宵瑠
「先生!起きてください!」
その日のアリアは、朝早くに彼を起こした。
まるで、遠足が待ちきれない子供のように。
お腹がすいたというアリアのために、早朝からせっせと朝食を作り、黒糖のアップルパイをおやつに食べたいと言うから、その下準備もした。
アリアは、親鳥の後ろをついていく雛のように、彼の後ろを付け回して、離れなかった。
時間が空くと、花畑に彼をつれていき、花冠を作るようにせがんだ。
今まで‘’彼女‘や歴代聖女に、散々作らされてきた彼の花冠は、見事なものだった。
アリアはその花冠を見て、ねだるように頭を近づけてくる。
彼はそっとその頭に花冠を被せてやると、アリアは心底嬉しそうに笑った。
そして立ち上がると、花畑を踊るように駆けた。
足元がおぼつかない彼女を見て、彼はすぐに立ち上がって、近くに歩み寄る。
いつ転んでも大丈夫なように、手を伸ばしながらも彼女の好きなようにさせた。
「先生!」
笑いながらくるくる回る彼女――
その姿は、最後に精一杯、太陽を向いて咲こうとしている花のようだった。
次の日、アリアは目を覚まさなかった。
体は温かいし、呼吸もしている。けれど、呼びかけても目を開けない。
「アリア」
彼は、何度も彼女の名前を呼びながら、そっとその頭や手を撫でた。
人智を超えた存在の彼であっても、消えゆく命を留めることは出来ない。
その時だけは、彼にできることは人間と変わりなかった。
ただただその瞬間を、傍で見守ること―ー
陽は暮れて、夜がきた。
窓から見えるのは、闇に浮かぶ綺麗な満月だ。
『君にぴったりの名前を考えたんだけど』
満月を見るたびに思い出す。彼女がくれたこの名前は――果たして祝福なのか、それとも呪いなのか。
決まって、満月の日にその命の灯を消していく聖女たち。
まるで決して約束を違えてくれるなと、彼に伝えるように。
「せんせ」
アリアの掠れる声に、彼はハッとベッドへ視線を戻した。
「始まりの樹へ」
始まりの樹。
世界を隔てる結界の核となる――あのウロのある樹だった。
彼は毛布ごとアリアをそっと横抱きにして。大樹の下へやってきた。
彼女を抱えたまま、大樹に背中を預けて、座り込む。
満月に照らされたアリアは小さく微笑んで、目を細めた。
「夢を見ていたんです」
「どんな夢だった?」
彼の声が、いつもよりも優しく響いた。
「よく覚えてなくて……でも、ずっと知りたかったことがわかりました」
彼は何も言わずにアリアを見たまま、次の言葉を待った。
アリアは、右手をゆっくりと彼の胸へと当てた。
「ヨル」
その名前が彼女の口から出た瞬間――アリアの体から光があふれ出した。
それは彼女の手を通って、彼の胸へと流れ込んでいく。
彼の体を通った光は、彼の背から大樹へと流れ込み、それを吸収した大樹が、葉に光を灯した。
辺りが満遍なく照らされ、‘’報せ‘’の花たちが、一段と綺麗に揺れた。
同時に、彼女の声が聞こえた。
『宵に浮かぶ瑠璃と書いて、ヨル。貴方にぴったりな名前でしょ?』
「素敵な名前ですね」
「アリア」
彼はアリアの頬へと手をあてた。
アリアは彼の手に、自分の手を重ねる。
「またすぐに、次の聖女が先生のもとへやってきます」
アリアの手が彼の頬へと伸びた。
「そんな悲しそうな顔しないでください。
‘’あの方‘’も‘’私たち‘’も、ずっと先生の傍にいます。だから……」
息も切れ切れに話すアリアに、彼は首を振った。
「アリア、もういい。わかったから」
「先生」
彼の頬に伸びた手が、彼の髪を掠めた。
アリアは精一杯笑おうと、口元を引き上げ、目を細めたように見えた。
「おやすみなさい」
その時――‘’報せの花‘’が最後の命を散らし、その花びらが一度に舞い上がらせた。
花吹雪が、彼とアリアを包み込み、視界の全てを遮る。
彼女の手が、力なく落ちるのを彼は受け止めた。
「おやすみ、アリア。良い夢を――」
彼はアリアの手を握ったまま、頬にあてていた手で、アリアの頭を撫でた。
幼い頃の彼女、そして年老いた彼女が眠るときに、いつもそうしたように――
舞い上がった花びらが、大地を埋め尽くす。
その中で、彼は静かに、夜空に浮かぶ瑠璃を見上げた。
25つ目の墓石の前に、彼は‘アリアが好きだった花を置いた。
ずらりと並ぶ、歴代聖女たちの軌跡。
今でも全員の顔を、容易に思い返すことが出来る。
彼は、アリアが編んでくれたマフラーを首に巻いた。
次に起きたとき、寒いと困る―ー
次に‘’報せの花‘’が咲くのは、15年――いや20年くらいは先だろう。
彼にとって、それは取るに足らない、あまりにも短い時間だった。
それまで少し、眠ろう――
彼はウロの中、始まりの樹に体を預ける。
インディゴのマフラーに顔を埋めると、薄明の空に輝く一番星は、静かにその眼差しを閉じた。
ありがとうございました!
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