あたらしい日本語を作ったお話(今日のお話はちょっとだけ重たいかもしれません)。
「あたらしい日本語を作って2巻に載ったので、その語句を当ててください☆」そう先日のエッセイで募集しました。結果はお一人の方が応募してくださいました♪ ……やはり反応が薄ぅ~い気がします。でもその方は2回も読んでくださって、ご家族にも読んでもらったそうなので嬉しかったです♪ 局地的に熱いご反応を頂くことができたので、私は大満足です♪ ありがとうございました♪
では、正解の発表です! 答えは「捨てられ子」です。
辞書には載っていない言葉です。ゆえに担当さまや校正さまとバチバチのバトルを繰り広げました! 厳しい戦いでございました! もともとの語句は「捨て子」です。もちろんお二方は「捨て子」と書くようおっしゃいました。それが一般的な語句ですし「捨てられ子」なんて書いても読者さまだって「???」になるかもしれません。お二方のおっしゃることは理にかなっています。でも私は修正しませんでした。「日本語にない言葉なら私が新しい日本語を作ります!」そう大風呂敷を広げて反論し、最後は私の意見が通って掲載の運びとなりました。
どうして私がお二方を向こうに回してまで、この語句にこだわったのかを書きます。
私の父方の祖母は、とても優しい祖母でした。若い頃に夫を亡くし、女手一つで娘二人と息子(← 私の父)を育てあげました。真っ白な髪の毛はおばちゃんパーマで、コロコロと太って小柄な人でした。口癖は「ありがとう」で、いつでもニコニコしています。末っ子だった私の父には激甘で、孫たちのことも溺愛していましたから私もずいぶん可愛がられました。
こんな祖母ですけれど、ちょっと掴みどころのない人で、詳しい理由はよくわかりませんけれど大金持ちでした。祖母が言うには「地道に貯金をした結果」らしいのですけれど、それだけにしては多すぎやしないか? 詳しい金額はわかりませんけれど、祖母の家にあったティッシュやタオル、サランラップなどの日用品はぜんぶ銀行や郵便局からもらったお品でした。証券会社のもあった気がする。それらをもらうには、ものすごい金額の取り引きをしているらしいということは、お金にうとい私でもわかりました。
そんな祖母はいつも私に「マチちゃん、株にだけは手を出したらいけんよ」そう言っていました。どうしてなのか理由を聞いてもはぐらかされるのがオチでしたけれど、よほどイタイ目に遭ったのでしょう。
そんな祖母は長い間ひとり暮らしをしていました。小さな借家で慎ましく(←ケチケチ生活ともいう)暮らしていました。たまに遊びに行くと食パンにぶ厚くマーガリンを塗って、その上に白砂糖を敷き詰めたパンと、薄いインスタントコーヒーを出してくれました。祖母が食べるパンには何も塗っていませんでしたから、ぶ厚いマーガリンと大量のお砂糖は、祖母なりのおもてなしだったのだと思います。
私は20代になり、それなりに大人の会話もできるようになったので、祖母にアレコレ聞いていました。祖父とどうやって知り合ったのか、どんな生活をしていたのか。
祖母が言うには祖父はイケメンで賢い人で、皇宮警察で騎馬隊として勤務していたそうです。祖父と祖母は遠縁で、親戚たちが話し合って結婚をすすめ二人は結婚したらしい。第二次世界大戦中は家族で満州へ渡って、祖母は電話交換手の仕事をしていたらしい。敗戦とともに日本へ帰ってきて、福岡県の小倉で電話交換手をしていた。
……ウソだと思います。祖父が騎馬隊だったなら祖母は寡婦年金をもらっていたはずです。そんなの聞いたこともない。それに祖母が電話交換手をしていたなら電電公社の社員だったはず。寡婦年金がもらえなくても、厚生年金は確実にもらえたはず。だけどそんな話も聞いたこともありません。私が記憶しているかぎり、祖母はずっと個人病院で下働きをしていましたから、花形の職業だった電話交換手をしていた時代があったとは思えない。言っちゃわるいが学歴も資格もない祖母は、見栄を張ってウソをついていたのだと思います。
でも、これは本当の話かなぁ?というのがあります。
祖母:満州から日本へ帰るとき、中国の人に娘が欲しいと言われた。日本に帰っても子どもたちを育てられるかわからなかったから、よほどもらい子に出そうかと思った。でも最後のさいごで踏みとどまって全員連れて帰ってきた。
これは本当の話だと思います。何度か同じ話を聞いたし、この話をする時の祖母はとても厳しい顔をしていましたから。でもこの話も、半分は本当で半分はウソでした。
わたしが30代になった頃、とつぜん伯母が一人増えたのです! この伯母の存在は誰も知らず、家族全員が驚きました!!
