囚われた金色 1
走れ走れ走れ!
鬱蒼とした森の中にある洋館、その廊下を全力疾走する。
窓から差し込む光はほぼなく、日中だというのに薄暗く、陰気な雰囲気が漂っていた。
だが、そんな事は今どうでも良い!
視界に入る一つ一つに求めるのは感想ではなく、“この事態”を打開できる何か。
「ガアアアアアアッ!」
「っ!」
もう追いつかれたのか、と舌打ちする。
振り返って様子を確認したいが、速度を下げる愚行など犯している暇はない。
そもそも、その恐るべき姿はマジマジと拝んだではないか。
硬くとがった毛並み、鋭い牙、黒く縁どられた瞳孔にて輝く金色の瞳。
だが、その下半身は人の姿、服装をしている。
まるで、おとぎ話に謡われる人狼かの如く……。
追いかけてくる時は、二足歩行なのか四足歩行なのか。
そんなくだらない考えが浮かぶのは、現実逃避からか知的好奇心からなのか。
一つわかっているのは、体力の限界が近づいてきている。故に、テンションが徐々に上がっている事だった。
ランナーズハイ……なのだろうか。
全力疾走とはいえ、短時間でこの感覚になったのは初めてだった。
「やばっ!」
おかげで恐怖を感じる暇もなく、比較的冷静に状況を捉えられる。
角を曲がる瞬間、視界の端に掠るかと思われた人狼の姿は想定よりもずっと大きかった。
距離が詰められているのだ。
しかし、足音が大きくなっている感覚はない。
事実を把握した今でも聴覚だけなら距離はさして変わっていないと判断するだろう。
……意図的に足音を小さくしている?
果たして、その事に何の意味があるのか。メリットは残念ながら思いつかない。
などと、考えている間に手を伸ばせば触れられる距離まで来ていた。
流石に質量による圧迫感は消せないらしい。
久家はちゃんと逃げられただろうか。人狼は人肉を食べるのだろうか。二度の件を経て、油断していたのではないだろうか。
思考が早くなったのか、時の巡りが遅くなったのか、懸念や疑問、反省が一斉に過る。
――これは、ダメなやつだ。
スローモーションの世界の中、ゆっくりと振り返る。
酸欠からか色が失われたキャンパスでも、彼の瞳は色鮮やかに輝いていた。
冷たく、寂しい色。
伸ばされた杭の如き爪への恐怖よりも、目の前の存在への疑問が上回る。
何故、それ程までに悲しそうなのか。
問いかけたい気持ちとは裏腹に唇は張り付いたように動かない。
俺の動きも遅くなっていたのか。今更ながら気づき、心の中で苦笑する……。
「ガアアアアッ!?」
「……え?」
寸前で突如消えた凶器に呆然としていると、後ろから見知らぬ男の声が響く。
「こっちだ! 早く!」
未だ思考は停止したままだったが、幸いにも体はすぐに反応してくれた。
体を反転させ、声の主の方向へと走り出す。
寸前、目に捉えた人狼は蹲り、小さく震えていた。
「この部屋に!」
「は、はい!」
長身の男性に導かれるまま、曲がった先の部屋に飛び込む。
男性は即座に扉を閉め、バッグから取り出した何かを貼る。
反射的に質問しようとした俺の口をそっと塞ぐ。
そして、ジェスチャーで静かにしててと告げてくる。
はっと我に返り、慌てて首を縦に振る。
男性は、ふっと優しく微笑み、すぐに真剣な表情で外の様子をうかがう。
10秒……。
20秒……。
30秒……。
男性は安堵のため息を漏らす。
そのまま、床へと座り込む。
「だ、大丈夫ですか」
「ええ、もう大丈夫ですよ」
男性の心配したのだが、人狼の事だと勘違いしたらしく安心してくださいと言われてしまう。
「い、いや、人狼の事ではなくて、貴方が大丈夫かなと……」
おずおずと訂正すると、男性はポカンとした様子を見せ、次の瞬間、小さく笑いだした。
当然どうしたのだと戸惑っていると、男性はすみませんと口にし、
「彼に追われていたというのに、私の心配をするだなんて……。ふふっ、君は良い子なんですね」
「うっ」
褒め言葉なのはわかっているが、そのフレーズは最近妙に聞きなれてしまったため複雑な顔をしてしまう。
案の定、男性は俺のリアクションに首を傾げている。
「あ、最近、後輩にも似たような事をよく言われているので」
「それは、良い事ではないですか」
「ま、まあ、そうなんですけど……。あれは、からかっているだけなので」
「そうなんですか? もしかして、意地悪な子だとか」
「意地悪……ではないです。どちらかというと善人だと」
意地が悪い所はあるが、悪いという字面を当てはめて良い人間ではない。
変わり者と聞かれたら全力で肯定できるのだが。
「じゃあ、信じてあげてもいいじゃないですか」
「…………」
正論だったが素直には頷けなかった。
俺はひねくれものなのだろうか。
「……良いですね。青春って感じがして」
「えっ!?」
今の流れで何故その結論になる!?
