第一楽章「若き日の『夢、情熱』」(1)
自称底辺DTMerの幻想交響曲
大黒 天(Takashi Oguro)
第一楽章「若き日の『夢、情熱』」(1)
ベクトルと三角関数の知識を駆使し、じっくりと力学の問題を解いていく。物理の力学問題は俺が一番得意とする分野だ。公式を使いつつ、理詰めで問題を解いていくのはパズルを解いているような快感も覚える。
ヘッドホンでクラシックのCDを聴きながら、俺は大学受験の勉強を続けている。
今、聴いているのは、ベルリオーズの『幻想交響曲』。自分にとって一番好きな曲だ。
標題音楽と言えば『運命』や『田園』などを書いたベートーヴェンの方がはるかに有名だけれど、このベルリオーズはそれに先駆けて音楽に「標題」を込めた先駆者だと俺は思っている。
俺は音楽が好きだ。そこに理由なんてものはない。
少し隙間の空いた窓から、冷たい風がスーッと吹き抜けてくる。春も間近に迫っているものの、まだまだ冬の寒さは抜けない。
そして、ずいぶんと人がまばらになった教室の中で、俺は色々なことに思いを巡らせていた。
俺の名前は水沼一馬。尾張中島高校の3年生で、理系クラスに所属している。
私立大学への進学が決まった奴らは、もうほとんど登校してこない。卒業式まで多分こんな感じなんだろう。だが未だ進路が決まっていない俺は、担任教師との話し合いの時を待っていた。
私立の本命だった東海工業大学が不合格となり、滑り止めだった名南工業大学しか合格しなかった俺は、国公立大の受験で一発逆転を狙っていた。志望しているのは、自宅から通える距離にある岐阜市の稲葉山大学だ。
教室の隅では、同級生である富士谷が、担任と話をしている。担任はなんだか重苦しそうな顔だ。
「なあ、富士谷。そんなクリエイター系の専門学校へ行ったって、仕事に就ける保障はないぞ」
面長な顔を更に伸ばし、いぶかしげな表情で担任は富士谷にそう告げる。しかし、当の富士谷は全く冷静な表情を崩さない。
「でも先生、俺はどうしても作曲の道に進みたいんですよ。俺にはもう、この道しか有り得ないと思ってますし」
富士谷は至って自信ありげな顔でそう応える。
この富士谷は軽音楽部の部長を経験していて、校内ではちょっとだけ有名な奴だ。以前、夏休み明けに髪を赤く染めてきて教師陣から激しく叱られていた問題児ではあるが、確かにギターやキーボード、それに歌は俺なんかより格段に上手い。
けれど、流石にそれだけで大学に行かず、専門学校へ進むのはどうかと俺も思う。富士谷は成績もいいので大学に進んだ方がずっといいんじゃないか。音楽で食べていけると確信しているのは、自信過剰なんじゃないかと俺は密かに感じている。
まあ、本人の進む道だし、俺にはなんの関係もないけれど。俺だって音楽は大好きだけど、その道で食べていこうなんて更々思っちゃいない。
やがて担任は小さく息をつき、富士谷のところから俺の机の前まで歩いてきた。
「稲葉山大学か……なあ、水沼。受けたいのはやまやまだが、センター試験のボーダーまで70点くらい足りないぞ」
少し困惑した顔で、担任は俺をゆったりと諭す。
「でも俺、どうしても稲大を受けたいんです!」
俺はダメ元でもいいから、稲大を受けたいと思っていた。もちろん、もし落ちたら名南工大へ行く覚悟もできてる。
「諦めた方がいいと思うけどな……それより、今のお前の成績ならここがいいと思うが、どうだ?」
そして担任は、一枚のパンフレットを取り出した。
「出雲……大学?」
出雲大学って……島根県の国立大学じゃねえか?