じつは祖母には娘が3人いたのです。長姉、次姉、三姉、そして末っ子の長男。この三姉を遠縁の裕福な夫婦に養女として渡したらしい。長姉も次姉も三姉の存在を知らなかったので、おそらく三姉が生まれる前から話を決めていて、生まれると同時に養女へ出したのでしょう。
三姉は何も知らないまま大切に育てられ、当時はまだ珍しかった短大を卒業します。ちなみに長姉、次姉は中学校卒ですから、かなり大きな開きがあります。そしてお茶やお華をたしなみ、一流の会社に就職して職場結婚。結婚退職してから子宝にも恵まれて裕福な実家からお小遣いをもらいつつ、一流会社に勤務する夫の稼ぎで都会にそれなりの家を建てて、何不自由なく暮らしていました。
そうこうするうちに三姉の両親(じつは養父母)が相次いで亡くなり、両親がいなくなって心細い思いはあるものの、子どもたちは成人して働くようになり、そのうちご縁があれば孫を抱けるかもしれないとのほほんと暮らしていたときに、一本の電話が……。
三姉:もしもし?
祖母:〇〇ちゃん? 〇〇です。
三姉:〇〇おばさま? お久しぶりです。
祖母は三姉の養父母と遠縁だったので、親戚として付き合いがあったらしい。三姉は年賀状などで祖母の名前を見て知っているので、親戚のおばさんという認識だったそうです。
祖母:いままで黙っていて、ごめんな。じつはわたし、あんたの母親なんよ。
三姉:え?
祖母:わたしがあんたを産んで、あんたのお父さんとお母さんに養女に出したんよ。
三姉:そんな……! 両親はそんなこと一言も言わず亡くなったのですが……!
祖母:ごめんな、ごめんな。あんたの本当のお母さんはわたしなんよ。わたしも年やし、あと何年生きられるかわからんと思ったら、どうしてもあんたに言いたくなって……。
三姉:そんな……。
わたし、この話を聞いたときめっちゃ腹立ったんですけど、皆さまはどうですか? 三姉の養父母は、彼女が養女だとひた隠しに隠して口をつぐんだまま亡くなりました。三姉は自分が養女だとまったく知らなかったそうですから、ご両親の苦労がしのばれます。いくら戦後のどさくさとは言え、戸籍を見たら一発で養女だとわかるはずなんです。三姉は進学している(戸籍が必要)、就職している(戸籍が必要)、結婚している(もちろん戸籍が必要)のに自分が養女だと知らなかったのですから、相当うまいこと隠したか、ありえない方法を駆使して実子としたか……。または特別養子縁組をするために、出産直後の子を受け容れたのか。いずれにしても絶対に養女だと知られたくなかったのだと思います。そして大事な一人娘として手塩にかけて育て上げ、静かにこの世を去っていった。
それなのに祖母はそんな二人の思いも汲まず、自分勝手な都合で三姉に自分が母親だと名乗り出たのです! あんた、可愛い娘を捨てたやんなぁ!? どんなに綺麗事を並べてみても、可愛い我が子を手放した事実は変わらへんで! あんたは我が子を捨てたんや!!
祖母とわたしは仲良しでしたから、祖母からこの話を聞いたことがあります。祖母は涙ながらに言っていました。戦後の混乱期に女一人で子どもを4人も育てることはできなかった。裕福な家庭にもらわれて大事に育ててもらえるなら、そちらのほうが三姉にとって幸せだと思った。
わたしは三姉とも付き合いがありましたから、この時のことを三姉から聞いたこともあります。ずっと親戚のおばさんだと思っていた人が自分の母親だと知ったとき、あまりにショックで言葉が出なかった。ずっと両親だと思っていた父母と本当の親子じゃないと知ったとき、自分の今までの人生は何だったんだろうと思ったし、いまでも答えは出せずにいる。
わたしは祖母のことが大好きです。けれどもこの一件だけは許せません。そんなことを祖母に言っても仕方ないので祖母が死ぬまでわたしの意見は表明しませんでしたけれど、心の中でずっと怒っていました。
祖母は我が子を捨てたんです。その子は「捨てられた子」なのです。
祖母が母親の名乗りをあげてから三姉とわたしたちの交流が始まりました。けれど三姉は祖母とどう接していいかずっと戸惑っているようすでしたし、母娘らしい交流をすることはありませんでした。それから数年後に祖母が他界。わたしの父(祖母の長男)は他界していましたから、葬儀などは三人の娘が中心となって行いました。三姉は遠いところに住んでいるので滅多に会うことはありませんでしたけれど、なぜか三姉はわたしを気に入ってくれて、ときどき電話で話したりしていました。
三姉は結局、夫や子どもたちに自分が養女だったと告げず、わたしたち親族の存在はひた隠しにすることを決めました。三姉にはわたしと同じ年齢の娘がいるので、わたしにとって同じ年齢のいとこなのですが、彼女はわたしの存在をまったく知りません。
