世界が眩しくて見えない(物理)
自分が見ている世界の異変に初めて気付いたのは、多分大学4年の頃だったと思う。
友達と遊ぶため、電車で移動している時だった。
車窓から外を眺め、並走している線路を見た時、線路の一部が歪んで見えた。
しばらく走る電車の中から線路を眺めていると、視野のある一定の場所で歪んで見えていることが分かった。
高校の頃から近視と乱視で眼鏡を使っていたので、眼鏡が合わなくなってきたのかなと思ったのを記憶している。
私は、自分の学力と興味関心から、地元の大学の教育学部に進学した。
私が大学を卒業する頃は、後に言われる『就職氷河期』だった。
また、教員採用試験も倍率が高く、新卒で合格する数は少なかった。
一般企業就職を考えたが、就職活動が億劫で、教員採用試験に加え、国家公務員試験や地方公務員試験を受けてみた。
教員採用試験はダメだった。
しかし、有り難いことに、地元の地方公務員試験に合格した。
初任は実家のある市から電車で50分のところにある市での勤務となり、初めて一人暮らしをした。
職場近くにアパートを借り、自転車で通勤した。
働き始めて1ヶ月が経った5月、眩しくて信号がよく見えないことが増えてきた。
外で見えにくい時に、目の上に手をかざしたり、手を筒状に丸めてそこから覗いたりすることが増えてきた。
その頃は、日差しが強くなったからだと思っていた。
その後も定規を使って線を引く作業の時に、以前線路で見たように、引いた線の一部が歪んで見えることが多くなった。
夜、月を見ると、二重に見えるようになった。
トレーナーやTシャツを着る時に、首のタグを見落として、前後逆に着ることが増えてきた。
休日に自転車で走っていた時、輪止めのポールに気付かずにぶつかり転倒した。
随分乱視がひどくなってきたもんだ。
新しい眼鏡を新調しないといけない。
そう思い、眼科を探していたら、ちょうど近くに総合病院があった。
視力検査のあと、自分の父母より年上と思われるベテランの医師の診察を受けた。
眼内を見たあと、医師が険しい表情になり、視野検査と超音波検査の指示が出た。
検査が終わって、再び医師の診察。
「右眼は、網膜が下半分剥がれている。左眼の網膜は下の端が少し剥がれている。網膜剥離だ。来週、東京の大学病院の先生が来るから、3日後に入院だ。」
予想していない医師の言葉に対し、自分の眼の状況より、急な入院手術の日程が気になってしまった。
「来週は、私が企画・運営の仕事があるので、それ以降に手術できませんか。」
すると、
「何言ってんだ!このままじゃ失明するぞ!」
と、まるで父親に怒られたかの如く、怒鳴られてしまった。
しかし、『失明』という言葉を聞いてもなお、突然のことだったからなのか、仕事どうしようかということが頭の中を占めていた。
とりあえず、3日後の入院と手術に了解し、細かい説明を聞いた。
右眼は下半分網膜が剥がれているので、すぐに手術が必要である。
剥離が大きいので全身麻酔で手術を行う。
左眼の剥離は小さいので、右眼が落ち着いてから手術をする。
網膜剥離に加え、両眼とも白内障を併発している。
網膜剥離の手術と併せて、水晶体の摘出手術もする。
通常の白内障の手術では、水晶体と人工水晶体を入れ替えるが、今回は人工水晶体を眼底が安定してから入れるので、それまでの間は眼鏡に凸レンズを入れて過ごすようになる。
ここまで説明を聞いたら、やっと『私ヤバいじゃん。』って思うようになった。
と同時に、1年前から感じていた異変の原因が分かった。
線路や線が歪んで見える、月が二重に見える、輪止めのポールや衣服のタグを見落とす、これらは網膜剥離で眼底が歪んでいたから。
眩しくて見えにくかったのは白内障による羞明。
こんな大変なことになっていたのかと思いながらも、その後父母や職場に落ち着いて連絡し入院準備をした。
今思い返せば、失明のリスクがかなり高かったにも関わらず、随分と落ち着いていたと思う。
それは何故だったのかと考えると、多分『痛くなかった。』からだと思う。
逆に言うと、痛くなかったから、生活に支障をきたすまで重篤性に気付けなかった。
ということで、私からのお願いである。
大好きな彼氏や彼女の笑顔が眩しくて見えないのは喜ばしいことだが、もし、世界が歪んで見える(物理)、世界が眩しくて見えない(物理)ことがあったら、すぐに病院に行って欲しい。