数日後。
「確かに国立ではありますが。でも、そこへ一人で行かせるとなると……」
空はもう夕暮れの闇に染まろうとしている頃。肌寒い教室の中で、俺は母を連れて再び担任と面談していた。流石の母も、島根県の大学を受けることに関しては難色を示している。
俺の母、静子は三重県出身で、愛知水鏡大学に進学したのをきっかけに愛知県に出てきた経歴を持つ。そこで同じ大学の先輩だった俺の父である良一と出逢い結婚。で、俺が産まれたってわけだ。
しかし、自分は大学生時代に一人暮らしをしていたのに、俺の事は懸念を示すんだな。島根県があまりに遠いってのもあるんだろうけど、俺はなんだか不思議に思った。
「実際に行くかどうかは受かった時に考えればいいんですよ。まずは受けてみたらどうですか?」
心配する母の様子を察してか、担任は至って柔和な声で母を説得する。
「ねえ、一馬。あなたは出雲大学を受けること、どう思ってるの?」
相変わらず母は少し戸惑った表情のまま、俺に問いかける。
「そうだね……理工学部もあることだし、受けてみるのも悪くないかと思うけど」
正直言うと、俺は別に出雲大学を悪く思ってはいなかった。志望している理工学部だってあるし、なにより自分の実力を試すいい機会だと思うくらいだ。
「うん……それが一馬の意思なら、私も応援するね」
俺の言葉に、母も納得したようだ。
「では、願書を渡しておくので、書き漏れのないように記入して郵送してくださいね。あと、受験料の振込も忘れずに……」
担任は穏やかにそう言うと、パンフレットと願書が入った書類一式を俺たちに手渡した。
名古屋駅から新幹線で岡山駅まで辿り着き、すぐさま特急に乗り換える。乗り換え時間はそれほどなく、ホームも離れていて忙しない移動だ。
出雲大学がある松江駅までは岡山駅から電車に揺られて2時間半くらいといったところか。
深い山間を列車で突き抜けながら、不思議と俺の気持ちはわくわくしていた。一人旅は嫌いじゃないし、それに松江市がどんなところかもこの目で見てみたかったし。
要は俺が「松江」という街を好きになれるかどうかだ。
そして翌日。
冷たい講義室の椅子に座った俺は、試験開始のサイレンが鳴るのを待っていた。周りにいる受験生たちも、引き締まった顔でその時を待っている。
自分にとっては人生を賭けた大勝負だ。さあ、いくぜ!
ウーーーッ
低いサイレンの音と共に、俺は数学の問題が書かれた冊子を開いた。
最初の大問は三次関数の解析問題。これなら俺にも解けそうだ。
「いける!」と俺は確信し、必死で問題を解き始めた。
続く物理の問題も手ごたえを得ることができ、俺は最高の形で出雲大学の試験を終えることができた。
午前中で試験は終わり、大学前から松江駅へ向かうバスに乗りながら、俺は窓の外の景色を眺めていた。
駅周辺はビルが立ち並んでいるが、そこから少し離れた場所は景色が映える場所が多い印象だ。特に橋の上から眺める川の風景が特に心に残った。
まだ試験結果は分からないけれど、もし合格したらこの街に住んでみてもいいかも。そんなことまで俺は思っていた。
そして試験結果は合格。俺は出雲大学の理工学部・電気電子工学科へ進学することとなった。
買ったばかりのノートPCを立ち上げ、ダイヤルアップ接続を試みる。
時間も午後11時を過ぎた。「ピーヒョロロー」というトンビの濁声みたいな音が鳴り響き、いつもの時間にインターネットに接続する。
学業もそこそこに、俺は松江市にあるアパートの自室からのインターネットにハマっていた。
一人暮らしなので、多少夜更かししたって親にうるさく言われることもない。たまに寝過ごして授業の1コマ目をサボることもあるが、今のところ学業にそれほど支障は出ていない。
ところで最近、俺がハマっているのが、音楽ファイル「MIDI」を聴くことだ。
きっかけは些細なことだった。MIDIのミの字も知らなかった俺は、PCをいじっている時にプリインストールされている「VSC-88」というソフトを見つけた。最初はなんだかよく分からなかったけど、調べてみると音楽ファイルを再生するソフトだと分かり、試しにネットで拾ったMIDIファイルを再生してみた。
なんというか、新しくて瑞々しい世界が見えた感じだった。華やかで、それでいて均整の取れた音の塊に触れたとでも言うべきか。
もちろん、この曲を創った人の技量も高いんだろうけど、まさかPCのシンセサイザーでここまでの音が表現できるなんて想像していなかった。
PCのスペックが追いつかないので少しもたついた感じだったけど、それでもこれだけ質の高い音楽がPCで表現できるんだと、俺の胸からは感嘆の言葉しか浮かんでこなかった。
しばらく調べていると、PCでMIDIなどを用いた音楽活動をすることを「デスクトップ・ミュージック」(DTM)と言うんだそうだ。更には、音源とそれを制御する「シーケンサー」というソフトがあれば、誰でも簡単に音楽が創れることも分かった。
試しに俺はフリーのシーケンサーをダウンロードし、音を鳴らしてみる。
うん、澄んだピアノの音が気持ち良く鳴った。俺のDTMerとしての産声の如く。
これが俺とDTMの出逢いだった。そしてこのことが、今後の俺の人生に深く関わってくるのだ。