知らぬが仏とはこのことか
最初の手術から3ヶ月。
右眼の手術の経過が良いので、右眼の人工水晶体を入れる手術と、左眼の網膜剥離の手術のため、再び入院した。
今回の網膜剥離の手術の担当も東京の大学病院の先生。
そう、あのニコラス・ケイジ似の渋い先生である。
手術前の診察で久しぶりに会ったが、手術前なのに自然と落ち着いた。
今、振り返ると、声が津田健次郎さんに似ていたからかもしれない。
それを考えると、これまでの作品にはないが、いつか津田健次郎さん吹き替えのニコラス・ケイジ作品を見てみたいものである。
右眼の人工水晶体の手術は、一番最初に診察し、今後私の主治医となる先生だ。
前回の入院中に分かったのだが、この総合病院の院長先生だった。
主治医は、白内障の専門らしく、私が白内障の症状を訴えていたので、私の初診の担当になったようだ。
主治医とは、この後も長い付き合いになるし、他の医師との区別をしやすいように、これからは『とっつぁん先生』と呼ぶようにしよう。
このネーっミングの由来は、また別のエピソードでお話しよう。
さて、これから2回目の網膜剥離の手術の話をしよう。
ただ、ここからは少々衝撃的な話になるので、手術に関わることに忌避感がある方は、今回の話はここまでで退室されることを推奨する。
ニコラス・ケイジ似の医師の診察の後、手術室手前の部屋へ行き、前回同様手術台に上がり、眼の消毒などを済ませて、手術室へ移動し、点滴などを付けた。
『前と変わらないじゃないか。』
と、安心していたが、ここからは前回と異なり、私は内心で叫びまくる1時間となった。
前回は全身麻酔だったので、点滴の後にマスクを付け、深呼吸をした後からの記憶がなかった。
しかし、今回は短時間で終わる手術だったため、部分麻酔だった。
点滴の後、眼を開いたままにする器具が付けられ、何種類もの目薬が点眼された。
手術台の上の手術用のライトが眩しかったことと、大量の点眼のおかげで、かなり視界がぼやけた。
しかし、耳ははっきりしており、周りの音はよく聞こえる。
そして、麻酔担当の医師の声。
「はい、麻酔します。右の方を見て下さい。」
と、言われ、眼を右に動かすも、
『ぎゃー!視野の端になんか近づいて来るのが見える!』
と、怖くて眼を瞑ろうとする、瞼が閉じたのは、布を掛けられて暗闇しか見えない手術しない右眼だけ。
ただ幸い、眼の近くでは焦点が合わず、更に視野の周辺部では視力が低いことなどから、影の動きから眼の周辺で何かが動いていることは分かっても近づいてくるものが何であったかは分からなかった。
もしはっきり見えていたら、心の中の悲鳴だけでは済まなかっただろう。
この前回と違う手術開始だけで、かなりの緊張が走り、お陰で瞼だけでなく、全身に力が入り、汗をかくこととなった。
その後も2回麻酔の注射が打たれたが、点眼や1回目の麻酔の注射が結構効いていたようで、刺された感覚はなかった。
いよいよ本題の手術が始まった。
眩しさとぼやけで何をやっているのかは分からないが、眼の上で何かやられていることは、影の動きや周りの声や音から分かったので、落ち着かなかった。
私だって、予防注射、点滴や採血はやったことがあったし、歯の治療で麻酔もしたことはある。
このような経験と、前回眠っている間に終わっていたことから、最大の試練は、術後の『1週間下向きな生活(物理)』と考えていた。
しかし、違った。
振り返れば、予防注射も採血も、はたまたちょっとしたすり傷のような治療でさえも、その現状を見るのが嫌で、眼を瞑るか、顔を背けてい。
見なかったからやり過ごせていたということに気付いたのだ。
眼を閉じたい衝動にかられても、それができないため、気を紛らわすために、バイタル測定器から聞こえる音をきいたり、津田健次郎似ボイスの医師の声を聞くようにしていた。
それでいくらか落ち着いたが、影が動くたびに緊張し、体が硬くなることは、手術が終わるまで続いた。
手術が終わった後、いっきに脱力したが、同時に、あの過酷な『1週間下向きな生活(物理)』が始まるのかと思うと憂鬱になっていた。
駄菓子菓子、手術室を出る前に、津田健次郎似ボイスで予期せぬ素晴らしいお言葉をいただいた。
「今回の剥離は軽症だったので、硝子体は取らずガスを入れませんでした。だから、下を向かなくて大丈夫ですよ。」
あまりの嬉しさにp、
「本当っスか!いやー、良かったー。すげーありがとうございます!」
と、叫んでしまった。
明日からも上を向いてこの世界を見られることの、なんと素晴らしいことか!
この世の全てに感謝である!
ということで、世の中には知らない方が幸せな事象はあるもんだ。
『知らぬが仏』を体感した2回目のしゅじゅつであった。