彼と聖女
永い永い時を生きてきた。
彼とは違う生き物たちが、そう生きるように、社会に溶け込み、愛を育む真似事をした時期が、彼にもあった。
しかし、そこから得られるものは、さほど多くはなかった。
滅びた世界を見た時ですら、彼が知識としてだけ知っているような感情が、湧き出ることはなかった。
世界に生命が宿り、再び文明を築きあげるまでの長い間、彼は眠りについた。
新しい世界では、今までよりも少しだけ、理解を寄せることのできる種族が誕生した。
幻種族。
自然と共に誕生し、強く抗うこともせず、世界の選択に身をゆだねる種族。
流れに身を任せ、生と死をあるがまま受け入れ、そこに一切の疑問を持つことのない――そんな種族だった。
彼のように、人間とはかけ離れた価値観を持つ彼らと、時を共にしたこともあった。
しばらくの間は、心地よさを感じていた彼だが、気が付いたときには、その地を離れていた。
何故と問われれば、理由はない。
それに対して、幻種族は彼を追うことも、探すこともないこともない。
幻種族にとって、彼もまさに、自然の摂理の1つだったに違いない。
あらゆる種族で溢れかえり、世界が混沌へ向かおうとしていた時期だった。
彼は初めて、眷属を生み出し、一時は世界を支配してみたこともある。
そうすれば何かがわかるのではないか――なんとなく……そう、なんとなくそんな予感がしたからだ。
影の王。暗黒時代に彼はそう呼ばれていた。
絶対的な力で配下にした、あらゆる種族と眷属。それらに向けられる感情によって、何かがわかるのではないか――
そんな期待をした時期が、彼にもあった。
そのころの自分が、一体何を期待していたのか、彼にはもう思い出すこともできない。
そんな彼が世界を支配する時代は、彼の気まぐれによって、唐突に終わった。
彼が、姿を消したことを知ったあらゆる種族は、世界の利権と王の座を賭けて、争いを始めた。
それが、後の3大種族対戦の始まりであった。
「ひまわりが見たいです」
そう言いだしたアリアのために、彼は馬車を用意した。
本当なら彼の力を持ってすれば、一瞬先には、アリアの目の前に、ひまわりを見せることなんて容易いことであった。
『君はロマンを学ぶべきだよ。欲しいものが、すぐに手に入っちゃうことほど、詰まらないものはないんだよ?
それまでの過程があってこそそれは、より美しく感じるものなの。わかった?』
きっとアリアも、同じようなことを言うに違いない。
そうして用意した馬車に、出来るだけアリアが腰を痛めたりしないように、クッションを敷き詰め、家を出発した。
馬を繰るのは彼ではない。
馬車を借りに言った時に「聖女様のためになることなら、是非自分をお供に」と、声をあげたものが多かったのだ。
そのうちの一人を、適当に選んだ。
一番早くに声をあげた、若い青年だった。
狭い島だ。そんなにはかからない。
年老いた人間に、遠出は負担がかかるに違いない。だから帰りは魔法で帰ることを予定していた。
時間は十分にある。
窓を開けて、何の変哲もない景色を眺めるアリアは、何がそんなに楽しいのか――始終ニコニコしていた。
まるで、初めて遠出をする幼子のようだ。
聖女として、世界各地のあらゆる景色を見てきただろうに――
しかし、そんなアリアの顔を見ているのは、悪い気分ではなかった。
少し景色が変わっただけで声をあげ、鳥や蝶を見つけては、指さしながら彼へと教えた。
そんな彼女を見て、彼は凝り固まった胸の奥の何かが、和らぐ感覚を覚えた。
この感覚は初めてではない。けれど、それがなんと表現するのが妥当なのか、彼は未だに見つけられていない。
種類はわかる。楽しいだとか、嬉しいだとか――そういったものの類だ。
そもそもこの世界では、頻繁に言語が変わるのだから、わざわざ言語化する必要なんてない気もする。
ただこれは――彼が長年、探してきたものに近い気がしていた。
途中、御者を買って出た青年が、湖の前で馬車を止めた。
「少し休憩しましょう」
そんな言葉を聞く前から、アリアは目の前に広がった湖を見て、子供のようにはしゃぎだしていた。
青年の選択は正解だったのかもしれない。
一人で勝手に、飛び出そうとするアリアを見て、彼は慌てて、彼女に手を貸した。
「気を付けるんだぞ」
「落ちたら、すぐ助けてくださいね?」
冗談にならない冗談を言って、微笑むアリアに、彼は唇を引きつらせた。
「聖女様からこんなに信頼されてるなんて、さすが影守様です」
影守――いつしか世界の人々は、彼のことをそう呼んでいた。
聖女越しに、密かに広まった彼の存在。実際に見ることが出来るのは、この島の住人だけではあったが――
湖へと向かうアリアの背を見守っていると、隣で青年が言った。
彼も微笑ましそうに、アリアの背を見つめている。
「信頼?」
「あれ?違いました?」
聖女と彼の関係を見て、人は口を揃えてその単語を出す。
「どうだろうか」
その言葉に伴う感情を、彼は知らない。
何故なら、彼は絶対的強者であるが故に、誰かを信じる必要も、頼る必要もなかったからだ。
歴代聖女は、彼の近くにさえいれば何の心配もない。一片の疑いもなくそう信じている。
まるで幼子が、親を神だと思うように。
生殺与奪の権利を、当たり前に明け渡すように。
見る人から見れば、たしかに絶対的信頼とも取れるだろう。
しかし彼女たちは違う。これは、もう刷り込みといっても過言ではない。
しかし、それが何であるにせよ、彼には大差ないことだ。
それが重荷とは感じないし、彼も彼で、それが当然のことだと思っているのだから。
そこに、疑問が入り込む余地など、最初から存在していない。
「先生―!」
老体のどこから、そんな声を出しているのかというほど、よく通る声だった。
湖に背を向けて、小さな体で、精いっぱい手を振っている。
後ろでは、陽を受けて輝く湖が、彼女の顔を隠していたが、見えなくてもどんな顔をしているかなんて、容易にわかってしまう。
このままは、アリアの好きなようにはしゃがせておくと、ひまわりを見る頃には疲れ切ってしまうだろう。
そう思って、彼女を迎えに行こうと足を踏み出した瞬間――
一陣の風が通り過ぎた。
その風を受け止めたアリアが、大きく態勢を崩す。
青年の声にならない声が、その場に響いた。
アリアが湖に落ちることなんて、起こりえない。
何故なら、目の前には彼がいるのだから――
柔らかな風が、湖に傾くアリアの体を抱きとめ、そのまま彼の元へと送り届ける。
彼の元へ帰ってきた、アリアの顔は恐怖どころか、まるでとても楽しいことが起きたように期待感に満ちていた。
まるで、もう一度!と言わんばかりである。
アリアにとって、彼の行動は当たり前のことで、彼もまたそうなのだ。
そんな2人の様子を見守っていたらしい青年が、突然堪えきれずと言った風に笑い出した。
「影守様が、納得してない理由がわかりました。
これは……信頼なんて言葉じゃ、足りませんね」
笑っている青年を見て、アリアは小首を傾げる。
そんなアリアを見て、彼は呆れとも苦笑ともつかないため息をついた。