「いのち短し、悩めよ若人」
「……それ、乙女では」
「らしいですね。元ネタを知らないから好き勝手に変えてしまいました」
パッと見は大人っぽい雰囲気だったが、今のやり取りなどはとっつきやすく、そう変わらない年代にも感じた。
「あの……」
女性相手だとためらわれるが、同性なら良いだろうと年齢を聞こうとした所で気づく……まずは名前だろと。
「あ、吉井秀人っていいます」
「おっと、自己紹介を忘れていましたね。僕は、近江貴幸です」
「近江さん、ですか」
「そうですよ、秀人君」
「お、おお」
いきなり下の名前、しかも君付けとは。
俺の周りにはいなかったタイプだ。
過るサッカー部の先輩及びOB達。
やはり、体育会系とそれ以外の差なのだろうか。
それとも、先輩達が特別粗暴なのか。
「僕の事も下の名前で呼んでくれると嬉しいです。同じ苗字の人が周りに多かったので、どうにも上で呼ばれると違和感があるんですよ」
「わ、わかりました。……その、貴幸さん」
「ふふっ、敬語もいらないですよ」
「そ、それは流石に……。というか、貴幸さんの方こそ敬語はやめてください」
年上が丁寧に接してくるのはどうにもなれない。もっと雑の方がこちらも楽だ。
「そうですか? ……っと、そうなの? なら、もうちょっと砕けた物言いにするかな。流石に十近く上のオッサンから敬語使われたらやりづらいよね」
「助かります……」
というか、十近くって事は二十代後半なのか。
外見だけなら驚きだが、先程までの凛とした雰囲気であれば違和感はない。
あと、オッサン自虐はどこに地雷があるかわからないからスルーする。
「ところで、秀人はなんでこんな所に来たのかな?」
「あっ!」
貴幸さんの言葉に久家の事を思い出し、立ち上がる。
「ありがとうございました! 俺、友達を探しに行かないと!」
そう言って扉を開けようとした所、貴幸さんは、
「あ、やっぱり桜花さんの言ってた先輩ってのは君の事なのか」
「……はい?」
桜花、さん。
俺、久家の事は口にしていないよな……?
