうん、おもしろそうね。でも、藤崎ちゃんばっかり羨ましいなー。私のこともさ、先輩って呼ばない?」
「ああ、全然。片岡先輩……で、いいですか」
「あら、素直でいい子ね。よしよーし」
片岡は、炭木の頭をポンポンとなでる。
そしてそのまま、聖母のように、炭木へと微笑んだ。
「あとこれ関係ないけど、センパイって、センズリとパイズリのキメラみたいよね」
「そのフリでそんなに関係ないこというんだ」
………………
…………
ふたりでの話が盛り上がり、当の本人を忘れていたことに気がついた炭木。
くるっと藤崎のほうへむき直して、軽快な口調で語りかける。
「すみません、藤崎先輩。じゃあ続き、続きやりましょ」
「…………」
「ん? 藤崎せんぱーい。宿題、教えてくださいよ。先輩だけが頼りですからー」
「……………………お前、よぉ……、……りじゃないのかよ」
「え」
「お前の先輩はぁ、ひとりじゃないのかよぉ……」
たちあがり、前傾姿勢で、炭木をビシッと指差す。
「私はぁ! お前ひとりの先輩がいいのっ!! 片岡も先輩だったら、意味ないのっっ!!」
「急にメンヘラみたいになるじゃん」
ところ構わず泣きじゃくる藤崎。
部室には、なんとなく「めんどうくさい」のオーラが、まといだしはじめていた。
3歳女児をなだめるがごとく、藤崎の前で片岡は屈む。
「えっと、藤崎ちゃん。私は別に先輩じゃなくてもいいから。ね?」
「そうじゃないのぉっ!! こいつにとって、先輩がその程度のものだったのが、問題なのぉっっ!!!」
「で、でも……ほら! 藤崎ちゃんってドS面したドMじゃない? これくらい、ぞんざいなほうが、くるものがあるでしょ?」
「そういう話じゃねえぇよっっ!!」
子供のわからず屋っぷりに、困惑する片岡。
しかし、少し引いた目でみていた炭木は、冷静な声色で提案する。
「じゃ、お姉ちゃんって呼べばいいんすか」
「え……、え?」
「俺も結構ハイになってるんで、いまなら臆せずにいけますよ」
「お、おおう……。え、ほんとに? 呼ぶの?」
目を点にした藤崎にかまわず、炭木は息をすうこともなく、かわいた唇をうごかした。
「藤崎お姉ちゃん。……で、いいんすか」
「!!!」
藤崎、昇天。
「おほっ……おほほ、ええやない! ええやないの!」
「はいはい。それじゃお姉ちゃん、宿題の続きを……」
「おーけーおーけー。続きな、続き。いやー、まさか、お前がこんなにすんなり、いってくれるとはな」
「まぁ、……はい」
だが炭木。
先輩と呼んだときのほうが壮大な反応だったのは、納得いっていない様子。
「じゃあな! 明日からもな! お前ぇ。これからずっとな! お姉ちゃんで、よろしく頼むな!!」
「はい……、うん、はい……………………………………
────……………………はい?」
………………
…………
朝の日差しが照りつける1本道に、人がごったがえして狭苦しさを感じさせる。
1年のものと同じ造りではあるが、階層が上というだけで、落ち着いた雰囲気があふれていた。
「ああ、いたいた。藤崎さん」
「ん……? さ? ん?」
「……藤崎……お姉ちゃん…………、これ、昨日、借りたノートです……」
「おう! おう! わざわざ悪いねぇ」
「あの……シラフがどうこうはこの際いいんで、せめて、人前ではやめましょうよ……」
「んあ? なにいってんだお前。もっと仲良しアピールすんだよ。私たちのよぉ。お前にもいい感じの敬称、考えてやらんとなぁあ!」
「ほんと、勘弁してください……。俺、もういくんで、また放課後に」
「うん! じゃあなぁ!」
炭木を使役できたのは、おそらく、藤崎をおもちゃにした罪悪感から。
それにまったく気づいていない、このナチュラルサイコは、嬉々として、もてあそぶのだ。
肩を窄ませた炭木の後ろ姿を、ご満悦に眺めながら、鼻歌まじり。
ノートを胸にだきかかえ、時折「ぐへ、ぐへへ」と発する鳴き声が、周囲の鼓膜を汚染する。
しかし、その様子を陰ながらみていたのは、「一軍おんなキラビヤカ〜ズ」代表、まっつんこと松山聖良。
一軍女子には興味本位以外の感情などあるわけがなく、現在進行形で教室の孤島へとむかう藤崎へと、待ったをかけた。
「ねぇ〜、藤崎ちゃーん。さっきのだれぇ?」
「ふえっ!? 松山さんっ……!? ……あの、部活の……後輩、だよ……。
ほら、これ、ノート……届けてくれて……」
「ふーん、仲良ぃんだねぇ〜」
「う、うん……。大切な……友達、です」
突然のギャルからの無茶振りに、思いがけず「推し」の話ができた藤崎は、ニヤけた頬を隠そうともしない。
炭木からはオリジナルの敬称でよばれ、同級生の女子とも久しぶりに会話ができた。
藤崎にとっては、とても有意義な朝になったといえよう。
清々しい1日が、今日も始まろうとしていた──。
「ところで、藤崎ちゃんって、こぅはぃと姉萌ぇプレィとかすんだね」
「……っっっ!!!?!??!!!!!??!」
藤崎のお姉ちゃんブームが終わった。
あと全部、炭木のせいにしといた。
転換多いと話が長い。
もっと進めば、毎話1万字とかなりそう。