アリとキリギリスと恋
「あらあら、先生はキリギリスなのかとばかり思っていたのに」
朝。
アリアは、引きずるほど大きなカーディガンを着たまま(着られていると言った方が正しいかもしれない)、家の裏にある畑で彼を認め、開口一番そう言った。
「キリギリス?」
「知らないんですか?」
「知らん、だがいい意味ではないことくらいわかる」
アリアは彼の返答に、ふふふと楽しそうに笑った後、「おはようございます、先生」と眩しそうに朝陽を仰いだ。
そんな彼女を見て、彼もそれに倣う。
彼の目には太陽は眩しすぎるが、何度も彼女たちのそんな仕草を見るたびに、いつしか真似をするようになっていた。
キリギリス。
ああ、アリとキリギリスか。
古い童話にそんなものがあったな、と遅れて彼は気づいた。
「働かざるもの食うべからず」という、言葉も相次いで頭に浮かぶ。
″彼女″がよく口にしていた割に、ほとんどを棚に上げていた言葉だ。
彼を働かせるために、口にしていただけだったのだろうが。
そもそも彼に食は不必要であるため、これっぽっちも適応されないのに、″彼女″は事あるごとにそう言った。
そういう意味では″彼女″は、独裁者であったイメージも強い。
聖女としての″彼女″を知らない彼にとって″彼女″は、ただの世間知らずの我儘なじゃじゃ馬にも等しかった。
「まぁ、俺はどう考えたってキリギリスに違いない」
小さな呟きを、アリアは聞き逃さなかったようだ。
「お気に召しました?」
からかうように聞くアリアに、彼は面白くないものを感じて、それには応じず、
「今日のアップルパイはなしだな」
と、ひとりごちる。
「あら、いつのまにそんな意地悪言うようになったんですか?じゃあ、代わりに私の好物を作ってください」
丁度、そうしようと思っていたところだった。
彼は瞬時に、彼女の好物と「部屋」に残っている食材を、頭の中で照らし合わせた。
‘報せ’の花が咲く理由うちの一つは、この島全土に、聖女の存在を伝えるためであった。
聖域に守られ、平和に暮らす混血種の人々は、その報せを受け取ると時折、聖女の顔を見にやってくる。
そんな者たちが感謝の意を込めて、贈り物を置いていく――そんな習わしが、気が付けば出来ていた。
アリアの好きなシチューを作ろうと思っていたが、残念ながら肉がもうない。
そう思っていた矢先、タイミングよく混血種の男女がやってきた。
魔族と幻種族の血は、互いに相反して、子を成すことが出来ない。
しかし、そこに半分でも人間族の血が入っていれば、それは話が違ってきた。
人間族はある意味では、3大種族を繋げる要素を持っている。そんな事実に、彼は感心にも似た不思議な感覚を覚えたことがある。
すぐに淘汰されるだろうと思われていた脆弱な種族が、こうして種族を繋ぎ、繁栄させるもたらす楔になっているのだから。
家の中、でなにやらしていたアリアを呼んで、混血種の男女を出迎えた。
よく見ると女性は、腕に生まれて間もない赤子を抱いていて、アリアは「あらあら」と赤子を見て微笑んだ。
どうやら聖女に、名付けをしてもらいたくて来たようだ。
アリアの対応は妙に慣れたものだった。こういうことが、今まで何度もあったのだろう。
聖女、は純潔でなければならない――世界では、そういわれているらしい。
純潔を犯されれば、聖なる力は失われてしまう。
勿論、それが虚偽であることを彼は知っていた。
何せ‘’彼女‘’が、そんな些細なことを気にするはずがないのだから。
しかし、不思議と歴代聖女は、たったの一人も結婚することもなかった。それどころか、誰かと恋愛したという話すら、耳にしたことはない。
彼は名づけを頼みに来た混血種の男女と、赤子の名を一生懸命考えているアリアを、遠目に見ていた。
彼には誰かを好きになるということも、ましてや愛するなんて感情は、これっぽっちもわからない。
幻種族はさておき、魔族や人間は子孫を残すために、誰かを愛する。
それは遺伝子に組み込まれている、本能的な感情に近い。
それが彼の見解であった。
彼はこの世界で唯一で、死ぬことはなく、子孫を残す必要もない。
望めば、眷属を増やすことは出来た。しかし、それはとうの昔にやめたことだった。
だからきっと、永遠に愛という感情を知ることはないのだろう。彼はそう思う。
そして、それに対しても、何の感情も覚えることはない。
話を終えたアリアが、混血種の男女へと手を振って分かれたあと、彼の方へとやってきた。
その手には、何やら袋が下げられている。
「今日はご馳走ができますね、先生」
中には、鶏肉が入っていた。
これでアリアの好きなシチューが作れる。
家の中へ戻ろうとして、ふと彼はアリアへと向き直った。
「どうかしましたか?変な顔してますよ、先生」
「アリアは、誰かを好きになることはなかったのか?
聖女だからといって、禁止されてはいないだろう」
するとアリアは、目をぱちくりと瞬かせ、ふふふ、とおかしそうに笑った。
彼は、何故彼女が笑ったのか、理解できなかった。
彼女はそのまま彼を追い越して、嬉しそうに家の方へ向かっていく。
彼は怪訝に思いながらも、彼女の後ろを歩いてついていった。
家の扉を開けた彼女は突然、悪戯に成功した子供のような顔をして、振り向くと、
「私は10歳のころからずっと、先生のことが好きですよ」
そう言って、花を咲かせたように笑った。
同時に、歴代聖女が彼に向けてきた、いくつもの笑顔が蘇り、重なった。