「まあ、他に誰がいるんだよと言われたらそれまでだけど、一応仕事柄安易に信じないようにしているんだ」
「仕事……って事は」
「僕も桜花さんと同じく見える者だよ」
そうでない人間がこんな所にいないでしょと笑って言う。
何やら人狼への対処法も知っていたし、冷静に考えればわかる事なのだが……。
どうやら、思っていた以上にてんぱっていたようだ。
「桜花さんについては心配いらない。先に館の外に出してあるから」
あの人狼は理によって館の外に出る事はできないと続ける。
「理というのは……都市伝説の内容の事ですか?」
「そうだよ。まあ、理の中には怪異特有のものもあるけど。例えば人狼は銀の弾丸で殺せるとかね」
多くの者が潜在的にそうであると思っている事も反映されるのだという。
「もちろん、その都市伝説に登場する人狼が“銀の弾丸が効かない”という設定であれば意味をなさない」
故に、時代の移り変わりにより、基本性質が変化する事も往々にしてあるらしい。
「そういえば、あれって幽霊なんですか? 今まで見てきたのが全部人型だったので」
二件だけだが嘘は言っていない。
それに、人狼に近い幽霊など流石にいないだろう。
「……桜花さんからどんな説明があったかはわからないけど」
目を細め、貴幸さんはジッと扉を、その奥を見つめる。
「あくまで優先度は都市伝説なんだ。見た目上は適合率が高い幽霊や人が選ばれているが、その解釈を行っているのはあくまで人でしかない。本当の意味を知る者も知る方法もないんだ」
都市伝説を具現化する“存在”はいない。いたとしても認識できていない。
「理不尽に幽霊が……その魂が歪められる光景を僕は何度も見てきた」
あの人もその類だと貴幸さんは悲しそうに呟く。
「桜花さんは見た事がないらしいから無理もないけどね」
そういえば、河童の話の時にそのような反応をしていた。
未確認生物関連の話は誰も口にしたがらないと。
その答えなのかもしれない。
「……珍しいケース、なんですか」
「どうだろう。確かに人の形をしていないのは珍しいかな。彼の場合は半分人でもあるけど」
半分人、か。
「だから、あんなに悲しそうにしていたんですね」
「……悲しそう? そう見えたのかい?」
貴幸さんが喰いついてくる。
人狼に中にいる幽霊が見えたとでも勘違いされたのだろう。
「じ、人狼が悲しそうな目をしているなってなっただけです」
「人狼が……」
「気のせいだと思うんですけど」
目がと言ったものの、瞳孔がとか目の周りの筋肉がとか具体的に説明できない。
あくまで、俺の感覚であり、よくよく思い出してみれば気が昂ったようにしか見えない気もする。
「いや、感覚は大事にした方が良い」
しかし、貴幸さんはその感覚を大事にしてほしいと言ってきた。
「僕や桜花さんはなまじ見える分、そこらの感覚が鈍くなっているんだ。知っているかな、霊体だと人はとても正直なんだよ」
だから、生身の人間と関わるのが億劫になる人もいるとか。
「僕は根っからの嘘つきだから、そういった隠す行為に嫌悪感は抱かなかったけどね」
「う、嘘つき?」
満面笑みで己を嘘つき呼ばわりする。
もうこれこそが嘘なのではないだろうか。
確かに、爽やかすぎて胡散臭く感じる部分はあるが、とてもではないが、そんな人には見えなかった。
悪ぶりたいのだろうか。そういえば、久家もその気がある。
「そうだよ。だから、秀人君も僕をあまり信じないように」
「は、はあ」
これも自虐芸だろうか。
反応に困る。
「あ、でも、さっきの言葉は本当だから信じてほしい」
「感覚をって話ですか?」
貴幸さんは強く頷く。
「秀人君、頑固っぽいから大丈夫そうだけど、嘘に違いないと穿って見られたらあれだから」
「……頑固っぽく見えますか?」
遂に初対面の人にまで言われてしまった。
心のどこかで言うてそんな事はないだろうと思っていたのに。
「ご、ごめん。気にしてたんだ」
「気にしてないです……」
嘘です。結構、気にしています。
これでも柔軟に生きてきたつもりだったのだが。
「えっと……そ、そう! 自分を持っていると言いたかったんだ。ブレない精神、熱い魂、よっ若人!」
「盛り上げ下手ですね」
「ぐはっ!」
心に深刻なダメージを受けたと言いながら貴幸さんは扉を開ける。
心なしか廊下が先程より明るい気がする。
「よし、大丈夫そうだね。じゃあ、一旦出ようか。桜花さん、心配で胸が張り裂けそうになっているだろうし」
「そ、そんな事ありますかね」
夕暮れ広場の幽霊の時、無茶をするな馬鹿者めと説教を喰らったが、どうにも胸が張り裂けそうな程、心配する久家の姿は思いつかない。
「ふふっ、どうかな」
意味深な笑みを浮かべ、貴幸さんは扉を閉めるのだった。