z世代における人生の意義ついて
我々は今、人として生活するという意味において、最も重要な哲学的な問題に瀕していると思われる。それは、人生の意義の剥奪である。普通の人々は、我々は人生というものに対し、そのような概念にそもそも意義があるかどうかすら考慮に入れることはなかっただろう。少なくとも、ヤスパースがいうところの限界状態のような立場に置かれた人は、このような問題に頭を悩まされ、路頭に迷うが如く人生を立ち止まろうとする。しかし、人生は道ではなく、常に時間によって制約されており、立ち止まろうと試みれば、彼らは時間と共に歩みを進める社会や、それに属する人々によって取り残されることになるが、だいたいこのような立場に立たれた人間は、その現状に絶望するか、それから逃れ去ろうとひたすら懸命にもがくことを試みるのである。それは、最悪の形において、人生からの逃亡という自殺をしたり、永遠に立ち止まることで常に孤独になることを望んだり、今の立場であることを無理やり納得をしたり、新しい自分に生まれ変わることを目指して無理やり前進したり、最後に精神をすり減らしながら日常を過ごしたりするのか、そのどれかに位置する。
本来、若い頃は「未来の自分」など深く考える必要などなかったかもしれない。これまでは、どうにかなるだろうという信念が如何なる人の内にあり、そのような信念によって、自身の人生をこれまで保証してくれていたのである。こうした楽観主義は、我々の生活において重要な思考であり、そうした思考は人生全体まさに包みこんでくれるようなベールとなって、未来にある不幸をまさに撥ねつけるようなものであっただろう。例えば、学生時代には、テストのことなどいざ知らず、部活動に励んだり、友人と楽しく過ごせたりする、未来そのものがまさに抹消されているような生き方、すなわち現在しかないかのような生き方が我々にはあったのだが、そのようなベールがまさに、z世代の前から消え去ろうとしている。どのような状態かと言えば、SNSの発展によって、この先の人生がどうなるのか、予感できてしまうということである。
SNSには多種多様な人がいるが、彼らにも一つの共通点があり、それは日本社会という構造の中に「存在」していることである。そのような存在のあり方において、自分の意志に関係なく成功者の人生を目の当たりにすることができることは、我々にとって未来を予感する上では指標になりうる。したがって、我々は死すべき運命にあるが、ある人が持っている素晴らしい幸福を得られぬまま私は死すべきなのか、というニヒリスティックな問題が立てられる。その問題に苦労する者は、ある人の容姿、富、友人、時間の余裕に「嫉妬」する。特に成功者はこのようなものをひけらかし、さらに幸福を得ようとSNSで発信し続け、未来がそう明るくないと予感した者たちに眩い光を落とし続ける。その者たちは暗闇から成功者をひたすら嫉妬し、彼らがもし失敗をするようなら、首を取るかの如く攻撃をし、成功者という立場から、敗北者という立場へ転落させようと必死になる。このような行動は自分のいる立場が変わるわけでは決してなく(強いて言うなれば、SNSにおける影響力が上がるかもしれないが、それはごく少数である)、時間の浪費である。それに気づかない者たちはむしろ幸福であるかもしれない。しかし、その幸福は真の幸福ではなく、自身の不幸を他者の不幸によって、紛らわせているだけではないのか?紛らわすことに快楽を得ることとは、本質的には堕落した人格がすることであると、この際はっきりと断言した方が良いだろう。
z世代はこれから死ぬまでの人生の「これから」を、若い頃からだいたい想像できてしまう。本当は40,50代で来るであろうニヒリズムが、ちょうど若い頃に到達してしまう。
自分の人生が不幸であるという時、自分のような人生を他者に歩んで欲しくはないと願う、優しい人もいるだろう。そのような人は反出生主義へと傾く。また、人生がこのようなものであるから、仕事や学業をすぐに諦めたり、早くから自殺を考えたりと、苦痛に耐えることが馬鹿らしくなる。
以上の環境から、自然科学以外の学問の評価が上がるのではないかと意気揚々と唱える学者もいる。しかし、悲観的に言えば、自然科学では「人間」とは何か、について研究が進んでおり、人文科学に残されたのは自然科学によって踏み潰されてきた残骸でしかない。こんなものによって人生の意義について考えることは無駄なもののように思えるだろう。
それによって、人々は学ぶことを諦める。神は存在しないし、天国も地獄もない、真っ当に生きていても死後の裁きはなく、(この表現は適切ではないのだが)今世では悪を貫いてもなお幸福な者のほうが「勝ち組」なのかもしれない。以上の考えによって、我々にはもはや嫉妬しか残らない。したがって、「正義」という中身のない概念に裏打ちされ(リベラルもこれに属する)、失敗に対して敏感になり、相手をいじめ倒し、そのような失敗者に対する福祉は無視し、最終的には「嫉妬」する人生を肯定してしまう、いわば人生の意義そのものが「嫉妬」によって構成されるという悲劇がここに生まれるのである。
我々は寛容的に生きなければならないとされるが、この寛容はどこから現れるのか?神は死んだのなら、寛容が全てではないことは明白である。また、この寛容を褒めてくれる者は少数である以上、我々は寛容が受け入れられる土壌を放棄してしまったのだろうか?人生の意義が剥奪され、今日嫉妬によって構成されるようになった現代において、我々はどのように生きれば良いだろうか?このような倫理学的な問題は幾つも作ることができるし、皮肉なことにSNS上で論争の種になっていることもある。これに希望を抱いても良いのだろうか?我々は再び人生の意義を考え直す必要があるが、その隙間は残されていないように思える。