三姉:娘にマチちゃんのことを言っても、混乱させるだけだと思うの。わたしが突然養女だったと言われて傷ついたり、混乱したのと同じ思いはさせたくないの。だから、ごめんなさいね。マチちゃんのことは秘密なの。これからもずっと……。
田舎で中学校卒業の姉たちと、都会で短大卒業の三姉は、けっきょくうまくいきませんでした。当初は姉ができたと三姉も喜んでいたのですけれど、なにしろ育ちがちがう。共通する会話がないのです。
三姉:マチちゃん、どうしたらいいのかしら? お姉さんたちと仲良くなりたいと思うのだけれど、どうしたらいいかわからないのよ。
ソウ:ちょっと……むずかしいでしょうね……。
長姉も次姉も良い人なのですけれど、好きな話題はゴシップやウワサ話です。仲良くなるのはかなり難しいと思うし、仲良くなっても得ることは少ないかと……。そうこうするうちに姉妹同士の交流は薄れ、わたしも自分の生活で忙しくなって三姉との交流は途切れてしまいました。
長々とすみません。やっと本題に入ります。あまりに長すぎて何が本題だったか忘れそうになっていました。「捨て子」という語句を「捨てられ子」にした理由です。
「捨て子」という語句は「捨て(た)子」だと思います。祖母が三姉を指すときに使う言葉です。そうは言っても祖母が生きていたら捨ててない、捨て子じゃないと美辞麗句で飾るでしょうけれど、わたしは聞く耳持ちません。
次に三姉の立場で考えてみます。「わたしは捨て(た)子です」。これって、おかしいと思います。捨てるという行為をしたのは祖母なのに、まるで三姉が捨てたみたいになる。三姉は「捨てられ(た)子」です。彼女は何もわるくないし、被害者です。それなのになぜ、加害者側の言葉で自分を表現しないといけないのでしょう? 自分は悪くないのに、どうして「捨て子」なんてひどい言葉で自分のことを表現しないといけないのか? 捨てられただけでも悲しいのに、自分のことを「捨て子」なんて言葉で表現したいか?
わたしなら死んでもイヤです! 絶対にイヤ!!
捨てられた事実は悲しいですけれど、それを端的に表現するなら「わたしは捨てられた子です」となる。そういう子は一般的に「捨て子」と表現されるから、そちらのほうが正しい…………なんて、わたしは1ミリたりとも思わん!! なんで被害者が加害者の立場でモノを言わんといけんのや!? 被害者は受け身の側や! やらかしたヤツの立場で言う必要なんてない!!
そういうわけで断固として「捨て子はイヤです!」と主張しました! いくら読者さまが少ないとは言え、中には親から捨てられた子がいるかもしれません。その子が本を読んだときに「わたしは捨て子なんだ」と思ってほしくない! 捨てる行為はもちろん許せませんけれど、捨てられた子を正確に表現するなら「捨てられた子」や! 百歩譲って「捨てられ子」や! そこから先は絶対に譲らん!! 三姉の切ない気持ちと、いつかこの本を読むかもしれない子たちのために、わたしは譲らんぞ!!
伊賀の名誉をかけて「日ノ本一」という語句でも校正さまとバトルを繰り広げましたが、こちらは意味合いがまったく違います! 「日ノ本一」は大好きな伊賀のために頑張りましたけれど、ダメかもしれない……と思っていました。ダメなら、あきらめる。でもこちらはまだ出会ってない子たちの生きざまの話です。 ここだけの話、この「捨てられた子」という語句が採用されなかったら出版をあきらめようと思っていました。もちろん本は出して頂きたいですし、印税だってほしいです! でも自分の承認欲求や損得よりも大事なことがある! 誰もなにも思わないかもしれないけれど、わたしはこの言葉に想いを込めているんだ!!
捨てられた子は悪くない! あなたは何も悪くない! 捨てられた子も育児放棄された子も、児童虐待を受けている子も悪くない!! あなたは何も悪くないです!! だから生きて!! そういう想いが詰まっています。
そしてこれが主題の「生きててくれて、ありがとう!」に繋がります。大事なあなたが生きている、それだけで私は心から感謝します! たとえお会いしたことがなくても私はあなたをとても大切に想っていますし、いつでもあなたの幸せを願っています! 死にたくなるほど辛い時があるかもしれませんけれど、そんなあなたの幸せを祈っている人間がここに一人います! あなたに伝えたい想いがあるのに、言葉が見つからない。それなら新しい日本語を作ってやろうじゃないの! ないなら私が作るよ!! そしてあなたに楽しい一時をお届けするために、私は精一杯頑張るよ!!
これが事の顛末です。
ここまでお読みくださって、本当にありがとうございました。そしてここまで読んでくださった「あなた」のことも、私はとても大事に想っています。どうか幸せになってください。たくさん笑ってたくさん楽しい時間を過ごしてください。
あなたにたくさんのイイコトがありますように☆ どうぞ良い一日をお過ごしください☆